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ディケンズと映画

ディケンズと映画と言ったときに、必ずと言ってよいほど言及される逸話がある。D・W・グリフィスが映画『時は流れて』(After Many Years、1908年)のなかで初めてクロス・カッティッングを使おうとして、会社の上役から観客が混乱するのでやめるように説得された際、彼が「でもディケンズはそんなふうに書いていないかね?」と答え、会社の上役が小説と映画は違うと反論すると、「いや、そんなに違いはない。私は映画で小説をつくっているのだ」と言い放ったという逸話(D・W・グリフィス夫人による回想)である。

そしてこの逸話の紹介者が誰あろうセルゲイ・エイゼンシュテインであり、彼が書いた論文「ディケンズ、グリフィス、そして私たち」(1944年発表、のち全集用に改作)は、ディケンズと映画という問題を考えるときの最重要文献となっている1

エイゼンシュテイン曰く、

ディケンズの方法や様式、視覚的・叙述的な特性が映画のさまざまな特徴によく似ていることは、実に驚くべきことである。(中略)ディケンズの小説が当時かちえた、目もくらむすばらしい大衆的人気は、その規模において、今日のセンセイショナルな映画がもつ、あの猛烈な人気だけが比肩できる。そしておそらくその秘密は、ディケンズの小説がもつ驚くべき変幻自在な造型性が、何よりも映画に似ているというところにあるのだろう。その小説の驚くべき視覚性。光学性。

「ディケンズ、グリフィス、そして私たち」『エイゼンシュテイン全集』第6巻(キネマ旬報社)所収、171-3頁

エイゼンシュテインは、ディケンズの小説に見られる数々の「映画的」表現――『炉ばたのこおろぎ』(1845年)の冒頭におけるクロースアップや、『オリヴァー・トゥイスト』(1837-9年)の第14章から第17章にかけての平行モンタージュなど――を例として挙げ、これらの技法はまさしくグリフィス流だと論じている。

エイゼンシュテインの議論は、ややアナクロニスティックな印象を与えるが、確かにディケンズの小説を読んでいると、「映画的(cinematic)」としか言いようのないような描写がいくつも登場する。たとえば、『クリスマス・キャロル』(1843年)のなかの次のような場面を、クロースアップと言わずして何と言うべきだろうか。

スクルージがドアの鍵穴に鍵を差し込んだとき、彼がドアのノッカーのなかに見たもの――彼の目にいきなり飛び込んできたものは――ノッカーではなく、マーレイの顔でした。
 マーレイの顔。庭にあるものはすべて漆黒の闇のなかに溶け込んでいたにもかかわらず、薄暗い地下の食料品貯蔵庫のなかで鈍く光る腐りかけのロブスターのように、そのまわりに薄気味悪い光を帯びたマーレイの顔。それは怒っている顔でも、荒れ狂っている顔でもなく、いつもマーレイがスクルージを見ていたように、スクルージの顔を見つめています。

ディケンズ『クリスマス・キャロル』(井原慶一郎訳、春風社)、30頁。

『クリスマス・キャロル』には他のディケンズの作品と比べて「映画的」な描写がとりわけ多く見られるが、特に興味深いのは、ある場所から別の場所への突然の場面の転換である。

 精霊は(中略)力強い手を伸ばし、スクルージの腕を優しくつかみました。
「さあ、立ち上がって! 一緒に行くよ!」
(中略)スクルージは立ち上がりました。しかし、精霊が窓のほうに行くのを見て、彼は精霊の衣服を握りしめ、やめてくださいと懇願しました。
「わしは人間だ」スクルージは抗議しました。「落ちちゃう!」
「僕の手がそこに触れていれば」精霊は自分の手をスクルージの胸のうえに置いて言いました。「落ちる心配はないよ!」
 精霊がそう言うと同時に、二人は壁を通り抜け、次の瞬間には牧草地が両側に広がる田舎道に立っていました。街は完全に姿を消していました。わずかな痕跡も見あたりませんでした。暗闇も霧も姿を消し、晴れた寒い冬の日になっていました。(中略)
「これは驚いた!」スクルージは、あたりを見まわすと、両手を握りしめて言いました。「わしはここで育ったんだ。少年時代を過ごした場所だ!」

同上、62-3頁。

現代の映画の特殊効果としてはおなじみの、ある場所から別の場所への突然の移動(しかも時間移動でもある)を、小説のなかでこのようにドラマティックに用いた例は、おそらく『クリスマス・キャロル』が初めてであろう。ディケンズはどうやってこのようなシークェンスを思いついたのだろうか。

ひとつの仮説が、マジック・ランタン、パノラマ、ジオラマといった前映画的装置からのインスピレーションである。マジック・ランタンは、スライドの切り替えやディゾルブによる場面転換が可能であり、360度の円筒形の絵画パノラマは、都市空間のなかに別の場所と時間を出現させる装置であり、ジオラマは照明と動きによって時間を自由自在に操った2

ここでさらに興味深いのは、ソロモン・アイティンジが1868年にアメリカで出版された『クリスマス・キャロル』(アメリカで唯一のディケンズ公認の出版社であるティクナー・アンド・フィールズ社刊)のために描いた挿絵である。

『クリスマス・キャロル』(春風社)、53頁。

少年のスクルージが読書をしており、その脳内の視覚的イメージが「窓」の外に現れる。まさにアン・フリードバーグが言う意味での「ヴァーチャル・ウィンドウ」である3

過去のクリスマスの精霊の頭の頂から出る「明るく透明な光(a bright clear jet of light)」は、レンズ筒を通して投射されたマジック・ランタンの強い光(projected light)を想起させる。さらに言えば、見えないものを出現させるファンタスマゴリアは、幽霊や超常現象(『クリスマス・キャロル』は、夜の暗闇のなか、幽霊と三人の精霊がスクルージのもとを訪れ、さまざまな幻影を見せる物語である)との相性が抜群によかった。

エイゼンシュテインのように、映画からディケンズを読み解くのも面白いが、やはり19世紀の視覚文化史のなかにディケンズ文学を位置づけ、それがのちの映画に与えた影響を分析するほうが正統な研究の筋道と言えそうである4

ディケンズが前映画的装置からインスピレーションを得ていただけではなく、ディケンズの小説自体が舞台やマジック・ランタンのスライドなどで頻繁にアダプテーションの対象になっていたので、映画がそれらを(言わば「テンプレート」として)利用するのは自然な流れだった。

映画の黎明期からこれまで数多くのディケンズ作品が映画化されているが(ディケンズは映画化された回数が最も多い小説家のひとり)、ディケンズの作品のなかで最も多く映画化されているのが『クリスマス・キャロル』である5

正統な翻案だけではなく、引用やパロディまで含めるといったいいくつの『クリスマス・キャロル』が存在するのか、把握するのが難しいほどである6

たとえば、ごく最近の例では、細田守監督の『未来のミライ』(2018年)が『クリスマス・キャロル』の構成を下敷きにしていた。

まさに、『クリスマス・キャロル』は一つの「文化テクスト(culture-text)」になっているのである7

『クリスマス・キャロル』に基づく400もの映像の断片をつなぎ合わせ、お気に入りの『クリスマス・キャロル』(マッシュアップ映像)を作り上げたつわものも存在する8

映画化された『クリスマス・キヤロル』のうち、代表的なものとしては以下のものがある。

・モノクロ版(日本未公開)
『クリスマス・キャロル』(ブライアン・デズモンド・ハースト監督、アラステア・シム主演、1951年)

・ミュージカル版
『クリスマス・キャロル』(ロナルド・ニーム監督、アルバート・フィニー主演、1970年)

・ディズニーアニメ版
『ミッキーのクリスマスキャロル』(バーニー・マティンソン監督、1983年)

・テレビ映画版
『クリスマス・キャロル』(クライブ・ドナー監督、ジョージ・C・スコット主演、1984年)

・現代風アレンジ版
『3人のゴースト』(リチャード・ドナー監督、ビル・マーレー主演、1988年)

・マペット版
『マペットのクリスマス・キャロル』(ブライアン・ヘンソン監督、マイケル・ケイン主演、1992年)

・3DCGアニメ版
『Disney’s クリスマス・キャロル』(ロバート・ゼメキス監督、ジム・キャリー主演、2009年)

番外編としては、『クリスマス・キャロル』とよく似たプロットをもつ、アメリカのクリスマス映画の定番――

『素晴らしき哉、人生!』(フランク・キャプラ監督、ジェームズ・ステュアート主演、1946年)

を挙げてもよいかもしれない。というのも、貪欲な銀行家ヘンリー・ポッターを演じるライオネル・バリモアは、アメリカではラジオドラマでスクルージを演じる役者として定評があったからである(ただし、改心するのはポッターではなく、ボブ・クラチット[スクルージの事務所で働いている家族思いの事務員]のような善良な男のほうである)。

そして、今年また新たな『クリスマス・キャロル』が日本で公開される。伝記版とも言うべき、

『Merry Christmas! ロンドンに奇跡を起こした男』(バハラット・ナルルーリ監督、ダン・スティーブンス主演、2017年)

である。

ダン・スティーブンスが演じるのはスクルージではなく(スクルージは名優クリストファー・プラマーが演じる)、この映画の主人公であるチャールズ・ディケンズである。『クリスマス・キャロル』の映画化は数多くあれど、『クリスマス・キャロル』を書くディケンズの映画化は初めてである。

レス・スタンディフォードの伝記的著作The Man Who Invented Christmas(2011年)を原作とした映画ということになっているが、実際は脚本家スーザン・コインによる自由な創作であり、むしろ『クリスマス・キャロル』にインスパイアされた伝記風映画と言ったほうが適切であろう。

研究者的視点からはツッコミどころ満載なのだが、エンターテイメントとしては良くできた作品に仕上がっている。『クリスマス・キャロル』を書いたのが31歳の若きディケンズであり、わずか6週間という驚異的なスピードで原稿を書き上げたという事実が(作者についてほとんど何も知らない)観客に伝われば、まあ御の字であろう。

真偽のほどは定かではないが、昨年末に「『TABOO』トム・ハーディ&リドリー・スコット監督、英BBC Oneで『クリスマス・キャロル』を製作」というニュースも報じられたことだし9、今後も新たな展開を期待したい。


  1. セルゲイ・エイゼンシュテイン「ディケンズ、グリフィス、そして私たち」田中ひろし訳、『エイゼンシュテイン全集』第6巻(キネマ旬報社、1980年)、163-218頁。

  2. 前映画的装置については、アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング/映画とポストモダン』井原慶一郎・宗洋・小林朋子訳(松柏社、2008年)の第1章を参照。

  3. アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ/アルベルティからマイクロソフトまで』井原慶一郎・宗洋訳(産業図書、2012年)。

  4. 今のところ、最も包括的な研究は、Grahame Smith, Dickens and the Dream of Cinema (Manchester University Press, 2003)。スミスによれば、ディケンズは、次に続く時代である20世紀の映画を夢見ていた。

  5. この作品の大衆性や内容とは別に、中編小説という長さが2時間の映画のフォーマットにふさわしいということがその理由として挙げられる。私の考えでは、ディケンズの長編小説の映像化は、何時間もかけて描くテレビシリーズのフォーマットによりふさわしい。BBC制作による『マーティン・チャズルウィット』(ペドロ・ジェームズ監督、ポール・スコフィールド主演、1994年)はその数少ない成功例である。

  6. 1901年から1998年までのアダプテーションについては、Fred Guida, A Christmas Carol and Its Adaptations: A Critical Examination of Dickens's Story and Its Productions On Screen and Television (McFarland & Company, 2000) を参照。

  7. ポール・デイヴィスの言葉。“Chapter1: The Carol as Culture-Text,” in Paul Davis, The Lives and Times of Ebenezer Scrooge (Yale University Press, 1990).

  8. Heath Waterman, Twelve Hundred Ghosts - A Christmas Carol in Supercut (400 versions, plus extras): https://youtu.be/UF_rKE3nIoI.

  9. https://www.thewrap.com/ridley-scott-tom-hardy-steven-knight-christmas-carol-bbc-one/. 【追記】2019年12月22日にBBC Oneで放送された。


2018年11月20日(日本映画学会会報第55号コラム「視点」掲載)