ムジール『ぼくの遺稿集』森田弘訳 晶文社

(*)ムジールの名前は本によって「ムシル」であったり「ムージル」であったりと表記揺れが激しいのでここでは書名以外「ムジール」に統一する


絶版になった本を薦めるのは妙な気分だ。知り合いに、その人の知らない故人の話を滔々としているような気がする。焚き火を囲ってならそういうことをしたいような気もするが、あいにくインターネットにそんな場所はない。今回紹介する本は絶版で、あまり古本屋で見かけることはないけれど高値もついていない。だから薦めたいというわけではないのだが。

この頃散文詩を書きはじめたのは、ある種わたしにとってストレッチのようなもので、それまではだいたい俳句を作っていたのだけど、書くときに要求されるものが韻文と散文とではかなり違うと気づいて、いろいろとゴタゴタがあったのもあり俳句を作るのはしばらくよすことにした。もともとわたしは小説が書きたかった。俳句はそのための筋トレのようなつもりで始めたのだけれど、そんな甘いジャンルではなかった。そのことは気が向いたら書くかもしれないけれど、書かないかもしれない。作者の権限は何を書くかでもあるが何を書かないかでもある。それにしても作者という言葉は嫌いだ。もっとマシな言葉はないものか。

ムジールの人生は波乱万丈型とは言いづらく、かなりアカデミックな経歴に彩られたものだった。エルンスト・マッハ(速度単位のマッハは彼の名前から来ている)についての論文で博士号を取り、学者になるか作家になるか悩んだ挙げ句作家になったという、かなり「頭のいい」作家だ。小説のほとんどが独自の思想に基づいたコンセプチュアルなもので、はっきり言って万人受けするタイプの作家ではない。小谷野敦はムジールの岩波文庫の『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』をアマゾンで酷評している。
岩波の『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』は古井由吉が訳したものだ。古井由吉は専業作家になる以前はムジール研究者でもあった。古井由吉のルーツに触れたいという方はぜひ一読してもらいたい。あの晦渋な文体やときに退屈とさえ言える散文性はまちがいなくムジール譲りのものだ。
ムジール以上に散文的な作家をわたしはしらない。散文的という言葉はときによってはつまらなさをあらわす言葉でもあるが、そういう意味でなく、散文でしか書けないことを書いているという意味でムジールは散文的なのだ。前述した独自の思想が小説というジャンルにとって異物であるがゆえ妙な存在感を放つムジールだが、思想について触れたいという方は古井由吉の書いた『ロベルト・ムージル』を一読することをおすすめする。あまりに文体が込み入っていて、根本の思想自体があまり見えてこない、というのがムジールなのだが、古井由吉の『ロベルト・ムージル』を読めばかなり見通しはよくなるはずだから。
ただ晦渋というだけではムジールの文体の味を損ねてしまうだろうから、少し長めの引用をしようと思う。

「ほんとうにいっしょに来てくださらないの、あなた」
「それが行けないのだよ。わかっているだろう。いいかげんに仕事にきりをつけてしまうようにしなくてはならないのだ」
「でも、リリーが喜ぶわ……」
「そう、そのとおりだ。だが出かけるわけには行かないのだ」
「あたし、あなたをおいて旅に出るなんてとても気がすすまない……」
紅茶をつぎながら妻はそう言った。そして部屋の隅で明るい花模様の安楽椅子にもたれて煙草をふかしている夫の方を眺めやった。夕暮れだった。窓には濃い緑色の目隠しが表の通りを見おろしていた。同じ色をしたよその家々の目隠しと長い一列をなして、それらとすこしも区別のつかぬ顔つきで。暗く静かにおりた二つの瞼のように部屋の輝きを隠し、その部屋の内では、ちょうど紅茶がくすんだ銀色のポットからカップに落ち、静かなさざめきをたててのぼり、やがてひとすじに静止して見えた、麦藁色の軽いトパーズでできた透明なよじれた柱のように……。いくらかくぼんだポットの表面には緑色と灰色の影、それに青色と黄色の影がうつり、そこに流れ集まり淀んだかのように動かなかった。だが妻の腕はポットからすっと伸び、そして夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、硬いぎこちない角度をなした。
たしかに、それは誰の目にも見えるひとつの角度だった。しかしそれとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じとれるのはこの二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかいのようにあいだに緊張して、ふたりをそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。(以下略)『愛の完成』古井由吉訳より
ムジールの文章はこのように、すべての描写がくだくだしいほど長い。代表作である『特性のない男』では冒頭部3ページずっと天気の話をしている。引用でも紅茶を注ぐだけでおそろしく文量を割いている。動作の一つ一つにスローモーションがかかったようで、耐え難い人には耐え難いほど「とろい」文章だろう。だがこの粘っこさがムジールの味なのだ。
また、引用後半のように「視線」と呼ぶべきところを「角度」と呼び、そこから離れないといった、言葉への執着もムージル独特のものだ。しかもそこに「角度がきわめて硬い」などの通常では主述関係におちいらない言葉が当然のように結びつく、妙な共感覚性がある。ほんとうに一種の共感覚の持ち主だったのかもしれない。

いいかげんに話を『ぼくの遺稿集』に移そう。
『ぼくの遺稿集』はムジールの代表作である『特性のない男』の発表前に、出版された作品で、超大作である『特性のない男』を書くためにまとめられた小品集だ。ムジールにとっては大作に打ち込む前のいわゆるジャンプ台のような意味合いがあったらしい。
それにしても気味の悪いタイトルだと思う。「まえがき」でムージルはこう書いている。
この書の題名が「ぼくの遺稿集」である理由について。
文学者の遺産が後世へのすぐれた贈物を意味する場合もないではないが、しかし通常は遺稿には、会社の倒産による在庫品の見切り売りとか、廉価販売と何処か似たところがあるものだ。それにも拘わらず作家の遺稿に人気が集まるのは、読書界が作家に対して寛大で、これが本当の最後ですと作家が持ち出す要求を大目に見るからだろう。だが、それはどうでもよい、それにまた、遺稿が重要であるのはいかなる場合か、それが遺稿であるというだけで値うちがあるのはどんな場合かといった問題もどうでもよい、とにかくぼくは、手遅れにならない先に自分の遺稿の出版を喰いとめることに決心した。で、そのためのもっとも有効な措置は、自分の手で遺稿を生きているうちに世に出すことだ、むろんこのことが万人にとって明らかであるかどうかは別問題だが。

ここでムジールは「遺稿」という言葉の意味を大幅にズラしている。「生前の遺稿」という言葉がもう矛盾をはらんでいる。ムジールの読みづらさはこうした意味のずらし方のうまさにあるのかもしれない。文章を道に例えることが許されるならば、ムジールの文章は曲がりくねり、躓くような石だらけだ。こういった言語操作はまとまった文脈を持てる、散文的な文章でしかできない。そういう意味でムジールはきわめて散文的な作家なのだ。
『ぼくの遺稿集』は「スケッチ」と題された散文と「そっけない考察」と題されたエッセイ「話にならない話」と題された掌編小説の三部で構成されている。
わたしがときおり読み返すのは「スケッチ」の部分で、これは本当に、散文のスケッチとでもいうしかない文章なのだ。ハエ取り紙につかまったハエを書いただけで終わってみたり、釣り餌のミミズを書いて終わってみたり、純粋に風景を書いただけのようなものばかりで、前述した思想性はかけらも感じられない。むしろ思想が入ってくることを拒むような作品ばかりだ。「書くこと」は文字通り書くことでもあるが「書かないこと」を選ぶこともまた「書くこと」のうちに含まれる。
ムジールのスケッチはその「書かないこと」ばかりを選んで書いたもののように思える。生活の底を脈々と流れる、記憶にならない過去をムジールは「スケッチ」のうちで持ち前の正確性をもってとらえた。トラウマとは本来、過去・現在・未来のどれにも位置づけることのできない記憶のことを指す。文学は良性のトラウマであるべきだ。ムジールの「スケッチ」はそういう意味でわたしにとってのトラウマのような作品群だ。


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