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風土記の地名物語――常陸国11

 那賀郡なかのこおりは省略が多く、短か目めなので、1回にまとめます。巨人伝説の後、古事記の三輪山みわやまの神話を連想させる蛇神の話が語られます。場所はいずれも水戸市の辺り。前回の千葉県(下総しもふさ)との境界近くから一気に北進しました。

 巨人の里

 平津ひらつ駅家うまやから西に一、二里の所に丘があって、名を大櫛おおくしと言います。大昔、そこに人がいました。そのからだは極めて長大で、丘の上に身を置きながら、手で海浜の大はまぐりをくじる(ほじくる)ほどでした。

 大男の食らった貝が積もって丘となりました。当時の人が「大きくくじる」 という意味で名づけたことから、今では大櫛と言われます。男が地面を踏んだ足跡は長さが四十あし余り(70メートル以上)、幅が二十歩ほどもあって、小便をした後にできた穴は直径二十歩ばかりでした。

 蛇神との結婚

 茨城うばらきの里。ここから北の方角に高い丘があります。名を晡時臥くれふしの山と言います。古老は次のように語っています。兄と妹が二人で暮らしておりました。兄の名を努賀比古ぬかびこ、妹の名を努賀比咩ぬかひめと言います*。

 ある時、妹が寝所にいると、いつの間にか室内に人がありました。姓も名前もわからないまま、その人は毎晩やって来て求婚します。いつも夜に来て、昼に去ります。とうとう二人は夫婦の契りを交わしました。妹は一夜にして身ごもり、産み月になると小さな蛇を生みました

 子蛇は夜が明けると言葉を持たないかのようなのですが、日が暮れると母親と語らいます。それで母と伯父は大いに驚き怪しみ、心の中で蛇は神の子なのではないかと思いました。蛇を浄いつきに盛り、祭壇を設けて安置しました。すると一晩の間に杯の内がいっぱいになるほど大きくなりました。

 さらに、お盆に換えて蛇を置くと、またその内がいっぱいになります。このようなことが三度、四度と続き、ついに蛇を入れることのできる器がなくなりました。そのため母親は、子に告げました。

「器によって器量をはかってみたところ、あなたは神の子であるとはっきり分かりました。私たち一族の力では、あなたを養うことができません。父上のいらっしゃる所に行きなさい。ここにいてはいけません」

 蛇神との悶着

 母親の言葉を聞いて、子は悲しみに泣き、おもてをぬぐって答えました。
つつしんで母上がお命じなったことを承りました。あえて断るようなこといたしません。しかしながら、私は一人きりで去ることになり、同行して助けてくれる人がありません。お願いですから、私を憐れんで小子わらわを一人、付き添わせてください」

 母親は言いました。
「わが家にいるのはあなたの母と伯父だけです。これは、あなたもよく知っていることです。あなたに付き従って行く人はいませんよ」

 これを聞いて、子は恨みの気持ちを含みつつも、言葉を発しませんでした。別れる時になって、怒りを抑えられなくなり、雷を落として伯父を殺し、天に昇ろうとしました。この時、母親は仰天してお盆を取り、投げたところ、お盆が子に触れたので、蛇は天に昇ることができませんでした

 それで、蛇はこの峰に留まることになりました。蛇を盛ったお盆は今も片岡の村にあります。子孫は社を建てて祭りを行い、代々受け継いで絶えることがありません。

 常陸国11 解説
 蛇神の話の後、粟河あわかわ(那賀川の古称)ぞいの駅家のこと、次いで曝井さらしいという浄らかな泉のことが記されています。その末尾に、泉の周りに住む村の婦女は「夏の月に会集つどひて、布をあらさらし乾す」とあります。何気なく読み過ごしそうな一文ですが、庶民の家事に関する具体的な記述は古代において極めて珍しく、留意したいところです。
 蛇神を祭った場所は水戸市と笠間かさま市の境にある朝房山あさぼうやまとの説が有力なようです。蛇との婚姻話は、古事記の有名なエピソードから「三輪山型神話」とも言われます。蛇の子が八つ当たりで伯父を殺す場面で、私は、同じ古事記中、少年時代のヤマトタケルがかわやで行った無邪気で残酷な兄殺しを想起しました。
* 兄妹の名の「比」は、実際には「田」の右に「比」。

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