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ディケンズ『大いなる遺産〈上・下〉』(加賀山卓朗訳、新潮文庫)

没後150年 代表作を新訳

今年はディケンズ没後150年にあたる記念すべき年だ。命日は6月9日。このタイミングでディケンズの代表作が新訳で出版された。

本作はディケンズが編集長を務めた週間雑誌に連載された。某作家の巻頭小説が不評で、雑誌の売れ行きが落ち込んだため、編集長自らが筆を執ることになった。約8か月にわたって読者の興味を引き続け、次週乞うご期待となるべくさまざまな工夫が凝らされているが、それが本作を第一級のエンターテインメントにしている。全15編中13番目の長編小説となる本作は、作家ディケンズの集大成とも言える作品である。

本作は、ピップと呼ばれる少年の成長と挫折を描いた物語だが、成長したピップが自らの過去を振り返って書く一人称小説の枠組みで書かれている。ディケンズには同じ枠組みで書かれた中期の代表作『デイヴィッド・コパフィールド』があるが、こちらは主人公デイヴィッドがさまざまな困難を乗り越えたのち、作家として成功し、最終的に幸福を手にするハッピーエンドの物語だ。このときディケンズは30代後半。『コパフィールド』から10年、40代後半のディケンズは中年の危機を迎えていた。

若い女優エレン・ターナンとの不倫関係はディケンズ最大のスキャンダルと言えよう。道義的な非難はひとまず脇に置くとして、この女性の存在がディケンズの小説に新風を吹き込んだことは確かである。ピップが恋い焦がれる美少女エステラの造形にエレンとの関係が色濃く反映されている。労働者階級出身のピップは彼の心を傷つけ、侮辱した少女の故にジェントルマンになりたいと願う。真のジェントルマンとは何かというのが本書の中心テーマになっている。

本作は『コパフィールド』のような成功の物語ではない。にもかかわらず読後感が爽やかなのは、成熟した語り手の姿に人生に対する認識の深まりを感じるからではないだろうか。この機会にぜひ新訳で味わいたい。

2020年5月31日(「南日本新聞」掲載[一部改稿])