支える力(12)
歴史の中にはNo1とNo2がうまく噛み合って社会現象になっているケースも多々あります。私は歴史の研究者ではないので史実になっているというより、歴史小説などで紹介され一般的な評価になっていることで歴史人物を見ていきたいと思います。
近藤勇と土方歳三(新選組)
新選組を結成した当初から二人の信頼関係は強かったと思います。組の規律など大変厳しいものを作っていますが60年前に有名になった連合赤軍に似ています。規則・規律を破ったら死につながるわけですが、二人の性格も似ていたのでしょう。だからこそ最期まで生死をともに出来たわけです。江戸幕府が倒壊していく中、京都から関東に来た時の土方の言動は近藤を最後までNo1の立場でいて欲しい気持ちそのもので、自分は死んでも近藤には生き続けて自分たちの理想を実現してくれることを強く願ったものと言えます。その土方も函館の五稜郭で死を迎えるわけですが近藤が斬首刑になり武士として死ねなかった無念は測りしれないNo1とNo2の関係だったでしょう。
豊臣秀吉と秀長
兄と弟の関係でNo1とNo2として信頼関係が築けていたのは秀長の性格によるところが大きいです。堺屋太一さんの小説で「秀長」が書かれていますがご本人も言われているように秀長についての記録はあまりないというより恐ろしく少ないそうです。この本を読んでの感じでは秀長は最高のNo2ではないかと思っています。この時代は戦国の下剋上であったわけで親子や兄弟でも殺してしまうなど血が通っていても信頼関係がなくても当然とされていた中で二人は理想的なNo1とNo2であったわけです。秀吉には蜂須賀小六が家来(と言うより子分でしょうか)にいてまだ秀吉が頭角を現す前にはNo2的存在であったかもしれません。また黒田官兵衛、竹中半兵衛、千利休もいましたがNo2に対してと同じくらいの信頼は置いていたもののあくまでも軍師、参謀のような立場であり黒田も竹中も利休も豊臣秀吉のNo2にいるという自覚もなかったように思えます。
目立つことをしなかったというより目立つようにしなかったと思われます。読んだ時の印象ですがタイトルが「秀頼」になっていますが「秀吉」とタイトルをしてもおかしくないように思えました。
浮世博史先生(西大和学園)の書かれたものに次のような記述がありますのでご紹介させて頂きます。
ドラマや小説では、秀長の通称として「小一郎」という名前が出てきますが、実際に秀吉が黒田孝高に宛てた手紙の中に、以下のような文章があります。「お前は、弟の小一郎と同じように心許せる存在だ」臣下の心をくすぐるお世辞だとしても、この表現からは秀吉が秀長に厚い信頼を寄せていたことがわかります。ドラマや小説での秀長は、「秀吉の暴走を止める」「秀吉を助ける」といった役どころが多く、歴史ファンに「もし長生きしていたら、豊臣政権は安泰だったのではないか」と思わせる存在です。当時は、秀吉の参謀を黒田が、補佐役を秀長が務めていたのではないでしょうか。
経営者にとっては、参謀も補佐役も欠かせない存在です。
しかし、それはまったく別物だということが、黒田と秀長の行動からわかります。参謀とは、方向性や知恵、判断材料を司令官に提供する役割です。
三好長慶と松永久秀(弾正)巧妙老獪なNo2
他の人たちに比べてなじみがないのですが近年松永弾正がそんなに悪人でもないという評価になり取り上げてみました。下記は文献からの引用ですが久永が支える人にとって最も重要な知恵者であったことは間違いないでしょう
三好長慶は実力のわりに知名度が低いですが、実は織田信長が行った政策の大部分を先に遂行していた凄腕の戦略家です。織田信長よりも二十年も早く天下を取った男、四国は徳島県ゆかりの戦国武将として知られています。又松永久秀(まつなが ひさひで)は通称「松永弾正(まつなが だんじょう)」の名で広く知れ渡っている戦国時代の武将で第一主君の三好長慶(みよし ながよし)に仕えた後は、あの織田信長に仕えていたという経歴があります。
しかし信長に仕えていながらも、2度にもわたる反逆行為を行うなど、信長に勝るとも劣らない破天荒な性格で数々の悪行を行ってきた悪名高い人物です。久秀は2度にわたり信長を裏切るわけですが、その裏切りの許しを乞う道具として名刀を信長に献上しています。信長は裏切り者に対して厳しい処分を下すことで有名な人物ですが、そんな信長に許してもらうことができたのは、そのずる賢さゆえに利用価値があると判断されてのことかもしれません。悪行ばかりが目立つ久秀ではありますが、優秀な武将であったと評価されています。
特に城づくりについては名人ともいわれており、自身が築城した多聞山城(たもんやまじょう)の城門と櫓を一体化させた造りは先進的な今までにない城であったとのこと。多聞櫓(たもんやぐら)と呼ばれるその造りは、その後の日本の建城へ大きな影響を与えたとされています。なお、天守閣の先駆けを造ったとも言われており、そういった点から先見の明を持ち合わせていた人物であることが伺えます。
戦国三大梟雄は、「松永久秀」「斎藤道三」「宇喜多直家」日本三大梟雄は、「松永久秀」「北条早雲」「斎藤道三」ですが松永久秀と斎藤道三は、どちらにも名を連ねているということは、相当非道な人物だったのでしょう。松永久秀には、後世に残る三つの悪事があると伝わっています。
〇足利将軍の殺害
〇主君・三好家への謀反
〇奈良の大仏殿を焼いた
信長が家康に松永久秀を紹介したときに、
「この老人、これまで人のようせぬことを三つしよった。」
といって、上の三つの悪事を面白おかしく語ったそうです。しかし最近になって、すべて冤罪ではないかといわれるようになりました。まず将軍殺害については、上記のとおり直接関わった証拠はありません。奈良の大仏についても、キリシタン説が有力です。
一方、当時は下克上が当たり前の世の中でした。力を持ったものが主君を倒すことは、決して悪ではありません。これを悪としたのは、平和な江戸時代に入ってから、家格秩序を乱すことを罪としたことに始まります。また江戸時代の歌舞伎などでも、悪役の筆頭が松永久秀だったこともあり、悪人というイメージが後世に伝わったのではないでしょうか。
という文献からすると稀代のNo2だったとも言える人です。
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