芝刈りの日々
植本一子『愛は時間がかかる』を読み終えた。一気に最後まで読めてしまうくらいのボリュームだったが、あえて数日かけてじっくり読んだ。それはこの本の中に流れる時間感覚を共有するためでもあったし、もっと単純に、自分が置かれている状況とのシンクロが強すぎて体力的に持たなかったということもある。トラウマ治療について書かれたものだということは読む前から知っていたし、自分にとってもカウンセリングの予習復習になればと思っていた。参考になることも励まされることも多かったが、実践の最中にいる人間がこれを「読む」だけで済ませることはできなかった。この話を俺の先生にすればきっと、「読まない方がいいとは言いませんが、今は負担が大き過ぎるかもしれませんね。カウンセリングのなかで扱えばいいことですから」と言われるに違いない。
前回のカウンセリングは5月7日。たいていカウンセリングの後はいくらかスッキリした気持ちになれるのだけど、あの日はそうでなかった。本題に入る前に軽く近況報告を済ませようと思ったら、その近況報告からトラウマの話にまでつながってしまった。つまり、自分が「余談」だと思っていたところが実は「本題」で、まぎれもない治療対象であることに気づかされたのだ。マヌケだと思う。こういった経験はカウンセリングでは何度も繰り返していることだけれど、だからこそショックだった。次の段階に進むためにようやく準備が整ったと思っていたのに、まだこれなのか。そして、自分のやることなすことすべてが過去に規定されているように感じた。これまでうまくいかなかったことや、忘れられない記憶のひとつひとつが説明できてしまうことが怖かった。これを乗り越えれば自分はもっと楽になれる、と思って前向きに取り組んできたけれど、ふっと、これまで自分が失ってきた可能性の多さを思い知って心が折れた。
そして5月22日。6月まで予約が取れていなかったところを臨時で追加してもらった。1ヶ月空くのは今の自分にとって心許ない。矛盾するようだけれど、治療に対して前向きになれているのならカウンセリングの間隔が遠くても大丈夫なのだ。しかし俺はすっかり途方に暮れていて、一人で立っているのが難しかった。治療の意義を見失ったわけではないけれど、あまりに自分が惨めに感じてやっていられなかった。
「このあいだ職場の草むしりをしたんです。一部の芝を抜こうと思ったら土の下で全部つながっていて、結局すべての芝を剥がさなきゃいけないってことがわかったんです。それをいま思い出しました。まだ話していないことが、うまくいかなかったことがたくさんあって、それが全部トラウマで説明できてしまうとしたら、ちょっと、どうしていいかわからない。絶対に勝てないルールのなかで何も知らずに戦ってきたとしたら、これまで頑張ってきたことはなんだったんだろうって。無駄な努力だった」
俺が泣きながらそう話すと、先生は残り時間を気にしながら諭すように説明を始めた。ルーズリーフに芝生の図を描きながら。
「根っこから抜かなきゃいけないのはその通りです。表面的な芝をいくら刈ってもそれは本質的な治療にならない。ただ、根っこのイメージは少し違います。あなたが思っているような縦横無尽に広がっているという感じではなくて、根っこがひとつの塊になっているイメージです。そこさえ引っこ抜いてしまえばもう芝刈りをする必要はなくなります。それと、これまでやってきたことは無駄ではありません。これまでのことがあったから今があるんです。根っこを抜くためにはまずある程度まで芝を刈る必要があります。大脳辺系の反応が、10のうち6くらいまでには下がっていないとこの治療はできない。数年前のあなたにはこの説明をしても意味がわからないと思います。これまでの努力があったからこの話ができているんです」
少しずつ気分が落ち着いて、先生の言っていることがようやく理解できるようになってきた。それと同時に、貴重なカウンセリングの機会を本題に入れないまま終えてしまったことが惜しかった。この葛藤を向精神薬で沈めるとしたら、それはさながら除草剤を撒くようなことだろうか。後になってそんなことを考えた。しかし強力な農薬は雑草だけでなく、大地そのものを枯らしてしまう。それが何を意味するのかわかっているから、俺はまだ芝を刈る必要がある。
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