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『ウィンドウ・ショッピング』と『ヴァーチャル・ウィンドウ』

縁あって日本映画学会に入会させていただくことになった。その縁とは、アン・フリードバーグの二冊の翻訳なので、そのことについて書きたいと思う。

映画学の学徒にフリードバークについての説明は不要だろう。カリフォルニア大学アーバイン校(1985- )、南カリフォルニア大学映画・テレビ学部(2003- )で教鞭をとり、二冊の単著を遺して2009年に57歳の若さで亡くなった映像メディア研究の才媛である。健在であれば、同年にはアメリカ映画・メディア学会(SCMS)の会長に就任する予定だった。

私はこの二冊の著作の翻訳に関わることになるのだが、最初の単著『ウィンドウ・ショッピング/映画とポストモダン』(University of California Press, 1993)を翻訳して世に出したいという発案は共訳者の宗洋氏(高知大学准教授)によるものだった。H・G・ウェルズの研究者である宗氏は「タイム・マシンとしての映画」というフリードバーグの着想に早くから注目していた。宗氏は大学院の後輩にあたる。私は当時まだ大学の特別研究員だった宗氏に代わり、面識のあった松柏社社長森信久氏に翻訳の企画を申し出た。(こういう場合、自分の発案だと気後れするが、仲介だと蛮勇がふるえるものである。)研究書の翻訳に関してまったく業績のない若い訳者の申し出に快く応えてくださった森氏には大変感謝している。

邦訳『ウィンドウ・ショッピング』(2008)出版以前、フリードバーグは日本の一般の読者にはほとんど知られていない存在だった。日本語で読めるフリードバーグの文献は、Linda Williams, ed., Viewing Positions: Ways of Seeing Film (Rutgers University Press, 1995) 所収の論文「映画とポストモダンの状況」(荒尾信子訳、岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『「新」映画理論集成①』、フィルムアート社、1998)と、2000年に東京国立近代美術館フィルムセンターが主催した国際映画シンポジウム「ハワード・ホークス再考!」でおこなった講演「ホークス的な女性/ホークス的な男性」(とちぎあきら訳、『「NFCニューズレター」別冊「ハワード・ホークス再考!」講演集』、国立近代美術館フィルムセンター、2000)の二点のみだった。ウェッブ上での言及も珍しく、数えるほどしかなかった。

邦訳『ウィンドウ・ショッピング』は好評をもって迎えられた。多くの新聞、雑誌で書評が取り上げられ、初版からおよそ二年の歳月を経て重版の運びとなった。映像メディア研究の必読書ともいうべき本書を日本の一般の読者に紹介できたのは、それなりの功績であったと思う。だが、いっぽうで、原書はウィンドウズ95も世に出ていない1993年に上梓されたため、議論上、時代的な制約があることも否めず、私は、2006年に出版されたフリードバーグの最新作を併せて紹介しなければ、この翻訳プロジェクトは完成しないという思いを強くもつに至った。その思いは「訳者あとがき」に表れている。

本書は、欧米の研究者や学生の間で、映画研究、メディア研究の必読書として読まれている。フリードバーグが論じているのは、ビデオデッキや初期のヴァーチャルリアリティの技術までであり、パソコンとインターネットが普及した今日、最新のテクノロジー(例えば、ビデオライブラリー)についての記述はやや古めかしくみえるかもしれない。だが、ビデオデッキがDVDレコーダーとなり、ビデオライブラリーが家庭のパソコンになったのだとしても、それらの技術は基本的に本書の射程内にある。本書の議論は、モニター画面の前で「仮想の移動性」を享受するあらゆる「視線」に応用可能なのである。(九〇年代以降のデジタル技術を含めたフリードバーグの最新の論考The Virtual Window[前掲書]も本書の議論の延長線上にある。)

邦訳『ウィンドウ・ショッピング』「訳者あとがき」

その思いは、フリードバーグの早世によってさらに強くなった。私は『ウィンドウ・ショッピング』の翻訳作業中にフリードバーグとメールでコンタクトを取ったのだが(2007年12月)、その際に日本語版を心待ちにしているという内容が何度か返信されてきた。人づてに聞いた話によれば、フリードバーグは日本語版『ウィンドウ・ショッピング』の出版を大変喜んでいたそうで、研究室の扉や学部の掲示板に大きくそれを知らせるポスターを掲示していたという。彼女はSCMS東京大会(2009)の開催を楽しみにしていたが、来日はかなわなかった。

翻訳の企画の申し入れには、今度は宗氏が精力的に動いてくれた。力強い後方支援は視覚文化論の第一人者で、著書『かたち三昧』(羽鳥書店、2009)のなかで『ウィンドウ・ショッピング』を「さすがに批評最前衛の国、秀才はいるものと素直に脱帽、悔しさ半分でめちゃくちゃ愛読した。その名作の邦訳。」と評した高山宏氏(明治大学国際日本学部教授)。出版は産業図書が引き受けてくれた。担当箇所は、宗氏に好きな章を選択してもらい、私が残りを担当することになった。自分のことはさておき、写真に造詣が深く、H・G・ウェルズの研究者である宗氏が、カメラ・オブスクーラの役割について詳細に検討する第二章「フレーム」と、ウェルズの『世界はこうなる』を原作にしたウィリアム・キャメロン・メンジーズ監督の映画『来るべき世界』(1936)の説明で始まり、その説明で終わる第三章「『窓の時代』」を担当したのはまさに適材適所だった。

『ヴァーチャル・ウィンドウ/アルベルティからマイクロソフトまで』は今年の7月に出版された(装幀は戸田ツトム氏、魔的な帯は高山宏氏)。書評は、8月26日付『日本経済新聞』読書面(評者:原克氏、「世界認識への影響あぶり出す」)、9月30日付『毎日新聞』今週の本棚(評者:山崎正和氏、「視覚と知性の近代史 一貫性の再認識」)、11月10日付『図書新聞』(評者:粉川哲夫氏、「映画論、文化史としても他に類を見ない『窓』論──ハイデッガーの『Ge-stell』を『フレーム』と読み解く」)ほかに掲載された。粉川氏の書評は、アルゼンチン映画『ル・コルビュジエの家』(ガストン・ドゥブラット+マリアノ・コーン監督、2009)の説明から始めているのが興味深かった。また、粉川氏は、フリードバーグがニューヨーク大学の映画学科で修士号と博士号を取る間(1975-1983)のニューヨーク・ソーホーの「脱領域的」な知的環境や雰囲気についても指摘している。

私のもとの専門は英文学だが、文学部の英文科に就職しなかったこともあり、比較的自由な研究環境のなかで、自分の関心に従っていくつかの研究領域、テーマの間を渡り歩いてきた。こうした「遊歩」が、フリードバーグの翻訳には大いに役に立ったわけだが、フリードバーグの二冊の翻訳を通じて米国のアカデミックな研究のスタイルのあり方が(たとえそれが局所的なアカデミズムであったとしても)理解できたような気がする。

今後、映画研究の領域でどれだけの貢献ができるかは未知数だが、「脱領域的」な文学研究のバックグラウンドを最大限に活かしながら、新しい視点を提示できればと思っている。

2012年12月21日(日本映画学会会報第33号コラム「視点」掲載)