これまで -自分PC歴第0章ベータ版-

断り書き
マイコンというものに関わり始めた頃のことを走り書きしてみました。
あやしうこそものぐる欲しけれなので無駄に大事な時間を使わせてしまったらすいません。

あれは小学五年生の時だったと思う。

友達が急に「ラジオを作ろう」と言い出した。自分の反応は(ラジオなんて自分で作れるものなんだ!?)だった。

当時はゲームウォッチの流行がひと段落し、ちまたにはLSIゲームと呼ばれる、単体の電池で動く電子ゲームが家で遊べる子供の玩具用のゲームだった。今ではコンソールゲームと呼ばれるものはカセットビジョンが出てきていた。子供心に高くて手元に来ることはないだろう、と思っていた。ファミコンも最初はひっそりとデビューしてたように思う。

自分はなぜか将棋にはまっていた。あの駒の種類が言わばキャラクターのように個性のある、ルールの厳格な高度に抽象化された戦闘シミュレーションとしてのゲーム?が好きになっていた。まあ、ある日名人だったかプロだったかに教わってきたというクラスの子に負けてからやらなくなった。プロという言葉の重みを思い知った瞬間であった。

話を戻すと、ラジオを作るという世界には「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」という雑誌が出ていた。当時マイコンと呼ばれていた、今のパソコンの源流になる流れはすでにできていて、世には四大マイコン誌という「月刊マイコン」「月刊ASCII」「月刊I/O」「月刊RAM」が出回っていた。初歩のラジオを購入して読んだ、といっても目を通せたに過ぎない。よくわからない内容なのにわくわくしていた記憶が残っている。その中にマイコンの記事があり、電子工作としてカセットケースシリーズというものにゲームの製作記事があった。ここが私目のマイコン・パソコンライフの始まりの原点であったことは今になってはっきりした。

まあ、最初にトライしたそのカセットケースの電子工作はみごとに失敗に終わり、いまだにその号を特定できていなくてどんなものだったかは覚えてないのだけど、その失敗がその後のパソコンライフへの一歩となった。結構無残な失敗だったがなぜかめげなかった。私目はかなりめげやすい性格なのだが…

まあ、簡単に説明すると感光基板の作成に失敗していたのだった。さすがに基板づくりのトラウマはまだ残っている。

で、ラジオの製作には「マイコンBASICマガジン」という派生姉妹誌が存在した。プログラムさえ入力すればいろいろなゲームができるという事実だけで11歳の子供を夢中にさせるには十分だった。私的マイコン時代第1期の始まりである。毎月買っていたかは覚えていないが雑誌も読むようになっていた。パソコンを使えるようにしてくださっていた電気屋や大須の電気街にいくようになり、使えるところでは入力して、あまつさえ自前のテープでセーブもさせてくれていた電気屋さんには今でも感謝しかない。

一番初めは大須は矢場町のカトー無線というところで第一種接近遭遇を果たしたVIC-1001というパソコンがある。あとでコモドールの製品であるとか、海外製であるとか知ったのだけど、その時は機種の違いも判らず、なぜかマイコン雑誌も置かれていたパーツフロアのベーマガのプログラムを入力したのであった。テープにセーブするという知識はあって、そこでは入力してもセーブはできないことを承知の上で、とにかく入力して動かすということをしたかったのだった。たかだか1画面ちょっとくらいのプログラムを目算して選んだ。まあ、当然のごとくプログラムのバグはとれず、機種が違うということも自覚していなく、ただプログラムを入力するという快感だけが残った。セーブもそのゲームが動くこともその時点ではあまり重要なことではなかったのだ。キーボードを前にプログラムを打つ。それでよかった。

実はこのことの前には「こんにちはマイコン」という、この世界というと大げさかもしれないが、当時マイコンに関わったものでゲームから入ったものはたぶんほとんど知っているのではないかという「ゲームセンターあらし」をモチーフにしたマイコン入門本の存在が大きかった。キーボードのキーの役割はこの本で読んだ範囲で知っていたのだった。

ここでこのマンガの「石野あらし」という主人公も今のコンピューターライフのキーになっていることに最近気づいた。この主人公、ゲーム以外はなんにもできないという設定だったはず。しかし、ひとたびゲームに関わると運動神経も頭脳も地球を救ってしまう、下手すると宇宙レベルの超人になってしまうというキャラクターだった。時に受験戦争だのがあった当時、勉強にしろスポーツにしろ結局は争いの種になってしまうのであろうか、という感覚の中にゲームという高度に抽象化されたもので競い合い、そうすることで悲しい争いはなくなるのではないかという感覚が、当時は言葉にならないなりに感じていたことだったのはだいぶあとになってからだった。

そういう背景の中で雑誌を少しばかり読み、電子工作の方向からの理解などとうていできていないが言葉は雑誌で少しばかり知っているといった状態でついに我が家にMZ-700がやってくる日が来たのであった。私的マイコン時代第2期は自分の予想よりはるかに早くやってきた。いや、来るとは思わなかったとも思っていた。ときにPC-8001用のマシン語入門書を7割がた目を通していたタイミングであった。この本はわからないなりに何度も何度も読んだ。巻末のZ80活用表がマシンコードの一覧だとわかったのはMZがやってきて実機でマシンに触れるようになってからだった。いや、それは言い過ぎかもしれないが、だいたいそんなタイミングだったように思う。

今思い出したが、MZ-1200を触らせてもらった友人の存在を書くのを失念していた…。今思えばその友人はいろいろ自分が及ばないレベルでこのマイコンや世の中の流れの上でMZ-1200を触っていたのだろう。

MZで自分がやったことはそんなに多くはない。自分では結構やったつもりだがマイコンというのはそんなに小さな存在ではなかった。まあ、最初のモチベーション通りゲームは「タイムシークレット」に夢中になった。日々どんな単語を入れれば次の話に進むのかを考えながら過ごす日々が続いた。と同時にコンピュータにもいろいろなプログラミング言語があり、マイコンとして出回っている世界とは違うオペレーティングシステムというものの存在も知った。高価なフロッピーディスク装置の存在も。MZがやってきたときにほぼ同時に購読することになったOh!MZの存在が自分の知識をいくばかりか増やしてくれた。内容の充実度とはうらはらに自分の理解度はあまり進んでいなかった。それでもわからないけどわくわくするので何度も読んだ。この癖は最初のマシン語入門書のときについた。

プログラミングの方はとりあえず雑誌プログラムの入力。雑誌からの入力はコード量を目算しないと全部入れられなくなる、という感覚の中で選んだ。自分の性格として、長いものでも最後まで入力する、ということはできないだろう、と。これは後にX1 turbo2がやってきたときに現実になった。途中で入れられなくなったプログラムがでてきたのだ。

まあ、そんな性格もあり、長すぎるプログラムは入れなかったのだが、マシン語によるテキストスクロール・BASICの命令語の追加・パックマンもどきのS-BASIC上での作成・mini Hu-BASICコンパイラによるプログラミング…。思い出せる範囲はこんなところだろうか。そしてOh!MZ上でS-OSのコーナーが始まると関連プログラムの入力を始めた。ディスク対応のSWORDになる前までの間だった。BASE・WICS本も購入していたのでSUPER BASEとTS-MONITORも入力した。

オリジナルのプログラミングはS-BASICのパックマンもどきとmini Hu-BASICコンパイラのものだけで、コンパイラの方はついぞIPL起動にできなくてとん挫した。なんのプログラムを作ったのかは忘れてしまったのだが、こちらもパックマンもどきだったのではなかっただろうか。夢のオリジナルテーププログラムは夢に消えた。これは最近、YoutubeでのX1版のmini Hu-BASICコンパイラの映像で使い方がわかり、IPL起動のテープの作り方を数十年ぶりかでわかったのだが…いい時代になった?のかも知れない。

あと、700にはテンキーがなく、なんかケースや部品が調達できてどこにつければいいかがわかったのでテンキーは自作した。単にコード引っ張って外部にキーを用意したにすぎなかったのだけど…。あとはいまだに持っている拡張コネクタ用のカードエッジコネクタ。

長いプログラムは入れなかった、と書いたけど700で一つだけ入れたのがテクノソフトの四人麻雀だった。これは結局最後までバグが取れず、最近になってエミュレータ上でリベンジしたらあっさり動いて、当時なんでダメだったのか結局謎のままである。

700の面白さの一つに80K/C・1200と互換だったいうところだった。先の友人の1200のROMをセーブさせてもらってFN700という80K/C・1200と互換性を高めたモニタというのもOh!MZを読んでこさえた。まあ、ROMに焼いてなどまでは先立つものや知識不足でできなかったのだけど。

と、もしここまで読んでいただけた方がいたら申し訳ないが、力尽きてしまった。たいへん面目ない。続きはまた機会があれば。

ここまでは中学生までのお話で、このあとの章を書くとすると高校生時代になるのだけど書けるかどうかはわからないのであった…。

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