過去ぶつ
三歳の頃、父母と妹と祖母と曽祖母で越後湯沢へ行ったのがビデオに残っていた。ビデオを見たのは6歳のころで、わたしはそれまで祖母や曽祖母と旅行に行ったことなどないと思っていた。人伝に幼い頃の自分の話を聞き、そういうこともあったのだなと思うのと、ビデオに残っている記録を介して過去を突きつけられるのは、まるで質の異なる体験だ。語るということと、見るということとはわたしたちが思うよりずっと隔たっている。しかし、来年三十路のわたしですら自分の過去を映像で見ることができる時代に生まれていると思うと、すごく妙な気分だ。そんな技術はずっと未来に属しているもののように思えるから。
三十歳というのはわたしにとって特別な年齢だ。母親がわたしを生んだのが三十の頃というのもあるし、ほとんどなにもしないまま三十歳になってしまうという後悔がないまぜになっているから。これを書いているいま、二千二十年の三月二九日めがけて、時間は突き進んでいるのだが、すぐにでもその日が来てほしいと思う気持ちと一生来ないでほしいという気持ちが同居しているのは、歯医者に行く前のあの優柔不断な気持ちのようだ。
こうしてわたしが三歳の頃のビデオを見ている六歳の頃のわたしを思い出している二十九歳のわたしのことを、何歳の頃の記憶として位置付ければいいのかわからない。ただ退院前の眠れぬ夜の暇つぶしとして、いまこれを書いている。おそらくこれは書かなくてもいいことだろうと思いつつこれを書き足し、時折時計を見ると、時間が経つのが恐ろしく不規則でのろくさく感じる。
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