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デイヴィッド・シルヴェスター『ジャコメッティ 彫刻と絵画』(武田昭彦訳、みすず書房)

ジャコメッティの芸術を現在進行形で見続ける――「晩年のスタイル」への再考を促す論考

二つの事情が本書をユニークなものにしている。一つは、本書が四〇年という長い歳月をかけて書かれていることである。本書に収録された最初のエッセイが書かれたのは一九五五年であり、以後、断続的に書き続けられたエッセイがまとめられて、原著は一九九四年に出版されている。著者は「まえがき」で、「主要な諸テーマをさまざまな点でさまざまに展開させるがままにして、時間の経過を尊重」したと述べている(九頁)。各章はそれぞれ異なるパースペクティブを持ち、ジャコメッティ展のキュレーション、対話やインタビュー、一九六〇年に絵画のモデルになった経験などから得た新たな知見が盛り込まれている。原著のタイトルLooking at Giacomettiが示すように、本書は著者がジャコメッティの芸術を現在進行形で見続けてきたことの記録である。

もう一つは、最初の点とも関連するが、著者が本書においていくつもの顔を持っていることである。著者は美術評論家あるいは美術史家としてジャコメッティの芸術を語るだけではない。彼はキュレーターであり、インタビュアーであり、友人であり、モデルでもあるのだ(本書のカバー写真は著者を描くジャコメッティのポートレートである)。たとえば、シュルレアリスム期の彫刻作品《見つめる頭像》(一九二八年)について彼はこう述べている。「この頭像が非常に近くから見られた顔の感じを再生しようとしたものであったかどうか、わたしがジャコメッティに訊ねたとき、彼はそれがまさに彼の意図であったと答えた」(五七頁)。彼は、一九六五年(ジャコメッティの死の前年)にロンドンのテート・ギャラリーでおこなわれた大回顧展のために作家本人と打ち合わせをおこない、展示プランを立て、カタログを編纂し、実際に展示された作品を見る機会に恵まれているのである。このとき、長時間にわたるインタビューも収録されており、それが本書にも収められている(「ジャコメッティ・インタビュー」)。

彼がインタビュアーとして優れていることは、最近文庫化された別の著作『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(ちくま学芸文庫)を見ても明らかである。ちなみにベーコンは、ジャコメッティのデッサンと一九四〇年代後半の絵画のいくつかを好んでいたが、彫刻の大部分を「芸術っぽい(アーティ)」と思い嫌っていたという(一七五頁)。本書においても聞き手の名手としての力量は遺憾なく発揮されており、重要な発言が次々と引き出されていく。

ロダンですら胸像をつくっていたとき、やはり寸法をとっていた。彼はある距離をもって空間のなかにある、実際に彼が見たとおりの頭部をつくらなかった。(中略)だからそれは、基本的にヴィジュアルなものではなくてコンセプチュアルなものだ(二〇一頁)。

ときどきカフェで向かいの歩道を通り過ぎる人々を注視していると、彼らは非常に小さく見え、ちっぽけな小彫像のようで、わたしはそれらをすばらしいと思う。(中略)もしも彼らがもっと近くにやってくれば彼らは違った人になる。だが彼らがあまりにも近づきすぎると、二メートルくらいになると、わたしにはもはや彼らがまったく見えない(二〇四頁)。

従来の写実的な彫刻は物の形態を再現しようとするが、ジャコメッティの彫刻は物の見え方、つまりヴィジョンを再現しようとする。第二次世界大戦中に制作が続けられた二・五センチにも満たない微小彫刻は、遠くから通りにいる女性を見たときのヴィジョンを記憶によって再現したものだった。著者が指摘しているように、「非常に小さな人物像はのちの女性の立っている人物像すべての原型であった」(一五一頁)。著者は、ジャコメッティの作る人物像がなぜ彼の故郷であるスイスのスタンパに見られる針葉樹や鋭い山の頂や尾根に似てしまうのかについても論じている。ジャコメッティ研究における著者の最大の功績は、記憶から作られる彫刻作品と写生によって作られる彫刻作品を丁寧に区分けし、その質的な差異と共通点を明確に論じ分けた点にあるかもしれない。

著者によれば、ジャコメッティのキャリアのピークに位置する作品は、一九四〇年代の終わりごろに描かれたいくつかの絵画と、一九五五年に制作された彫刻(《ディエゴの胸像》)である。これは議論を呼ぶ見方かもしれない。というのも、〈矢内原クライシス〉(一九五六−六一年)と呼ばれる時期を経て、強い眼差しを持った最晩年の作品――カロリーヌの肖像とロタールの座像――をジャコメッティの最終的な到達点と見なすのが研究者の間では一般的な見方だからである。「一九五〇年代の中ごろ以降、彼の絵画も彫刻もしだいにそれらを制作することの困難さの表現になった、とわたしは思う」(一九四頁)。ジャコメッティの晩年の一〇年間の仕事をどのように評価すべきか。「晩年のスタイル」について再考するうえでも極めて示唆的な論考である。

2018年10月20日(「図書新聞」第3371号掲載)


▼ロンドンのテート・ギャラリーでの大回顧展(1965年)に合わせて製作された記録映画(デイヴィッド・シルヴェスター脚本・製作)