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蔵出し其の3【G大阪DF三浦弦太】

こんにちは。
「蔵出し企画」第3回目です。
当然ですが、、、お蔵入りする原稿というのはタイミングが合わなかったり、何か不都合が生じたものです。
でも、だからと言って、その選手たちがダメだったわけではなく、むしろ逞しくなってるなあと感じることの方が多いです。
そして今、自分が読んでも今後の取材に活かせそうなヒントが散りばめられています。
ということで、今回はG大阪のキャプテンの話です。

■『第3回 G大阪DF三浦弦太』

18年3月に豊橋デューミランの恩師を取材した時のことをベースにした記事です。
17年12月に日本代表デビュー。ロシアW杯選出時に備えて用意したものです。

■幻の原稿


ロシアロードの始まりは、冬の足音が聞こえだした08年秋だった。FC豊橋デューミランに所属していた中学1年時、三浦は右MFとしてプレーしていた。馬力のある突破力を武器にサイドで躍動。秋の1年生大会では県決勝まで進んだ。だが名古屋U―13に0-4で完敗。その後、プロへの可能性を見出していた当時のコーチ陣からセンターバックへのコンバートを勧められた。当初は悩んだ。だが「名古屋に負けて悔しい。やります」と決断。そして、わずか1年間ちょっとで県トレセンに選抜されるほどに成長した。

〝今〟ではなく〝未来〟を見据えたデューミランの指導方針は血肉となった。トレーニングはよく止められた。そのたび、コーチからは「今、どこを見ていたのか?」「どこにパスを出そうと思っていたのか?」と確認された。戦術よりも個の成長を促される日々。常に周囲を見渡すことを要求され、「繋ぐのか、蹴るのか」「シュートなのかパスなのか」の判断力を養った。3年生最後の大会は最高の結果を手に入れられなかったが、それは最終ラインでも常に冷静なプレーを続けられる礎となった。

プロを目指し、親元を離れて8年(高校は大阪桐蔭に進学)。夢にまで見た舞台は、すぐ側にある。

■あの頃~現在


日本代表に初選出されたのが17年5月。当時、三浦選手は「成長」「吸収」という言葉をよく使っていました。でも先日のこと。昌子源選手と初めて実戦でコンビを組んだ後には、その言葉は使わず「これから擦り合わせていきたい」と話していました。

昨年11月の国際親善試合ベネズエラ戦のあたりから感じていましたが、あらためて感じたのは…後ろから追い掛けるのではなく、自分が先頭に立つ覚悟ーーーー。

夢舞台、それは実はカタールのことなのかもしれません。

(了)

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