他人という存在
私は、気が短い。
電車でリュックサックを背負ったまま乗り込んでくる若者には腹が立つし(リュックがちょうど顔のあたりにきて不快だしジャマと思う)
路上でタバコを吸う人には殺意を覚えるし(なんであんたの吐いた有害ガスを吸わなきゃならんのだと思う)
歩道で横に広がって歩く人たちも腹が立つ(通れない、歩くの遅い、どいてっ!)
私ならしないのに、と思う。
でも、街を歩けばこんなことをする人は五万といる。他人は邪魔だからなるべく接したくない。
だけど他人は排除できない。
排除できないものを、いつまでも排除したいと思っていても、先にすすめない。
排除できないものは、そこにあるということを認めて、共存していくしかない。
人間は存在するだけで、自分以外の人間に迷惑をかける存在である。
生まれたときはひとりでなにもできないし
子供の頃はところ構わず泣いたり叫んだり
大人になっても、失敗したり知らないことがあったり
自分の存在はかならず身近なひとに影響を与える。
影響を与えたり与えられたりして私たちは生きている。それが迷惑になるかならないかは受けとる側によって変化するのである。
他人に迷惑をかけないように生きる
これは、日本人に染み付いている美学ではなかろうか。
それが実践できたら素晴らしいが、他人に影響を与えない人間がいないように、他人に迷惑をかけない人間などいない。他人に迷惑をかけまいとすればするほど、無理が生じ自らが苦しくなる。
私はこうして自分自身を苦しめていた。
でも、そんなとき聞いたあることばに、目からウロコが落ちたような気持ちになった。
他人に迷惑をかけないようにするのではなく、自分も他人に迷惑をかけている存在なのだから、誰かから迷惑をかけられても許す心を持とう、と。
他人の揚げ足をとるのに躍起になるはやめて、優しくなりたいものである。
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