誰が常陸国風土記を書いたのか?
翻訳とは精読なんだな、と常陸国風土記の現代語訳をしながら何度も思いました。ただ読んだのでは気づかないことに目を開かせてくれるのです。そうした発見の一つは、場所によって翻訳の難易度が大きく違うことでした。香島郡では、訓み下しでは文意がつかめず注釈に頼った訳になりました。他では、歌に苦戦することはあっても、地の文でここまで「わからない」とは滅多に感じませんでした。
常陸国風土記には複数の文体があり、複数の書き手が存在すると改めて確信させる出来事でした。風土記は領内各地からの報告を国司が責任者となって朝廷に提出したものなので、常陸国に限らず複数の書き手がいるのは当然です。ここで言いたいのは、そうした報告を提出用の文章としてまとめた者が常陸国では複数いただろう、ということです。
常陸国風土記の編纂者が誰なのか記録はありません。有力な候補としては、「はるかな昔 後書き」で紹介した橋本雅之氏のように、藤原不比等の息子である藤原宇合をあげる人が多く、これを定説とする学者もいます。また宇合の下僚として、万葉集の物語歌人として知られる高橋虫麻呂が携わったとする説もあります。一方で、三浦祐介氏は、こうした推定を「有名人病」と切り捨て、また現存する史料の限界から確とした結論は得がたいと八木毅氏は述べています。
宇合の名があがるのは、常陸国風土記の漢文の水準が高いこと、編纂時期と彼が常陸国に赴任した時期とに大きな齟齬がないからです。宇合は有能な武人であると共に、万葉集に和歌、懐風藻に漢詩が多数採られる著名な文人でもありました。ただし、彼が国司であったのは、朝廷から各国にその土地について報告をあげよと詔が出された和銅六年(西暦713年)からするとやや遅いので、否定的な論者もいます。常陸国風土記編纂当時の国司とその就任時期は――阿倍秋麻呂、和銅元年(708年)3月。石川難波麻呂、和銅7年(714年)10月。藤原宇合、養老3年(719年)正月。
阿倍、石川両氏は文人としての業績が残っていないのですが、当時の高級官僚に漢文の素養は必須であり、前述の虫麻呂と合わせて四人が編纂者の候補としてあげられます。しかし、私はもう一人、論じられることの少ない「詩人」を五人目に加えたいのです。その人物は、阿倍、石川のどちらか、あるいは両方に仕え、下僚として常陸国風土記編纂に携わったと考えられます(永井義憲氏らの説)。詩人としては、万葉集に短歌八首、懐風藻に漢詩一首が載せられています。
常陸国風土記については、明治から昭和にかけて、文学性が高いとする評価がありました。華麗な四六駢儷体を駆使するなど、書き手の漢文の素養が高いとみられたためです。ただし、折口信夫は、これを当時の「ハイカラ趣味」に過ぎないとみて「つまらぬもの」と決めつけています。事実、美文で描かれた情景描写などの多くは、私にも「つまらぬもの」と感じられました。しかし、常陸国風土記の文章にはハイカラ趣味ではすまない美点があるのです。
まずあげたいのは、前回も触れた喚起力の強い描写です。また、民衆を生き生きと描いた文章があることも、他の風土記にない特長です。他では、民衆の姿は滅多に出て来ず、伝承や神話に仮託される場合が殆どなのです。当時の高級官僚は、民衆の生活を文章にするなど思いつきもしなかったでしょう。まして、彼らが身につけた漢文の作法に、人物の描写があったはずはありません。そうした文章が現れるのは「未来」のことです。
しかし、常陸国風土記では、行数は少ないものの、人の動作や民衆の描写が鮮やかになされています。時代の常識にとらわれず、真の詩人の感性や能力を持った「五人目の候補者」を私が考える由縁です。候補者の名前は春日蔵首老と言います(春日蔵という一族で、その姓が首、名が老)。僧侶であった時期があり、僧名は弁基。
万葉歌人としては「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は」の歌で知られていますが、短歌に無知な私は、常陸国風土記にかかわるまで聞いたこともありませんでした。次回、老が常陸国風土記の重要な書き手であることを主張します。
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