支える力(11)

No2としてNo1 に支える両者の関係歴史上の人物を例に見て行きましょう。 
まずは日本統一という大事業を成し遂げた信長、秀吉、家康の比較とNo2 との関係もう一度見てみます。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
三者三様の性格の違いを表現した言葉ではありますが言い得て妙なりです。

織田信長  日本人で織田信長ほど少年時代からNo1を目指した男はいなかったでしょう。その代表的な出来事に足利義信が信長に副将軍にと言っても信長はNo2になる気持ちはないのでこれを固辞しています。
信長は最初からNo1のポジションしか頭になかったわけです。義父の斉藤道三との付き合い方や家康との付き合い方を見ても自分はNo1になるために生きているという考えは一貫しています。自分より年上の道三に対しても多少の気遣いはしているものの最終的には命令をしています。ましてや年下の家康には常に上から目線で付き合っています。信長は常に無理を承知で行動しています。これは自分が年齢にかかわらずに日本の頂点に自分が立つという野望があったからでしょう。しかしこれが明智光秀のによる“本能寺の変”という結末を招いていることも確かでしょう。信長にとってNo2は自分の野望を達成するための道具に過ぎず、またNo2を置く重要性を思うこともなく、さらにNo2の気持ちを理解することもなく夢を叶えようとした強いNo1の典型です。

豊臣秀吉 織田信長に仕えることで一生を終えるつもりが本能寺の変で生き方を変わってしまいました。武士でなかった秀吉にとって旧来の因習を打ち破ってきた信長の生き方、考え方に憧れはあったでしょうがそれほど抵抗はなかったと思われます。それ以上に因習に囚われない信長に仕えれば自分も出世が可能と考えたわけです。だからこそ信長亡き後に自分でもNo1になれるとか、なってもいいのではないかという気持ちに変化したわけで、それまでは信長を倒して自分がNo1の座に就こうという気持ちは微塵たりともなかったはずです。秀吉は信長にとってNo2の一人であったことは自他ともに認めていたわけですし、本能寺の変まではNo2で満足出来た人生でした。No1になれるチャンスが急に到来したことで心の準備をすることなしにNo1になってしまったのでしょう。豊臣家に決して幸せな最期になっていないわけですから、器としてはNo1ではなかったような気がしています。
信長の死後、信長をリーダーとしては自分より能力的に落ちると思わせる言動が出てくるのはその表れです。あるいは信長の印象を悪人化させていくこともあったのではないでしょうか。秀吉にとって当初恵まれていたのは自然にNo2として支える人がいてくれたことです。最初は蜂須賀小六ですが自分が地位が上がってきた時にいてくれたのが弟の秀長です。秀長の性格も仕事ぶりを見るとNo2のそのものです。更に竹中半兵衛、黒田官兵衛もいて凄いですね。

明智光秀
彼も織田信長を支えていた一人です。結果として秀吉が天下を取ったため印象として信長のNo2は秀吉と思いがちですが本能寺の変まで秀吉より光秀をNo2と考えていたとしてもおかしくありません。ちょっと脱線しますが日本史の中で個人が影響を及ぼした人物は明智光秀だと思いませんか。本来支える立場にあった人間が歴史を変えてしまったとは歴史は何とも不思議ですね。


徳川家康 幼少のころから人質になったりして苦労をし尽している人間であり耐えることの大切さを身をもって経験している男です。その時が来るまで待ち続けていたがいつかは自分がNo1の座に就くことを目指し生きてきていますね。結果として徳川幕府を260年余に亘り存続させた基礎を築いているわけです。家康はNo2の存在の必要性重要性は誰よりも知っていたと思われます。徳川幕府の経営陣を見てもそれが分かります。
所謂御三家と呼ばれる尾張、紀伊、水戸の徳川家、これは現在の企業でいう創業者一族、さらに実力を備えた大老、老中と言う役職がNo2の役割を果たしたわけですが家康はNo2もうまくコントロールしていたように思えます。

徳川幕府が長期に亘り生き続けられたのはNo2の存在を“大老”“老中”“若年寄り”“大家老”という形で作り上げたのが大きいのではないでしょうか。数人の例外はありますが殆どの将軍は実際には政(まつりごと)はせずに実務は大老、老中、若年寄り、大家老に任せる仕組みを作り上げているわけです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?