ゆびをかぞえる

幼稚な願いだとわかっていても、海を見ると漁師になりたくなる。自分の手を見ると、漁で作ったまめもなければ、網ですりきれた古傷もなく、ボールペンのように4本の指がたよりなく並んでいるだけで、そのことに後ろめたさを覚えるぼくはまだ健全だと思いたい。
言葉に固められることを拒んでいるみたいに波は立ちつづけ、風は見られることを恥ずかしがって海へ逃げていく。こうして現在形で語れることに安心を覚えるのは、現在形であればおとぎ話のめでたしめでたし流の終わりが来ないと知っているから。
海には船ひとつなく、そこにあって、海と呼ぶのがはばかられるほど大きくて、広いという言葉におさまらないほど広くて、海という名前ですらせいぜいが世界の直喩にしかならないということに気づくと、やはりおとぎ話流のめでたしめでたしなんて人間の傲慢に思えてくる。そのようなきれいな終わりなんて、人の作ったものの中にしかないんだから、ぼくはそこにとどまっていてはいけない。
ぼくの、十指が百まですら数えられないことを考えるとくすくすと笑えてきて、その中にとどまっている自分の手を許してあげたくなる。めでたしめでたしよりも、手の指では十までしか数えられないことが、人である証な気がして、ぼくはやっと人らしく過去系を使う気になれた。

#詩

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