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大江健三郎『キルプの軍団』を読む #1

2024年8月24日(土)13:00~14:30に朝日カルチャーセンターのオンライン講座で大江健三郎の『キルプの軍団』についてお話しします。ご参考までに、その講座の冒頭の部分をnoteで公開します。講座の詳細については記事末尾のリンクをご覧ください。(公開時期は未定ですが、講座終了後、#2以降も順次公開する予定です。)


「季刊へるめす」(岩波書店刊)

『キルプの軍団』は「季刊へるめす」に5回に分けて連載されました。大江健三郎は「この小説は、私が生涯で経験した最高の知的サークルといいたい同人誌『へるめす』に連載しました」と、 講談社文庫版『キルプの軍団』あとがきで述べています。編集同人の名前を見ると、建築家・磯崎新、詩人・大岡信、作曲家・武満徹、哲学者・中村雄二郎、文化人類学者・山口昌男の名前が並んでいます。

武満徹と山口昌男はこの小説のなかでも言及されています。

おれの友達で、芸術大学に行くことはしないで、いまや世界で有数の音楽家のTさんね。

岩波文庫版『キルプの軍団』、156頁

父の友人の文化人類学者Yさんのon the fringes of societyの理論のことは、道化の話…ともども、ディケンズとポピュラー・エンターテインメントの本を貸してくれる時、父が要約して話してくれたことなのでした。

岩波文庫版『キルプの軍団』、274頁

話を戻しますと、『キルプの軍団』は「季刊へるめす」に5回に分けて連載されました。ただし、83章〜125章は書き下ろしです。

『キルプの軍団』初出

1〜13  「キルプの宇宙(1)」『季刊へるめす』第13号(1987年12月)
14〜26  「キルプの宇宙(2)」『季刊へるめす』第14号(1988年3月)
27〜45  「キルプの宇宙(3)」『季刊へるめす』第15号(1988年6月)
46〜65  「キルプの宇宙(4)」『季刊へるめす』臨時増刊別巻(1988年7月)
66〜82  「キルプの宇宙(5)」『季刊へるめす』第16号(1988年9月)
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83〜125  書き下ろし『キルプの軍団』岩波書店(1988年9月)

すなわち、『季刊へるめす』で連載を読んでいた読者は、続きが読みたければ、単行本を買ってください、ということになります。これはディケンズの小説、例えば『骨董屋』についても言えることですが、連載の切れ目を意識すると、プロットの切れ目やつながりがより明確に見えてきます。

『キルプの軍団』の連載時のタイトルは、「キルプの宇宙」でした。「キルプの軍団」も象徴的なタイトルですが、「キルプの宇宙」も象徴的なタイトルになっています。なぜ「宇宙」という言葉を使ったのかについては、のちほど私なりの解釈を述べてみたいと思います。

普段小説を読むときには、あまり意識しなくてもいいことですが、研究ということになると、「テキストの異同」というのが問題になります。連載時から単行本になった際の最も大きな「テキストの異同」は、ディケンズの『骨董屋』の英語の引用に、オーちゃんによる日本語訳が加わったことです。

 Kit was a shock-headed, shambling, awkward lad with an uncommonly wide mouth, very red cheeks, a turned-up nose, and certainly the most comical expression of face I ever saw. ... I entertained a grateful feeling towards the boy from that minute, for I felt that he was the comedy of the child’s life.
 さて、長い外国語の引用に出くわすと、面くらわれるかもしれませんから、忠叔父さんの授業の後、ノートに書きつけておいた僕の訳文をそえることにします。一応、御参考までに!
 《キットは、モジャモジャ頭の、ひょろひょろ歩く不恰好な若者で、並たいていじゃなく大きな口をしていました。とても赤い頬、上に向いている鼻、そしてかつて見たなかで確実にいちばん滑稽な表情をしているのでした。……その瞬間から、私はこの少年に良い気持ちをいだいたのです。というのも、私は彼のことを、子供の暮らしのコメディ版と感じとったからでした。》

岩波文庫版『キルプの軍団』、8頁

初出に訳文はありません。すなわち、「さて、長い外国語の引用に出くわすと」から「私は彼のことを、子供の暮らしのコメディ版と感じとったからでした。》」までが新しく加筆された部分です。

大江は、「季刊へるめす」を購読している知的な読者であれば、英語の訳は不要と考えていたのかもしれません。あるいは、読者に、オーちゃんと同じように、辞書を引きながらディケンズを読む体験を味わってもらいたかったのかもしれません。

この作品はフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。

さて、小説やドラマなどでは、こうした注意書きをよく見かけます。『キルプの軍団』はもちろんフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。しかし、大江作品を読むうえでは、ある程度の伝記的事実について知っておくことが有益だと思います。それは大江作品、大江ワールドの共通の土台となっており、他の作品との関係性について考えるうえでも有効です。

オーちゃんのモデルは、大江健三郎の次男のSさんです。オーちゃんの父親の作家のKは大江健三郎がモデルになっています。忠叔父さんのモデルは、大江健三郎の弟のO・Sさんです。オーちゃんの兄の光さんは実名で登場しています。その他、姉、母親も登場しますので、『キルプの軍団』は連載開始当時(1987年)の大江家をモデルにして書かれたと言ってよいでしょう。

それだけではなく、Sさんの母方の祖父は、映画監督の伊丹万作なのですが、伊丹万作も「映画監督のI・M氏」として作品に登場します。また、このときのオーちゃんの年齢が17歳であることにも注目してください。「セヴンティーン」は1961年に発表され、物議を醸した大江の中編小説のタイトルですが、大江は1980年代の新たな「セヴンティーン」を書こうとしたのだと言うこともできます。

父親と障害を持つ息子との共生を描いた『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)は、父親の視点から書かれています。父親の視点から描くと、どうしても父と息子の間に上下関係、ヒエラルキーのようなものが生まれてしまいます。そうした関係性を相対化するために、大江は、息子の視点から語るという語りの手法を採用したのだと考えられます。

ちなみに『静かな生活』(1990年)という作品では、長女のNさん、作品のなかではマーちゃんの視点から小説が書かれています。この作品では、少し成長し、今は浪人生をしているオーちゃんが再登場しています。このように、大江の他の作品との関係性について考えるうえでも、ある程度の伝記的事実について知っておくことは有益です。

それから、『キルプの軍団』に登場する小道具は、そのほとんどが実在するものです。『キルプの軍団』は、高校2年生のオーちゃんがディケンズの『骨董屋』を読みながら、さまざまな体験をするという物語ですが、オーちゃんが読んでいるペンギン・クラシックス版のテキストも実在しますし、そこで話される内容も実際のテキストに基づいています。

すなわち、ペンギン・クラシックス版の『骨董屋』を脇に置いて併読すれば、より立体的に『キルプの軍団』を楽しめる仕掛けになっています。ただし、2001年からは新版となり、註が改訂されましたので、中古本を手に入れる必要があります。

例えば、次の引用をご覧ください。

――その本のね、最後の章をざっと見て、Tom Scottという名前を見つけてやね、そこをちょっと読むと、続きのなかに、an Italian image ladという文句があるはずなのやがな、そこに註がついていないかどうか見てよ、オーちゃん。……
――ありました。
――この本では、どう説明してある? ……
――ヴィクトリア朝に、陶磁器で作った有名な人の肖像の、石膏の模像を、イタリア人が売って歩いていた、と説明してあります。括弧して、その肖像がimageなんだとも書いてありますけど……

岩波文庫版『キルプの軍団』、10頁

この註は、実際に存在します。

Charles Dickens, The Old Curiosity Shop, ed. Angus Easson (Penguin, 1972), p.719.

このように、ペンギン・クラシックス版の『骨董屋』を脇に置いて併読すれば、より立体的に『キルプの軍団』を楽しむことができます。これは、本文や註だけでなく、挿絵についても言えることです。

例えば、次の引用をご覧ください。

さてペンギン・クラシックス版の挿絵では、墓石の間の草地に腰をおろした見世物師二人組が、人形劇の小道具や人形自体の修理をしています。バラバラになった絞首台を紐で縛りなおしたり、本文に「過激な隣人」と説明してある人形の、ツルツル頭の鬘(かつら)を鋲で打ちつけたりしています。ずいぶん荒っぽい・過激な劇が、上演されるのでしょう。

岩波文庫版『キルプの軍団』、60-61頁

こういった説明はやはり、挿絵を見ながら読んだほうが、より理解が深まると思います。

"Punch in the Churchyard" by Hablot Knight Browne (Phiz). Wood engraving.
The Old Curiosity Shop, Chapter 16.

オーちゃんの説明が、『骨董屋』の本文や挿絵の正確で簡潔な説明だということがわかります。『キルプの軍団』の同じページのもう一つの例を見てみましょう。

"The Grinder's Lot" by Hablot Knight Browne (Phiz). Wood engraving. 
The Old Curiosity Shop, Chapter 18.

本文から引用します。

見世物師たちと道連れになって、あらためて街道に出たネルと老人は、身長ほどもある竹馬に乗ったふたりと―― 足の踵(かかと)とつま先を固定する仕組みらしいのですが――、こちらは自分の足で地面に立っている、ドラムを背負ったひとりの一座に出会います。道しるべが四つの道をさしている下で出会い――もちろんその一方は、ロンドンです――、お互いにそこに向かおうとしている草競馬の催しの場所をめぐって、情報を短く交換し、そのまま別れる。道を照らす月を頼りに、竹馬で先を急ぐ芸人たちのドラムの音に、「パンチとジュディ劇」の見世物師のひとりがトランペットで別れの挨拶を送るしめくくりなど、美しい情景だと僕は思いました。

岩波文庫版『キルプの軍団』、61頁

このように、『骨董屋』を脇に置いて併読すれば、より立体的に『キルプの軍団』を楽しむことができます。