「戦争と平和」 市民の記録⑯ 壁あつき部屋―巣鴨BC級戦犯の人生記


勝者による裁きだと言われる第二次世界大戦後の戦犯裁判。「ずさんな調査で多くの日本兵が命を奪われた」としばしば言われるが、この本を読むと、正しくは「調査がずさんなため、裁かれるべき命令側の上官が責任を免れ、命令された側の部下が責任を問われて命を奪われた」と言うべきではないか、と思わざるを得ない。無謀な作戦の失敗に関する責任も、捕虜の虐待や殺害に関する命令の責任も取らず、部下に責任転嫁して恥じない「天皇の軍隊」の将校たち、その体質はどこから来ているのか。<以下本文から引用>

どろ試合
                             飯塚 節夫
 昭和二十一年七月三日 晴
 検事の取調べがある。
「スパイの処刑は大隊長の命令だというが、大隊長は、そんな命令は下した覚えもないし、終戦迄そうした事実は全然知らなかった、といっているがどうか。多分お前たち部下の者が勝手に処刑してしまったのだろう」と検事にせめられる。検事の言葉を通訳が日本語になおすのを一言一言ききながら、私は大隊長のずるそうな顔、彼が検事の前でしめしたであろう卑屈な態度を思いうかべる。
 戦争中、絶対の権力者として、われわれの上に君臨していた彼が(責任は自分がとるから心配しないようにと口にしていたので、われわれはある程度その言を信用していた)示した、戦争中の常識では想像もつかぬ態度に対して、私はおどろきと、いきどおりを感じ、そのために検事のつよめる言葉にしばらくのあいだ返答も出来なかった。
じっと検事の顔を見つめたままだまって直立不動の姿勢を保っている私が、検事をいらいらさせたらしい。彼は「やはりお前たち下級者が勝手に処刑したんだ、返答出来ないではないか」といって私をにらみつけた。
 だまっていては検事の言を肯定することになると気ずいて「日本軍隊においては、上官の命令なくして何一つなし得ないこと、特にスパイの処刑などという重要なことを、われわれ下級者が勝手に行うことは有り得ない」ことを説明すべく、二言三言はなしはじめる間もなく、つと検事が立ち上がって、机を廻って来たと思うと、私の顔をなぐりつけた。そして私には分らない言葉をしゃべった。通訳は私のなぐられて赤くなっている顔をつとめて見ないようにして、彼の言葉を伝えた。いいわけするなというのである。
 いいわけをするのではない、事実を述べようとしているのだといいながら、検事の顔を見ると、私をなぐった興奮で真赤になっていた。この調子だとまだなぐられるぞと、足をつよくふんばった。私がふたたび口をひらくや否や、またなぐりつけて来た。今度は一つで終わらなかった。二つ三つと、両頬に感じる彼の殿打は私自身を興奮させたが、彼自身も殴打という行為それ自体によって、益々興奮してゆく様相が、ひしひしと私にも伝わってきた。空腹のためと、殴打にたえようとする異常な努力からくる疲れのために、立っていられなくなって私が倒れると、彼も殴打をやめた。
 通訳が、今日の取調べはこれで終わると私につげている間に、検事は私に一べつをくれようともせず、さっさと取調べ室から出て行った
私は房に帰ってきてから、検事はほんとうに私たち下級者が勝手にスパイを処刑したと信じているのであろうか、それとも意識的にこの事件をわれわれだけにおしつけて片ずけてしまうつもりなのだろうか、どうか、などと考えながら、トウモロコシの中に米が少しまじっているといった夕食を食べる。私をなぐりつけた検事の赤ら顔と、戦争中私たちをあごでこき使い、そして現在自己の下した命令すら否定してその責任をのがれようとしている大隊長の顔とが、交互に浮かんで来てねむられない。
 蚊が出てきた。明日も又取調べがあるだろう。今日の取調べの状況を山崎に伝えてやりたい。彼取調べられるだろう。
(註、BC級戦犯裁判は全部軍事法廷において行われた。検事といっても将校である)

 七月五日 晴
 毎日暑い日がつずく。雨季が上ったのか、スコールも少ない。一雨ほしい。昨日は取調べがなかったが今日はどうかな、と思っている中に呼び出しがある、警戒兵に連行されてゆく途中、又なぐられるかもしれないという予感が、ちらっと頭の中をかすめる。
 検事の顔は実に冷たい。彼はわざとこちらを見ずに、机の上の置かれている私の調書に目をむけたまま、お前の返答はこの通りかというので、そうだと答えると、彼はしばらくだまっていたが、警戒兵を呼んで、小さな声で何か指示を与えた。すると警戒兵が私のそばにやってきて、右腕をつかみ外につれだした。そして私は、ぎらぎら照りつける赤道直下の太陽の直射で、やけつくような広場に立たされた。
 銃剣を手にした警戒兵が、木かげでじっと見まもっていて、私が身動きしようとするや、つかつかと寄ってきて銃剣の先でつくまねをする。どのくらい長いあいだ私をこうしておくつもりなのだろうか。私が倒れるまでか、それとも私をこうしておけば、われわれ下級者が勝手に処刑したとでもいうと検事は考えているのだろうか、などと思いながら、じっと立っているうちに、汗が身体中から出てくる。
 目に汗が入るので、手でふこうとすれば、警戒兵が銃剣の先をぐっと差し出す。のどが猛烈にかわいてくる。水がほしいと思えば思う程、それだけのどのかわきがはげしくなって、大声をはりあげて「水をくれ」と叫びたい衝動にかられる。頭の中には水の他なにもない。くらくらして来たと思うまもなく警戒兵が近ずいてきて、私を木かげにつれて行った。
 どれくらいの時間つったっていたかわからない。警戒兵に水をくれというと、水道の所につれてゆき水を飲ませた。水を飲みながら、もうどうにでもなれという気がないでもなかった。取調べ室につれてゆかれると、検事は珍しく椅子を指さして、坐れという。そして、たとえ上官から出た命令であるとしても、その命令が違法であるかないかをただすことなく、だまって従ったものは同罪である、という論法でつめよってきた。これに対して私は、日本軍隊の機構、およびその機構の下でくだされる命令の絶対性について説明すべく努力した。今日は彼も冷静に私の説明を聞いていたが、結局納得できないようだった。私の説明がまずかったのではない、デモクラシーの洗礼をうけた国に育った彼には、半封建制の上に組み立てられた機構やその中で暮らしている人間の在り方、考え方はとうてい理解できないのだ。つくづく「歴史的条件」ということを感じる。

 七月十日 晴 午後スコール
 今日は久しぶりにスコールあり、涼しくなった。取調べのほう、四日ばかりなんの音沙汰もない。あのまま裁判されてしまったらどうにもならない。大隊長と対決してもよいし、又彼が命令を出したことを証明できる将校も隊の中にいる、ただ大隊長と連隊長は、この事件に関して、お互いにしめし合せていることも考えられる。彼等二人は士官学校出であるし、私や山崎は召集の将校であるから、戦争中もそうであった如く、今度のこともあらかじめ彼等二人で計画し、すべてを私たちにおしつけようとする可能性は充分ある。いずれはっきりする。

(中略)

 七月十二日 晴
 突然検事に呼び出される。取調べ室に行くと、大隊長がすわっている。検事の、彼に対する態度を直感する。彼は最初から椅子を与えられている。彼と対決するきびしさが、私自身を幾分かたくさせた。私の方を見るともなくちらっと見た大隊長の顔は、検事に対する卑屈さと、私につとめて示そうとする(戦争中いつも私たちに示していた)偉厳さのコンプレックスで、それがなおさらいやらしさと憎しみを感じさせた。
 検事はつとめて冷静をよそおっているが、これから、かつて精鋭無比と宣伝されていた、敵国軍人の二人が演ずるであろう演技を、充分観賞し楽しもうとしている様子がうかがわれ、一瞬、私自身のおかれているみじめな状態――われわれにとっても旧敵国軍人である検事の前で、みにくい泥仕合を演じなければならないという――に気が滅入った。
 大隊長自身の、どんな行為をしても生きのびようとしている気持ちは、私自身が生きたいと同様に分らぬわけでもない。しかし、明らかに自己の下した命令までも否定して、部下であった二人の人間をふみ台にして、その目的を達しようとしている卑劣なやり口は絶対許せない。
 彼は私と全然離れた場所に収容されているので、顔をあわせるのは収容されて以来今日はじめてであったが、彼を目の前にして、今更のように、かつて彼を通じて我々をがんじがらめにしばりつけ、また彼のような人間を作り出していた旧日本軍隊の、すべての要素に対して怒りを感じた。
 検事は最初大隊長に、スパイ処刑の命令を出したか、またその事実を知っていたかどうかをたずねると、「命令を出したことはないし、その事実も終戦後はじめて知ったのである」と答えた。さらに検事は、お前の(大隊長の上官である連隊長が、お前の手を経ずして直接命令する場合も有り得るかと尋ねると、「そうしたことは考えられない、従って連隊長もこの事件は全然知らないと思う」と答えた。
 この言葉をきいて、彼等二人の計画――すべてを私と山崎の二人におしつけて、自分等は生きて帰ろうとしている――が理解できた。昭和二十年四月十二日の夜、大隊長室で私たちがスパイの処刑を命令されたその時、大隊長は、はっきりと「この命令は、この島の守備隊長である連隊長から自分が受けたものである。」と明言している。ただその命令は口頭でなされ、書類は渡されなかった。検事は「処刑という重要なことが、単に頭命令だけで行っれるとは考えられない。命令されたのが真実ならば書類があるはずだ」とせめてきた。なぜ書類をもらわなかったかと後悔しても今となってはおそい。彼等二人も書類のない事実に、唯一のにげ道を見出している。
 検事は大隊長の返答をきき終わるや否や、じろっと私を見て、お前の返答はどうかといった。私は心を落着けようとするが、彼等のやり方にに対する憤りのために、身体がふるえてきて、思うようにしゃべれなかった。しかし、できるだけ静かに、「命令は大隊長から何年何月何日の何時頃、どこにおいて、口頭で下された」と、今迄と同じ返答をくり返した。検事は一言も云わず私と大隊長を見くらべたが、彼の顔には冷笑が感じられた。それはあたかも、旧日本軍隊の崩潰してゆく姿を、勝利の快感をもって心ゆく迄味わおうとするが如くであった。
 八月四日 曇り
 「命令の絶対性」に威圧されて動いていた自分。すべてをその絶対性の中におしこめて、自分自身ぎまんしていた点はないだろうか。今日死ぬかもしれぬ、明日死ぬかもしれぬというような、戦場におけるぎりぎりの毎日。生命の不安に追いかけられているあけくれは、自己の生命を軽視するばかりではない、他人の生命迄も軽視するようになる。
 我々がたたきこまれていた軍隊、こんな馬鹿げたものはない。しかも生命をすりへらし、食うや食わずで闘っていた戦争は、一体なんなんだ!

証言
                             高田 幹雄
 昭和二十一年六月五日
 重労働二十年、ひとごとではなく、自分のことだ。信じられない。
 人間が人間をたたくということは、悪いことにきまっている、自分は決して好きこのんでたたいたのではない。それ以外にどうしてもやっていけないからたたいたのだ。
 二三ヵ月の刑かと思っていた。事情はともあれ、それ自体はたしかに悪いことなのだから、刑に服する覚悟はきまっていた。けれども、二十年とはどう考えてもわからない。
 故郷の姉たちは泣くだろう。村の人達にも顔向けが出来なくなるにちがいない。ひょっとすると、本当におれが何かひどく悪いことをしでかしたのだと思うのではないだろうか。

 昭和二十一年六月七日
 散歩の時間に、となりの柵からおれの名を呼ぶ者があった。分所長である。「無茶な刑だなあ、ひどい」という。さも同情にたえないという表情である。自分はむらむらと憤りがこみ上げてきて、返事をすることが出来なかった。人間も四十を越すとこうまで図々しくなるのだろうか。
 「たたけと命じたことはない。下士官や兵隊がたたいていたとは毛頭知らなかった。知っていたらやめさしたはずだ」とぬけぬけと証言したのは誰だ。
 実にひどい。いつもおれ達のやり方が足りないといって、叱責したではないか。自分はたたかれたことはなかったが、兵隊は三人とも、俘虜の取りあつかいが手ぬるいといって、彼自身にたたかれているのだ。ときたま、自分が「俘虜は重労働で苦しんでいるから、あまり紀律でしめるのはどうかと思いますが」というと、「俘虜は使い殺してもよいのだ。今後戦果はますます拡大するから、俘虜の補充には困らない。」といっていたのを忘れたのだろうか。(もっともこれは本所長がいっていたのを聞いてきたと彼はいっていた。)
 いや、分所長ばかりではない。本所長も俘虜情報局長官もそうだ。彼等も口供書で証言を送ってよこして、同じようなことをいった。本所長も俘虜情報局長官も巡視に来るたびにいっていたではないか。
「俘虜の紀律は皇軍の兵士と同等の水準に上げるようにせよ。ここの俘虜の動作は緩慢だ。敬礼動作のごときは他のどこの分所よりも悪い。」


附記 吉田さんはアンボン民政部の職員であった。かれの戦犯事件は、住民に対する傷害致死の責任をとらされたものである。日本軍のアンボン島攻略の際、敗走した一部少数のインドネシア兵が、隣接のサパロア島にわたり武器を集め、同志を糾合して再起の機会をうかがっていた。海軍派遣隊がサバロア島に進駐するにおよび、かれらは派遣隊に協力する住民を脅迫襲撃し、抵抗運動をつよめていった。そこで、断固討伐を決意した派遣隊が、ある日その一味と思われる一老人を逮捕してきた。その老人は恩給生活をしていた退役蘭印軍人で、自分の家には女王の写真を大きく掲げ、日本軍の占領下でさえも敢て取りはずさなかった。この老人の取り調べに際して、当時同島の民政部に書記として勤務していた吉田さんが、マレー語が堪能なため、通訳にあたった。取り調べ中、老人の傲然たる態度に激昂した派遣隊員は、老人を再三なぐりつけた。海できたえられた鉄拳は、老人にはすくなからずこたえたとみえて、老人はその後ついに死んでしまった。終戦後、元の統治者がかえってきた。そして、その老人は、最後まで女王に忠節をつくしたレジスタンスの英雄として賞揚され、ひろく喧伝された。一方、当時の派遣隊はすでにどこかへ移駐していたため、当時の関係者としてただ人残っていた顔のひろい吉田さんは、悪虐無道な侵略者の代表とされた。軍事裁判では彼の抗弁はとりあげられず、派遣隊長の責任を身がわりにおしつけられた。かくして、故国に契りおきし相思の人を残して、人の世の春も知らず、三十歳の将来ある命を断ち切られたのである。

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