「まともじゃないのは君も一緒」

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主演:成田凌 清原果耶

脚本:高田亮

監督:前田弘二



「普通"ではない"予備校講師と知識ばかり豊富な恋愛経験ゼロの女子生徒が繰り広げる至って普通のラブストーリー?」

 そもそも"普通"とは何なのか、絶対的な定義など存在しないというのに。
多数決を行った場合、過半数以上に属する意見や思考が"普通"とされるのだろうか。その場合の比率が6:4だった場合、残った4割の人々は普通"ではない"ことになるのか。普通について深く掘り下げれば掘り下げるほどに、複数の”ふつう”という言葉の響きだけが頭の中で反響し合い、そして結果的にゲシュタルト崩壊を起こし、考え始めた当初よりも”普通”に対しての認識や理解が難しくなる。

 多数派が普通、少数派が普通”ではない”、もしくは異質。普通が正しく生きやすい、普通でないと結婚は勿論のこと生きていくことすら窮屈な思いをする。「普通で在りなさい」と各人の個の芽を摘むことが義務教育であり、現代日本社会の現状なのかもしれない。極めて個人的な見解になってしまうけれど、未だに染髪やピアスやタトゥーを禁止する風潮が理解できないし、スーツ着用を義務付けられることにも納得は出来ない。大人になればそれらの意味が理解できるのだろうと、未成年の間はそういった漠然とした思いがあったけれど、20年以上の寿命を刻んでも何一つ理解が追いつくことはないままだ。ここで挙げた例は外見的な規則ばかりだが、内面的個性はその形を目視で直接認識できない為、尚更理解を得ることが難しくなる。

 幾らか話しが逸れてしまったが、作中では予備校講師の大野先生(成田凌)が生徒の香住(清原果耶)に「普通」とは何なのかを教えてほしい、と頼み込むところから物語が進んでいく。恋人や友人がいない大野は、この先独りきりになることを恐れていた。そのタイミングで香住からの「そのままじゃあ先生、一生結婚出来ないよ」と痛恨の精神的ダメージを負い、それがきっかけとなり普通を知る努力をしていく。この作品は圧倒的男性脳(大野先生)と女性脳(香住)の掛け合い、対決と捉えられる部分が多々見受けられた。論理的大野と感情的香住の掛け合いは客席でも笑いが起こり、とても愉快だった。

「定量的な愛」いう言葉の響きや意味合いが作中で一番気に入った。個々の愛情を定量的に示すことが可能になれば、世界にどのような変化を齎すのだろうか。純愛と呼べるものが増えるのか、浮気や不倫は減るのか、メンヘラは絶滅危惧種となるのか、それとも愛の定義が完全に確立されてしまうのか。思うに、数値化できないものにこそ、各人の個性が表出するのではないだろうか。逆説的にいえば、個性を数値化することもまた不可能なのかもしれない。

「現実から目を背ける為の口実に普通を用いる」言葉の並びや表現に多少手を加えたが、このようなことを大野先生が香住に対して投げかけるシーンがある。これに関してはとても腑に落ちる部分があり、頭のなかにあるモヤが少しだけ薄くなった気がした。また個人的な話になってしまうが、日常的に”普通”という言葉は口にしないことを、自分自身の中で心掛けている。普通という言葉を使用するだけで自身の品位が下がる気がするから。たまに「普通」という言葉を多用する方がいるけれど、受手側からすれば”言葉の表現力が乏しく、偏見的な狭い視野しか持ち合わせない人間”という風に捉えることが出来てしまう。そんな誰にも気づかれないような密やかな心掛けを、大声で肯定されたような、そんな気がして嬉しくなった。

 そもそも人間の大多数は、「自分は普通じゃない」と心のどこかで思い抱いているものではなかろうか。そりゃあ誰だって「自分は普通ではない=どこか特別」だと信じていたいし、そう信じることは悪いことではない。寧ろそのように考えることが出来れば、周囲に馴染めなかったり、他人と同じようにすることが出来なかったり、そういったことで気落ちする必要は全く無くなる。堂々としていれば良い。もういっそのこと馴染まなければいいし、他人と同じやり方などしなくて良い。胸を張って自分がやりたいように生きればそれでよい。結果的に、結婚出来なくても、モテなくても、友達が出来なくても、それは仕方がないことなのだから、不確定な未来に怯えることはない。できる限り個性を削ぎ落とさないように、好きなことに取り組んでほしい。普通”ではない”と、まとも”ではない”と揶揄されても気にしない。何故なら、欠点こそが最大の魅力になるのだから。


 登場人物が少なく、比較的テンポも良かった上に上映時間が短い為、とても気楽に観ることが出来ました。成田凌の演じる変人がわたしは大好きです。

「それってどんな感情?」


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