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社会のレールを人力車で駆け抜ける

今までの人生を振り返っても、18歳で海外留学を断念したときほど嗚咽して泣いたことはない。しっかりとした記憶はないけど、その日は朝から泣いて気絶するように寝て晩に起き上がった覚えがある。

その半年後、僕は京都で人力車を引っ張っていた。

これは僕が人力車のお兄さんになり、辞めるまでの話。

人と違うことするって何かカッコいいじゃん?

今でこそ海外を飛び回り生活をしている僕ですが、学生時代は将来に希望なんてなかった。

中学の成績は学年で206人中200位。
皆勤賞を取るくらい真面目なのに、給食の時間だけ来る不良よりも勉強ができなかった。

卒業したら高校へは行かずにそのまま土方になってなんとなく命を削って30歳くらいには不慮の事故で墓場に入るものだと思っていた。

そんな自分勝手な人生は許されず、高校を決める三者面談では担任がいることなんてお構いなしに、母と大喧嘩して強制終了した。

「高校くらいは出てよ…」

結局この言葉に心が折れ、家から自転車で通える市内で2番目に頭の悪い公立高校を目指すことに。

無論、勉強はせず、ずっとマンガを読んでいた。

そこで運命的な出会いをする。

近所のブックオフ閉店セールで格安で手に入れた『いちご100%』というマンガと出会った。ざっくりいえば、高校で映像研究部を立ち上げた主人公・真中を中心に女の子たちがわちゃわちゃするマンガだ。

晴れて、マンガを参考書に高校へ合格。

18歳までの3年間を鉄筋コンクリートの中でペンを持つ罪が課された。

そして映像を作る部活を立ち上げた。

無論、真中のような女の子とイチャイチャすることに憧れたからではない。

主人公の真中のようにやりたいことを叶えるために自ら道を開拓していく姿に惚れたから。おそらくこのマンガを見て僕のような感想をする人は日本にいないと思う。

そんな形で高校では部活を立ち上げ、NHKが主催する動画コンテストへ参加するくらい真面目に取り組んでいた。

女子部員の入部にちょっと期待はしていたが、立ち上げメンバーであった男5人とだけが3年間残ってくれた。

さらに高校へ入学して1ヶ月後に同級生から演劇部に誘われ、ちゃっかり入部した。

僕が所属していた演劇部は過去に国立劇場へ出場したことがある演劇強豪校。野球部でいう甲子園が、高校演劇において国立劇場のことを指す。このことを『檜の舞台に立つ』とも言われている。

演劇部の顧問の先生は、日本の高校演劇のレジェンドと呼ばれていた方で、蜷川幸雄ばりの怒声が響く稽古場だった。

自分で運営している部活では誰かに怒られることがなかったので、この環境では容赦なく怒ってくれるので塩梅が居心地よかった。

映像制作と芝居に明け暮れていたら気づいたら17歳。
あっという間に進路を決める時期になっていた。

土方に憧れていた中学生の頃とは打って変わって、すっかりエンターテインメントの世界に惚れたのだ。

高校卒業からは、なんとなく役者として生きていきたいと思った。しかし、アルバイトと両立して役者をやるほど覚悟があるかと言われたらそうでもなかった。

大学へ進学して無難に公務員になるなんて道も考えたが、結局それは親に喜んでもらうためだけの言い訳に過ぎないと気づきすぐさま諦めた。

所詮、僕の学力で入れるのはFラン大学。

東大とか京大に行く人たちと同じ4年間を過ごして勝負したところでキャリアにおいてはカーストが広がるだけ。

ある日、学校帰りに何気なく寄ったブックオフに運命的な出会いをする。

いつものように108円の安本を眺めてたら、200ページにも満たさない小さな本と出会った。

その本には、アメリカの大学へ正規留学する若者たちのストーリーや、日本人が海外へ行くことへ対する著者の思いがまとめられていた。

結局、著者が経営しているインターナショナルスクールの宣伝本だったのですが、すっかり運営方針やストイックさに惚れた。

そしてアメリカへ行けば、本場のミュージカルを見ることができ、英語が喋れる状態になる。仮に役者の道が途絶えても、英語が使えれば食いっぱぐれないことはないだろう。

そんな甘い人生設計を掲げてアメリカの大学へ正規留学を目標にブックオフで出会ったインターナショナルスクールへ進学した。

自分のやりたいことは、自分で切り開く。
用意されたレールに従わなくても良いということを10代前半で知れたことが今のキャリア形成に大きく影響されている。

長くなってしまった。笑
ここからサクサク話が進むので最後までお付き合いください。

学びは贅沢

高校を卒業し、インターナショナルスクールへ入学。

学校が掲げているテーマは『ハードbut楽しい』

文字通りここでの1年間は過去振り返ってもハードだった。

授業は全て英語。先生に日本人はおらず、オーストラリア人、アメリカ人、イギリス人と人種は様々だった。

もちろん、言葉は何1つわからなかった。

課せられる課題に半日は費やしていた。例外なく同級生たちも。

僕の場合は、さらに深夜1時から新聞配達していたため、始発で学校へ行き、23時に家に帰るという生活を1年間していた。

睡眠中以外はずっと勉強と新聞を配っていた。

英語漬けの生活から3ヶ月経った夏。

「あれ、英語がわかる…」

先生が話す英語を理解できるようになった。
今まで味わったことがない感覚。

「勉強って楽しい」と18歳にして感じることができた。

英語が理解できるようになった2学期目、卒業後の進路を決める時期がやってきた。

なんとなく父親に海外の大学へ行きたいんだけど、どうしたらいい?と聞いた。すると険しい顔して「無理!」と一蹴された。

聞き返すと大きな声で「お前を大学へ連れて行くことはできない!!」とハッキリ言われた。

そんな大きな言葉を使わなくてもと思ったけど、それくらいハッキリ言ってくれないと諦めきれなかったと今なら冷静に受け止められる。

なんにせよ当時は卒業したらアメリカへ行くことしか考えていなかったので、いきなり目の前の道が閉ざされて絶望した。

そして冒頭へ戻る。

今までの人生を振り返っても、18歳で海外留学を断念したときほど嗚咽して泣いたことはない。しっかりとした記憶はないけど、その日は朝から泣いて気絶するように寝て晩に起き上がった覚えがある。

泣きやみ冷静になった時、自分で何千万円もお金を借りて大学へ行き、普通に就職したら返せない額を借りる覚悟もなかったので、海外留学の道を諦めた。

そんなわけでインターナショナルスクールの同級生が渡航先のことを調べたりしている間、僕は求人を見ていた。

2学期が終わる頃には授業中の英語はある程度聞き取れるようになっていた。

「もっと勉強したい」と思いつつもできない自分がいた。

「学ぶことは贅沢だ」
林修がおっしゃっていたこの言葉が胸に刺さる。

ものごとを知ることで選択肢が広がり、人生が豊かになる。

スキルは生き様

そもそも僕は人力車の仕事に憧れがあって始めたわけではない。

人力車の仕事へ就いた理由は、英語力の維持がきっかけ。

19歳でアメリカの大学へ進学することを諦めただけで、将来はアメリカの大学へ行くつもりだった。

つまりそのことを視野に入れて英語力は保っていたかった。

アメリカ留学を諦めた僕は就活を始めた。

その時にたまたま求人で出会ったのが人力車。

「人力車の仕事って楽しそう。」
「あれ、今って観光客多いから英語もたくさん使うのでは?」
「そういえば人力車のお兄さんってイケメンだよな。あの仕事に就けば俺もそうなれるのかな。」

今思えば先見の明があったよな。

求人サイトから応募し、早速浅草にある人力車の会社への面接が決まった。

僕が面接へ行ったのは京都に本店を構えるえびす屋。

しかしそんなことを梅雨知らず、浅草で仕事をするつもりでいた僕に、面接官からこんな提案をもらった。

京都の嵐山に行った方が、英語もたくさん使えるで。
向こうなら社員寮もあるから生活始めやすいし。

鶴の一声だった。

二つ返事で答えた。

たった30分足らずで京都への引越しが決まった。

親には事後報告。
「まあ、あなたのことだからね。」とすんなり受け入れてもらった。

最初は身につけたスキルを活かす仕事を探していただけ。
そしたらまさか人力車を引っ張ることになるとは。

もし英語が喋れていなかったら、そもそも人力車の仕事をしようと思っていなかった。

スキルは人の視野を広げ、可能性を見出すのだ。

そうだ、京都へ行こう

貯金5万円で京都へ引っ越した。
新聞配達をしないといけないくらいの貧乏学生だったから。

修学旅行で来た京都とは訳が違う。
仕事で京都へやってきた。

同級生たちと別れを惜しむ暇もなく、地元から住所を抜き京都へ。

京都での人力車生活が始まった。

人力車のお兄さんの仕事の流れはざっくりと以下の通り。

  1. 人力車の準備

  2. お客様へ営業

  3. 乗車

  4. ガイド&写真撮影

  5. アフターサポート

  6. 人力車の清掃

これらを営業の数字を意識しながら行わないといけない。

会話下手、自分勝手、目を見て話せない、滑舌悪い、勉強と向き合ったのは1年だけ。
そんな男が関東から来たものだから、当初は怒られ続けた。

意識が朦朧とするまで怒られたこともある。

それでもこの仕事が好きだった僕は、やめて実家へ帰るなんて選択肢はなかった。

雨に打たれながらお客様へ営業し、
夏は汗で梶棒を湿らせながら人力車を引っ張り、
景色が赤くなると同時に人数が増え、
冬は靴下を2枚履き走り回った。

環境が人を変える

僕が所属していた『えびす屋』は全国に10店舗展開していた。(2024年4月時点で11店舗)
桜と紅葉の時期は京都へ、夏は小樽、冬は湯布院、紫陽花の時期は鎌倉みたく、シーズンによって転勤をする人がいる。

季節ごとにいろんな顔を持つ嵐山には毎年秋と春に全国から人力車のお兄さんが集結する。

転勤でやってくる人の中には、一定の店舗に所属せず、シーズンによって勤務店舗を変える俥夫も存在していた。

そんな転勤をしている、いわゆるノマド的な生活に憧れた。

京都へ来て1年が経とうとしていたとき、北海道の小樽へ転勤が決まった。
自分から立候補した。嵐山の方が市場がいいからと最初は止められたが、経験したいとわがままを伝えたら、ゴーサインを出してくださった。

千葉から京都へ飛び出し1年、人生初めての北海道を仕事で行くことになる。

強くなるために出張へ行ったら資本主義に出会った

初年度に夏の京都で働いた。
いくら好きな仕事とはいえ、冬でもヒートテックを来たら汗だくになるくらいの暑がりにとって、夏の京都は地獄のようだった。

夏の京都で引っ張りたくない一心で、僕は2年目の夏は北海道の小樽へ転勤希望を出した。

そんな小樽での生活は、気温的には最高だったが、仕事人としてはとても厳しい環境だった。

朝8時から出勤。そして夜21時まで人力車を引っ張る。
キツそうでしょ?

でももっとキツいのは17時に帰ること。

日中に数字が出せなかった人は、17時に強制的に帰宅させられるのだ。

仕事をしにわざわざ小樽まで転勤で来ているのに、結果が出せないと早く帰宅させられる屈辱。
なぜ数字が出せないのか怒られる。俺だって知りたいなんて言えず、もっと頑張ります!としか言葉が出ない職場。

僕も早帰りする人だった。

なんとか数字を出すために、ガイドの知識を頭に入れるようにした。

帰宅したら本やYouTubeから情報を取り入れ、翌日のガイドへ組み込む。
そんな生活をしていたとき、ある1冊の本と出会い、今の仕事のあり方を見つめ直すようになった。

その本が小林多喜二の『蟹工船』

【蟹工船とは?】
戦時中における資本社会の闇を題材に、労働者が資本者に淘汰される日々からストライキにより脱却する話

小林多喜二が描き出した労働者の厳しい生活条件や彼らの反乱は、小樽を含む当時の北海道の海産物加工業で実際に存在した問題を反映しています。

そのため、小樽と『蟹工船』は、時代背景や社会状況という面で関連性があるため、ガイドに紐づけられると希望を持って、読み出したのです。

俺、いつまで人力車の仕事するの?

これが蟹工船を読み終えた感想。

歳が1つしか違う上司が全国の売り上げトップを張っている中、俺は早帰り。
いくら勤務年数の違いがあるとはいえ、悔しかった。
でもこの差を埋めるほど熱はない。小樽へ行く前にとある上司からは「この仕事向いてないよ」と言われる始末。

そしてこの向いていない仕事に対して向き合うより他の業務へ力を注いだ方がいいのでは?
どれだけ頑張っても社長や専務より稼ぐなんて無理じゃん。

仕事を本気で向き合いに転勤したら、資本主義と出会ってしまった。

とはいえ、人力車という仕事は大好きだった。

数分前まで全く乗る気がなかったお客様を説得し、誠心誠意のサービスを提供して、目の前でお礼を言ってもらえる。こんな仕事、ほかにない。

そしてせっかくこの土地へ転勤で行かせてもらったから、数字で結果を残したい!!

そう思った矢先、北海道でマグニチュードは6.7の地震が発生。
街の電気は止まり、水も出なくなった。

昨日までいた観光客は嘘のように消えた。

小樽転勤は、予定よりも1ヶ月早めに終了し、京都へ帰ることに。

人力車との仕事にやっと向き合えると思った矢先の出来事だったので不完全燃焼。

「諦めること」は「明らかにすること」

2019年5月に上司からの反対を押し切って人力車を引退した。

「せっかく小樽まで行ったのに勿体無い」
「あと1年頑張ってみないか?」
「ここで結果出せない奴は他行っても結果出せないぞ」

そんな言葉たちを投げかけられたこともあったが、自分の道を進んだ。

話を戻すと、2018年9月、仕事人として一回り成長した気持ちで小樽から京都へ戻った。

約4ヶ月ぶりと久しぶりに嵐山で人力車を引っ張った。
すると初日に上司から安全不備で怒られた。

「飯田、何も変わってないじゃん!」

──ポキッ!

早帰りしていたとはいえ、この仕事と向き合いどうすれば数字を伸ばせるか考えていた。自分でできる限りの中で、仕事に手を抜いたつもりはない。

そんな経験をして自信をつけて帰ってきた矢先に投げかけられたこの言葉は、僕のプライドを壊すには十分すぎた。

「ああ、やっぱりこの仕事向いてないわ」

それからの記憶はあまり残っていない。
ただほのかに『フリーランス』という働き方に憧れていたので、高年収フリーランスになれるエンジニアを目指すことにした。

2019年2月、月25日ほど出勤していた仕事を10日出勤に抑えて、1ヶ月間大阪のプログラミングスクールへ通いITの基礎知識を身につけた。

この経験が評価され、高卒の元人力車のお兄さんが京都の烏丸にあるIT企業へ転職成功。

2019年5月、2年間の人力車人生が終わった。

振り返ると、人生経験が浅い自分はあの仕事と向き合うことをあきらめて良かったと思う。

なぜなら、諦めたことで次の道が明確に見出され、人力車をやめた半年後には目標としていたフリーランスになれたから。

諦めることは恥ずかしいことではない。
負けるとわかっていながら意地でも勝負する時間は生命活動への冒涜。

稼げば好きなことはいくらでもできる

時が経ち、2021年5月。
好きな場所で好きな仕事をする』というライフスタイルを手に入れた僕はまた函館で人力車を引っ張ることにした。

2021年2月、4年間の京都での生活に終止符を打ち、自己拡大を目的に、本格的に海外移住の準備に取り掛かった。

とにかく日本以外の国に長く身を置きたかった。
そんな時にジョージアという国と出会う。

しかし、その時はワクチンを打たないと入国ができなかった。

日本で若者がワクチンを打てるのは早くても夏頃だった。

つまるところ、ワクチンを打つまでジョージアへ行けないので、時間を余していたのだ。

あれ人力車、やっちゃう??

何回かここでもお伝えしているが、僕は人力車という仕事自体はものすごく好き。

そして函館には僕が所属していた会社のフランチャイズがあり、副店長とは嵐山で一緒に走ったこともあり、大変変わり者で僕は惹かれていた。

そんなこんなで一度走り出すと止まれない僕は、函館店へ事情を話すとすんなりと受け入れてくださった。

2021年5月から8月まで函館で人力車を引っ張ることが決まった。

2年ぶりの人力車、そして函館という新天地。
とにかく幸せに包まれた時間だった。

いろいろと割愛するが、函館という街に惚れ、そして人力車の仕事がさらに好きになった。

僕の函館に対する愛を語ると、さらに長くなってしまうので興味ある人はこの記事の下にリンクを貼ってあるので読んでおくんなまし。

よく駆け出しのフリーランスから「やりたい仕事がしたいです!どうすればいいですか?」といった質問をいただく。

僕は毎回こう伝えている。

まずは好きな仕事よりお金が稼げる仕事をする。
なぜならお金があれば仕事に限らず好きなことができるから。
好きなことをしたいなら、好きでなくても稼げる仕事をしなさい。
例えば、月の生活費が15万円だとすれば、
1ヶ月で90万円稼げば半年は好きなことができる。

僕はこの方法で、自分のフリーランスとしての仕事をしつつ、函館で人力車のお兄さんとして仕事をしていた。

3年ぶりに人力車を引っ張ります

2021年8月に函館店での勤務を終え、同年10月にジョージアへ移住した。
あれから3年、気がつけば25ヵ国へ訪れてきた。

ヨルダンの古代都市ペトラ遺跡、未完の世界遺産サグラダ・ファミリア、悲しみの遺産アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所など、学校の教科書に載る場所をこの目で見て、肌で感じ、匂いを嗅ぎ、歴史を学んできた。

ただ、なんだかんだ函館が好きで、海外で出会う日本人には函館をオススメしまくってきた。

そして、満を持して…

函館で再び人力車を引っ張ります!

再開するのに理屈はない。またやりたいから。

世界を見てきて、異国情緒あふれる函館を改めて誰かに紹介したい。
それをした自分がどんな感情になるかが気になるから。

《函館 人力車出勤日》
4/13(土)
4/14(日)
4/15(月)
4/17(水)
4/19(金)
4/20(土)
4/21(日)

もし遊びに行ける方がいらっしゃればお気軽に金森レンガ倉庫前へお越しください。最高なもてなしを提供します。

僕は引き続き海外を放浪するので、7日間限定となっております。

また人力車や函館に関する質問があれば、僕のXへお気軽にDMをください。▼飯田のX

"諦める"という言葉の語源は"明らかにする"ことなんだそうです。
ネガティブに捉えれがちな諦めるという行動が取れる人は、自分の実力や状況を見極めることができる証拠。つまり道が明らかになるわけです。

諦め男子の小話でした。

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