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風土記の地名物語――常陸国13

 久慈郡くじのこおりの後編です。日立市常陸太田市の辺りが舞台となっています。なお、上の写真はイメージです(茨城県で撮ったものではありません)。

 薩都さつの里

 太田の里の北に薩都の里があります。大昔、ここに国栖くずがいました。名を土雲つちくもといいます。ここで、兎上命うなかみのみことが兵をさし向けて全滅させました。この時、兵たちが敵をよく殺したことを「さちなるかな」と言ったことから佐都さつと名づけました。この里の北側の山に産する白土は、絵を塗るのに適しています。

 木の上の神様

 東の大きな山を賀比礼かびれ*の高峰といいます。ここには天から降った神が鎮座していらっしゃいます。名を立速男命たちはやおのみことと称します。またの名を速和気命はやふわけのみこと。はじめは、天から降って、松沢の松の樹がたくさん枝わかれした上にいらっしゃいました。

 神のたたりは大変に厳しいものでした。人が神の方を向いて大小便をした時には、災いをもたらし、病によって苦しめました。木のすぐ近くに住む人たちは、いつも辛く苦しい思いをしていたので、そのありさまを述べ、朝廷に請願しました。

 朝廷から片岡大連かたおかのおおむらじが遣わされ、うやうやしく神をお祭りして言いました。
「いま、ここにいらっしゃいますと、百姓おおみたからたちの家の近くにお住まいになることになり、朝な夕な、けがらわしい限りです。当然、ここにおいでになってはいけません。どうぞ避けて移り、高山たかやまの浄らかな場所にご鎮座なさってください」

 すると、神はその祈願を聞き入れ、とうとう賀比礼の峰に登られました。その社は、石を垣根としており、その中に神の一族が多数住んでいます。また、様々な宝、弓、ほこ、器の類が全て石となって残っています。

 およそ、どのような鳥も、ここを飛び過ぎるものは、みな急いで避けて飛んでいき、峰の上を通ることがありません。大昔からそうであって、今も同じです。山麓には小川があって薩都川と名づけています。水源を北の山に発し、南に流れて久慈川に注ぎ入ります。

 高市たけちの里

 高市という所があります。そこから東北二里の所に密筑みつきの里があります。村の中にある浄らかな泉を、当地では大井と言います。夏冷たくて冬温かく、湧き出た水が川となって流れます。夏の暑い時には、遠近おちこちの郷里から、人々が酒と肴を持って来て、男も女も寄り集まり、休んだり、遊んだり、酒を飲んで楽しんだりします。

 高市の東と南は海辺に面しています。海にはアワビ、ウニ、魚や貝の類がはなはだ多くいます。西と北には山野が控えています。椎、いちいかえ、栗が生え、鹿や猪が住んでいます。およそ、山と海から産する珍しい味わいの数々は、全部を記すことができないほどです。

 常陸国13 解説
 この後、助川すけかわの駅家をめぐる地名起源が記されていますが略します。
 薩都の里の「国栖」は、常陸国4などでも触れたように、土地の先住民を卑しんで呼んだものです。「土雲」も、個人や部族の名というより、先住民の一般的な名称を転じて名前として使ったように思われます。
「全滅」と訳したところは、原文では「誅滅ちゅうめつ」とあり、敵を罪あるものとみなして滅ぼしたというニュアンスです。風土記の記述は、古代の権力者の世界観が土台にあるので、こうした現代人には受け入れがたい側面があります。そうしたものも含めて風土記は成り立っています。
 歴史的な文書中のネガティヴな要素を無視したり、逆に現代的な見方で断罪するようなことを、私はしたくありません。これら全てを含めて、私は風土記を愛しています。
* 「賀比礼」の「比」は、実際には「田」の右に「比」。


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