見出し画像

映画『ダンケルク』レビュー

フィルムアート社のウェブマガジン「かみのたね」に、クリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』についてのレビューを寄稿。『ダンケルク』日本公開から2日後の2017年9月11日に掲載。

幻影から没入へ――IMAXカメラで描く360度全方位の戦争パノラマ画『ダンケルク』

『ダンケルク』(2017年)についてのインタビューのなかで、クリストファー・ノーラン監督は、「subjective experience」や「subjective view」というように、しばしば「subjective」という言葉を使っている。「subjectivity(主観性または主体性)」は、『ダンケルク』を語るうえで、キーワードとなる言葉だろう。

近現代哲学において、「subjectivity(主体性)」は、最重要ワードであると言ってよい。ヘーゲルの『精神現象学』は、主体が「真実」を次々に発見していくプロセス(逆に言えば、主体が自らの「嘘」を明らかにしていくプロセス)として記述されているし、ラカンの精神分析学も、主体が自らの欲望によってどのように構造化されているかを明らかにしようとしている。

トッド・マガウアンは、『クリストファー・ノーランの嘘/思想で読む映画論』(フィルムアート社、2017年)において、ヘーゲル哲学やラカンの精神分析理論を使って、ノーラン作品(長編デビュー作の『フォロウィング』から『インターステラー』まで)を論じているが、その議論全体の基調となっているのが、第2章の『メメント』論(「『メメント』と知ろうとしない欲望」)である。

『メメント』(2000年)を語るうえで、「subjectivity」は絶対に外せないキーワードだろう。『メメント』についてのインタビューのなかでも、ノーラン監督はしばしば「subjective」という言葉を使っていた。

10分間しか記憶を保てない前向性健忘症の主人公レナード・シェルビー(ガイ・ピアース)の体験を、観客にも追体験させるために、ノーラン監督は、前向きに進む物語を約5分間のシークェンスに断片化し、それらを逆向きの時系列で配置した。観客は、次に何が起こるかを知らない主体としてというよりも、レナードと同じように、前に何が起こったかを知らない主体としてこの映画に向き合うことになるのである。

これは(記憶障害に特有の)特殊な経験であるかのように見えるが、私たちは、主体性を超えて客観的(objective)に物事を見ることはできないという、私たちが置かれた認識の条件を明らかにするものである(さらに言えば、私たちは、知ろうとしない欲望[ラカンの言う「無知への情熱」]を持っている。レナードの振る舞いは、その事実をあらわにする)。ノーラン監督には、おそらく、こうした主体が置かれた条件からなるべく逸脱しないかたちで映画を製作したいという欲求があり、それが彼の映画を倫理的なものにしている。

『ダンケルク』は、第二次世界対戦初期の1940年5月26日から6月4日にかけてフランスの港町ダンケルクでおこなわれた、英仏連合軍の大規模撤退作戦を扱った映画だが、ウィンストン・チャーチルもアドルフ・ヒトラーも登場しない。

ふつうの映画であれば、作戦全体を描くために、たとえば、イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイによる作戦の指揮(ドーバー城の地下の司令室が、発電機室すなわちダイナモ・ルームと呼ばれていたことにちなみ「ダイナモ作戦」と呼ばれた)の場面などが描かれるだろう。1958年のイギリス映画『激戦ダンケルク』(レスリー・ノーマン監督)も、2004年にBBCによってドラマ化された『ダンケルク 史上最大の撤退作戦・奇跡の10日間』(ベネディクト・カンバーバッチが陸軍将校役で出演している)もそうした場面を描いている。

しかし、ノーラン監督は、これとはまったく異なるアプローチを採用している。誰のものかわからない全知の視点で描く代わりに、彼は、特定の個人の(おもに三つの)視点に限定して映画を構成している。すなわち、若きイギリス軍兵士トミー(フィン・ホワイトヘッド)、民間のベテラン船長(マーク・ライランス)、英空軍のパイロット(トム・ハーディ)――言い換えれば、陸、海、空――の三つの視点である。


▼続きは以下をお読みください。


▼アスペクト比の違い(IMAX 70mm vs スタンダード)