見出し画像

【出版物紹介】共訳書『ヴァーチャル・ウィンドウ』

アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ/アルベルティからマイクロソフトまで』井原慶一郎・宗洋訳、産業図書、2012年


書評掲載情報

▼東京国立近代美術館で開催された「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」(2019.11.1–2020.2.2)において主要参考文献として紹介。

10 窓はスクリーン

アメリカの映画研究者、アン・フリードバーグは、15世紀のアルベルティから20世紀の映画やテレビ、パーソナル・コンピュータ(PC)に至るまで、さまざまな「四角い枠に囲われたヴィジュアル・イメージ」が、窓という1つの比喩によって語られてきたことを指摘しました。実に500年以上にわたり、窓はわたしたちの視覚のあり方を規定してきたのです。この章では、かつての絵画に代わって室内に別世界への窓を開くものとなったテレビやヴィデオ、PCをテーマとする作品をご紹介します。

東京国立近代美術館編『窓展 : 窓をめぐるアートと建築の旅』(平凡社、2019年)

ルネサンスの絵画からコンピュータのソフトウェアまでを貫く「窓の隠喩」に注目し、遠近法のパラダイムから、複数のウィンドウ、複数のフレームが同一のスクリーン上で重なり合う時代への転換を画期づける。デジタル画像と新しいディスプレイ技術の出現に伴い、視覚の構成法が変化し、マルチ・スクリーンが日常的な視覚システムとなった時代の新しい記述言語を、フリードバーグは豊富な歴史的事例を交えながら探っていく。従来の映画研究や視覚文化論との接続という視点からは、同著者の『ウィンドウ・ショッピング:映画とポストモダン』(1993=2008、松柏社)も参考にされたい。(大久保遼=愛知大学文学部特任助教)

「スクリーン・スタディーズを知るためのブックガイド」、光岡寿郎・大久保遼編『スクリーン・スタディーズ: デジタル時代の映像/メディア経験』(東京大学出版会、2019年)

本書の主題は多岐にわたるが、全体を一言で言い表す言葉を本書の中に探るとすれば、序章にある「メディア横断的な歴史研究」という表現が的確だろう。……「横断的」であることは、一つには、対象とする事象の要求による。各メディアは、切り離された自立したものとしては見られない。フリードバーグは、関係の網の目を形成する、複雑に交差する複数の線を解きほぐす。それはまた、現在進行形の動的な変容への果敢な取り組みでもある。……フリードバーグの横断する眼差しは、同時代に対して向かう際だけでなく、過去の歴史に向かう際に、より顕著となる。前著では、パノプティコン、パサージュ、ジオラマ、パノラマ、ショーウィンドウ、パリ万博、ショッピングモールといった事象が検討されていた。本書では、窓、ガラス、建築からスクリーンを経て、テレビやコンピュータの発展へと至る各局面が事象に即して丹念に辿られる。フリードバーグの枠に囚われない自在な考察は、「映画」は言うまでもなく、「映像文化」「光学装置」といった括りでさえ狭く限定的であることに気づかせる。……フリードバーグは、既存の領域を横断し、異化し、自明性を括弧に入れ、その制度的本質を明るみにする。そうした独自の切り口とすぐれた批判性こそが本書の卓越性を成している。……著者が早くに逝去したことが悔やまれるが、何よりも本書が残されたこと、そしてこのたび前著に引き続き、井原慶一郎と宗洋によるすぐれた訳業により平易な日本語で読めるようになったことを喜びたい。(亀井克朗氏=台湾興國管理學院専任助教)

「日本映画学会会報」第33号(2012年12月号)

アン・フリードバーグの『ヴァーチャル・ウィンドウ──アルベルティからマイクロソフトまで』は…ひらめきに富む“窓”論である。体裁は、一見、レオン・バティスタ・アルベルティの建築論から説き起こし、デカルト的な遠近法をへてハイデッガーやドゥルーズの “脱形而上学”的思考に進みながら体系的な枠組みを実証的に構築するかのように進むが、実際には、むしろベンヤミン的な “遊歩”のひらめきとしなやかさのなかで書かれている。たとえば、日本の学者が “立て─組”と訳して甘んじているハイデッガーの“Ge-stell”を “フレーム”と読み解き、映画につなげていくのである。……本書が先方に見ているのは、テレビ以後の、サイバースペースにおけるヴァーチャリティであるが、VRやAR(拡張現実)の技術とカルチャーが全般化するいまの状況への切り込み自体は、大胆というよりもつつましく “総合的”である。だが、映画をそうしたコンテキストのなかでシームレスにとらえる点では、映画論としても文化史としても他に類を見ない。彼女の早世が惜しまれる。(粉川哲夫氏=メディア批評家・映画評論家)

「図書新聞」2012年11月10日【映画論、文化史としても他に類を見ない「窓」論─ハイデッガーの「Ge‐stell」を「フレーム」と読み解く】

▼『毎日新聞』今週の本棚に掲載された共訳書『ヴァーチャル・ウィンドウ』についての山崎正和氏による書評(「視覚と知性の近代史 一貫性の再認識」2012年9月30日)が潮出版社より刊行された『「厭書家」の本棚』に再録(79-82頁)。

人の心は外へ開かれた窓であり、その窓枠が現象を切り取り、窓の外側に自然界、内側に自己が生まれたときに認識が成立する、というのは広く認められた常識だろう。著者はほぼこの常識に沿いながら、しかし関心の的を自然界でも自己でもなく、中間に立つ窓そのものに絞りこみ、彼女が「ヴァーチャル」と呼ぶその性質を徹底的に分析する。……アルベルティの窓は見る人のまえに垂直に立っていたが、そういえば絵画のイーゼルも映画のスクリーンも、テレビやパソコンの画面も垂直に立っているという指摘は、たんに著者の機知を示すものではない。著者は近代という文明の一貫性の確信者であって、俗にいう「ポスト近代」もその一部にすぎないことを再確認しているのである。……物質的基盤のうえに形成された認識像という定義から、当然、ヴァーチャルの歴史は知識社会学的な歴史になる。マルクスが観念論を攻撃したとき、彼が観念に喩(たと)えたのはカメラ・オブスクーラの虚像だったし、ベルクソンが記憶の「ヴァーチャル」な性格に言及したとき、念頭にあったのはおりから出現した映画の画像だった。そしてハイデガーを絶対的な存在の探究に駆り立てたのは、近代工業がすべての自然物を複製化し、ヴァーチャル化したことへの彼のいらだちであった。(山崎正和氏=劇作家・評論家)

「毎日新聞」2012年9月30日【視覚と知性の近代史 一貫性の再認識】

アルベルティの遠近法から現代のコンピュータまでを取り上げ、矩形によって切り取られる我々の視覚について考察した快著。古今の識者の哲学をレンズに見立て、フレームの向こうに見えるヴァーチャリティを、映像メディア研究者である著者が柔軟な発想でひもといていく。(松崎未来氏=ライター)

「美術手帖」2012年10月号

本書は窓(ウィンドウ)に焦点を当て、コンピューター時代における、「見る」の未来を哲学する。著者が扱うのは、窓そのものばかりではない。窓と比喩的に呼ばれうるものすべて、絵画、映画、テレビ、コンピューター画面などである。本書は、15世紀ルネサンスの画法「遠近法」にはじまり、とりわけマイクロソフト社の「ウィンドウズ」を筆頭に、今日の各種デジタル・スクリーンに至るまで、窓の一族を取りあげている。しかし単に、窓の一族という視覚装置の技術史を書こうというのではない。映画のスクリーンやテレビ画面と向きあってきた、人間の世界認識のありようを、あぶり出そうというのである。……窓から見える風景の存在論は激変した。それがもたらすのは、「快楽」なのか「危険」なのか。著者の論考は一読に値する。(原克氏=早稲田大学教授)

「日本経済新聞」2012年8月26日【世界認識への影響あぶり出す】

『ヴァーチャル・ウィンドウ』目次
装幀は戸田ツトム氏、魔的な帯は高山宏氏

▼『ヴァーチャル・ウィンドウ』について語るアン・フリードバーグ(英語・字幕なし)

▼THE VIRTUAL WINDOW INTERACTIVE