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風土記の地名物語――常陸国1

 風土記は各国司から朝廷への報告文書(解文 げぶみ )です。常陸国風土記では、冒頭に「常陸の国の つかさ の報告。古老が代々語って来た古い言い伝え」とあり、続いて常陸国(現在の茨城県)の地理的な成り立ちが歴史的に語られた後、地名の話題を中心とした報告へと続きます。

 浄い泉に触れる倭武 やまとたけるの手

 倭武天皇やまとたけるのすめらみことは東のえみしの国をご巡察なさって、新治にいばりあがたを過ぎようとしていました。国造くにのみやつこ那良珠命ならすのみことを遣わして井戸を掘らせたところ、泉が流れ出しました。水は浄く澄んでいて、とても好ましかったので、倭武天皇は乗っていた御輿こしを停め、水をもてあそんで手をお洗いになりました。

 その時、御衣みけしの袖が泉に垂れて袖をひたしましたので、この国を常陸という名になさいました 「筑波岳つくばねに黒雲かかり、衣の袖ひたちの国」と当地で言い習わしているのは、このことです。

 常陸は常世とこよの理想郷

 常陸国の境界は広大で、領域は遙か遠くまで広がり、耕地はよく耕されて、原野すらも肥えています。開墾された土地は山や海の幸に恵まれ、人々は自らの生活を楽しんでおり、家々は豊かでにぎわっています。

 もし、耕作に励んで、養蚕に力を尽くす者があれば、たちまち富を得て、自然に貧しさを免れることができるでしょう。その上、塩や魚の味を求めるなら、左は山、右は海。桑の木を植え、麻の種をまくのなら、後ろは野で、前は原。世にいうとことろの水陸の宝の蔵、物産の豊かな土地なのです。昔の人が不老不死の理想郷と言ったのは、もしやこの土地のことではないでしょうか。

 ただし、あらゆる水田は、上の部類のものが少なく、中くらいが多いので、年によって長雨が降ると、苗が育たないという嘆きが聞かれます。年によって日照に恵まれると、ただただ豊作の歓びを見ることになるでしょう。

 新治郡にいばりのこおりの地名の由来

 古老が語るのに、昔、崇神すじん天皇が、東国の荒々しい賊(「あらぶるにしもの」と土地の人は呼びます)を討伐し平らげようと、新治の国造の先祖である比奈良珠命ひならすのみことという者を遣わしました。

 その人はやって来て、新しい井戸をほりました(井戸は今も新治の里にあって、時節ごとに祭りを行っています)。そこからは浄い水が流れ出しました。この井戸をったことから郡の名前とし、今に至るまで名前を改めていません。

 常陸国1 解説
 常陸という地名については、倭武のエピソードの前に、直通ひたみち(ひと続き)の道で通行できることから――という起源も語られています。
 古事記や日本書紀では天皇に即位していないヤマトタケルが、常陸国風土記に「倭武天皇」として登場するのはなぜなのか、議論がありますが、定説はないようです。
 常陸国の豊かさを褒め讃えた後、新治郡を皮切りに国の各地域の報告に移ります。新治郡は現在の笠間市、筑西市、桜川市にあたる領域とされます。上記の崇神天皇(美麻貴天皇みまきのすめらみこと)は、ヤマトタケルの数代前の先祖にあたります。この後、賊の根城だった山の石室に隠れる恋人たちの歌などが紹介されます。
 見出しの写真は鹿島神宮の御手洗池です。神聖な湧水池の一例として。

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