エロはいけません!

 小学二年の夏休み、テルコは同級生のマサヤくんの家に行った。両親も一緒だった。他にも何家族かいた。いつもの宴会だった。
 皆、学童保育所に通うメンバーで、家族ぐるみの付き合いだった。共働きやシングル家庭の親たちは助け合い、お互いの仕事が忙しい時はPTAの当番を代わり、遅くなる時は子どもを預かった。休みの日は誰かしらの家に酒や食べ物を持ち寄り、宴会をした。子どもたちを勝手に遊ばせて、大人たちでゆっくり飲んだ。都会で働く親同士の絆は強かった。
 しかし、テルコは同級生が嫌いだった。彼らは乱暴で語彙が少なく、テルコが何か意に沿わないことを言うと、ぶったり泣いたりした。子ども同士で遊べと放置される宴会は苦痛だった。
 その日もテルコはしぶしぶ連れて行かれたが、子どもたちは八時から始まる夏の怪談特集を楽しみにしており、「皆でテレビ見ようぜー!」と騒いでいたのでホッとした。テレビを見ている間は理不尽に絡まれることもない。ダラダラと飲み食いする大人を尻目に、子どもたちは早々に夕飯を済ませ、テレビの前に移動した。
 「スイカを切りましたよ〜!」
 マサヤくんのお母さんが台所から大皿を持って現れた。看護師をしているせいか、よく通る高い声だった。
 「ねぇ、ここ閉めていい?」
 マサヤくんが言った。大人たちが宴会をするダイニングと、テレビのあるリビングの間には襖があり、いつもは開け放されていたが、閉めることもできた。
 「怖くして見ようよ」
 マサヤくんはリビングの襖を閉め、電気を消した。すぐに怪談特集が始まった。
 「スペシャルドラマ・耳なし芳一」
 おどろおどろしいタイトルが浮かびあがると、コウくんが「こわいよ〜!」と叫んだ。テルコもドキドキして画面を見つめた。
 やがて、芳一の体にお経が書かれ、平家の亡霊が誘いに来た。亡霊は女だった。芳一の体を執拗にまさぐった。
 「これ……エロいんじゃない?」
 子どもたちはザワついた。そのうち、亡霊の着物がはだけ、おっぱいが見えそうになった。
 「エロい!エロいよ!」
 「ぎゃはははは!エロい〜!」
 皆は爆笑した。その途端、襖がバンと開いた。
 「エロはいけません!!」
 ひっくり返るようなソプラノでマサヤくんのお母さんが怒鳴った。
 テレビは消され、ブーイングが起こった。すると、カナちゃんのお父さんが立ち上がった。
 「よーし、じゃあ、おじさんと花火しようか」
 「え!花火!やったぁ!」
 皆は芳一のことなどコロッと忘れ、飛び跳ねた。
 「やだ、ごめんなさい、そんな……」
 マサヤくんのお母さんは恐縮したが、
 「ちょうどタバコも吸いたかったんだ。花火がてら一服してくるよ」
 カナちゃんのお父さんはニコニコしてサンダルを履いた。子どもたちも後に続いた。
 近くの公園で皆の花火に火を点けると、カナちゃんのお父さんはベンチでタバコを吸った。その隣にテルコも座った。
 「あれ、テルちゃんは花火やらないの?」
 「うん」
 「花火、嫌いかい?」
 「好きだけど、皆でやると、どっちが長く燃えるか競争したりするからいい」
 「そっか。テルちゃんは一人っ子だもんな」
 それはテルコが常々言われていることだった。そのたびに「変わり者」とか「わがまま」と指摘されているような気持ちになった。自分が辛いのは、自分のせいなんだろうか。
 メランコリックなテルコをよそに、カナちゃんのお父さんはのんびりと煙を吐いた。
 「子どもはいいよなぁ」
 「……大人の方がいいよ」
 ぼそっとテルコが言うと、カナちゃんのお父さんは「わはははは!」と笑った。
 「たしかに、テルちゃんは大人の方が向いてるかもしれないな。でも、おじさんは大人だけど、子どもの方が向いてるみたいだよ。お互い苦労するな」
 タバコの先から出た煙が、マーブル模様を描いて消えていった。

 あれから四年経ったが、テルコはまだ小学生だ。大人になる日は遠い。
 この夏は毎日塾に通っている。「夏を制する者は受験を制す」と言われ、朝から晩まで夏期講習だ。小学校の同級生は誰もいない。皆、色んな区から電車に乗ってやって来ている。
 小学校四年で学童保育が終わると、テルコは進学塾に入れられた。
 「テルちゃん。テルちゃんは同い年のお友達が苦手だよね。でも、本の話ができるお友達ならどうかな?テルちゃんは本が好きでしょう。今の小学校は本を読む子が少ないけど、お勉強して私立の中学に入れば、きっと色んな本を読むお友達に出会えるよ」
 両親にそう言われ、テルコは中学受験を決めた。あんな低レベルのガキどもとはおさらばだ。
 塾ではすぐに友達ができた。皆ごく当然のように読書をする子どもたちで、本やCDを貸し借りし、色々な作家や音楽を知った。塾の友達に会うのは楽しかった。
 しかし、毎日の勉強はやはり辛かった。成績ごとにクラス分けをする昇降テストもストレスだった。「もう嫌だ」と何度も両親に言ったが、そのたびに、「受験をしたいと言ったのはテルちゃんでしょう」とか、「一度決めたことを途中で投げ出したら何もできない大人になるよ」などと説得され、やめることは許されなかった。
 「宴会」がなくなったのはよかったが、つるかめ算のドリルも、白地図に石油コンビナートを書き込むのも、いい加減しんどい。まだ十二歳だけれど、今まで生きてきた時間は、嫌じゃないことの方が少なかった気がする。いつまでこんな日々が続くんだろう。受験が終われば楽になるのだろうか。本番までの半年が、永遠のように長く思える。

 九月、新学期が始まって登校すると、マサヤくんに中学生の彼女ができたという話で教室は持ちきりだった。久々に見たマサヤくんは、背が伸びて髪が茶色くなっていた。
 「ねー、デートって何すんの」
 お調子者の男子に聞かれ、
 「まぁ、カラオケとか?」
 とマサヤくんはクールに答えた。声変わりした低い声は、大人の男の人みたいだった。
 「キスはもうしたの!?」
 「知らね」
 マサヤくんは茶色い髪をかき上げた。
 「絶対してるでしょ」
 カナちゃんが笑った。
 カナちゃんの家は去年離婚し、あのお父さんはどこかに行ってしまった。しかし今年から新しいお父さんができ、その人はたいそう優しくて何でも買ってくれるという。だからカナちゃんは今日もお洒落だった。服は渋谷の109で買うらしい。テルコの服も新しいが、母親と行くのはいつも高島屋の子供服売り場だ。その中ではなるべく大人っぽいものを選んだつもりだけど、ギンガムチェックのワンピースはやはりお子様然としている。オフショルダーのブラウスにダメージデニムのショートパンツを合わせたカナちゃんは、とてもおねえさんに見えた。
 気づくと学童の面々は、テルコ以外、目立つ存在になっていた。あんなに幼稚だったのに、今は子どもだけで外食をしたり、ゲームセンターに出入りしたりしている。男子は誰も半ズボンを履いておらず、女子は眉毛を整えていた。教科書を入れてくるのはリュックやスポーツバッグだ。いまだにランドセルで登校する自分が、テルコはひどくダサく思える。「本革のしっかりしたランドセルね」と大人は褒めるけれど、大人に褒められるものなんて、何の価値もない。

 「テルコ、ちょっといいか」
 帰りの会のあと、担任の教師に呼び止められた。十二月に入り、受験勉強は追い込みの時期を迎えていた。このあとも塾に行かなくてはならない。
 「すぐに終わる。大事な話なんだ」
 担任は若い男性で、休み時間は児童とドッジボールをするような快活なタイプだった。うっかりドッジボールに誘われたら厄介なので、テルコはなるべく近寄らないようにしていた。しかし今、彼が珍しく神妙な顔をしている。
 会議室に連れて行かれると、保健室の先生も来ていた。いつも流行のお化粧をしている華やかな女性で、マサヤくんやカナちゃんからは「姐さん」と慕われていたが、彼らの溜まり場である保健室をテルコはほとんど訪ねたことはなかった。この接点の薄い三人でいったい何の話をするのか、テルコは訝しんだ。
 「なかなか、僕からは言いにくいことだが…」
 担任は咳払いをすると、意を決したように口を開いた。
 「テルコ。この前のプラネタリウムで、パンツを脱いでなかったか?」
 「ひっ!」
 テルコは思わず叫んだ。
 そうだ、一昨日の校外学習でプラネタリウムに行ったとき、テルコはこっそり星に向けてスカートをめくり、パンツを下ろしたのだった。みんな天井を見ていたし、暗かったので、誰にも気づかれていないと思っていた。まさか見られていたなんて。
 「どうしてそんなことをしたんだ?」
 担任に問われ、テルコは俯いた。どうしてかなんて、自分でもわからない。ただ、なんとなくそうしたくなったのだ。
 ーーオリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウスをつないでできるのが、冬の大三角形です。
 「冬の星座」のメロディに乗せて流れる解説は、静かで正しい声だった。それを聞いていたら、ちょっと脱いでみたくなった。おそるおそるスカートをめくったが、隣の子は何も気づいていない様子だったので、徐々に大胆になり、パンツに手をかけた。ちょっとずつ腰を浮かせて脱ぎ、とうとうおまたを丸出しにした。初潮を迎えていないテルコの股間はつるつるで、人工の星あかりの中、ほの白く見えた。
 「今、私がこうしていることを、誰も知らないのだ」とテルコは思った。すると、心が星空に広がっていくような気がした。
 誰も知らない。ダサいガリ勉の私がこんなところでおまたを出してるなんて、思いもよらない。今、私はどこにも繋がっていない……。ちょっぴり怖いような、けれど清々しいような、不思議な気持ちだった。
 「誰かに『やれ』って言われたのか?」
 担任の質問で、テルコはいじめを疑われていたと気付いた。
 「違います」
 「じゃあなんで?」
 「……」
 再びテルコが黙ると、保健室の先生が優しく微笑んだ。
 「思春期は、心も体も急に変わる時期だもんね。あなたは受験もあるし、悩みがあればなんでも相談してね」
 「はい」
 これを潮だとテルコは立ち上がった。
 「まぁ、その、女の子は気をつけなきゃいけないぞ」
 担任は少しホッとした表情で言った。いじめではないとわかって安心したのだろう。おそらくテルコの行為は、「性の目覚め」や「受験のストレス」として片付けられるのだろう。
 学校を出て駅に向かいながら、名前のわからない感情でテルコの心は重かった。今一番しっくりくる言葉は「死んだ」だった。でも、テルコは生きていた。どこにも繋がらない秘密の時間は消えてしまって、こんなに恥ずかしいのに、今日も明日もテルコは生きていかなくてはならないのだった。
 「お、テルコ!」
 ふいに名前を呼ばれて振り向くと、コンビニの前でマサヤくんとカナちゃんとコウくんがたむろしていた。
 「どこ行くの?」
 「塾」
 「すげー。やっぱ真面目だねー」
 カナちゃんが目を見開いた。目尻にアイラインが引かれ、大人っぽいを通り越し、もはや色っぽくなっていた。
 「てかさ、テルコんちって金持ちだよね。昔から家に行くと高そうな肉出たし、アイスは絶対ハーゲンダッツだったし」
 コウくんが言うと、
 「だからテルコって太ってんの?」
 とマサヤくんが笑った。
 顔がカッと熱くなり、テルコは走り出した。急に、マサヤくんのお母さんの声が耳に蘇った。
 「エロはいけません!」
 走りながら、テルコは真似して言ってみた。アルトのテルコにマサヤくんのお母さんの真似は難しかったが、裏声を使うとけっこう似た。
 「エロはいけません!」
 甲高い声で叫んだら、ブワッと涙が出た。もう、本当に、どこにも行けないと思った。
 「エロはいけません!」「エロはいけません!」「エロはいけません!」
 暮れかけた駅前通りを裏声で叫びながら、テルコはボロボロと涙を流して走った。

FIN


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