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私はなぜ「花束みたいな恋をした」にハマれなかったのか

映画は面白いと思う。

しかし、最近では少なくなった、年に何回かある、「この映画、間違いない」という感想でタイムラインが盛り上がっている作品にしては、自分はそこに溢れている絶賛のつぶやきほど、熱を持つことができなかった。

なんでこんなことに。

なんかこれでは流行りものに対してすかした態度をとっちゃう、斜に構えた人みたいだなと思った。そんな人間にはなりたくなかったのに。私も同じように盛り上がりたかったのに。なんか最近の映像作品のカルチャーの流れをちゃんと追えてない人みたいじゃないか。やっぱり凝っていると評判のパンフレットを買って、ユリイカの坂元裕二特集を読んでからもう一回見に行くべきなのか。そもそも坂元裕二のドラマも数える程度しか見てないのがよくないのか・・・。

もう一度言いたいのは、面白いのは面白いと思った。

序盤の固有名詞の連発や、実際に出演している、登場人物に神と称される人のネタなど楽しく見れた。悪く言えばサブカルクソ野郎的な二人のやりとりも微笑ましい。

途中からのすれ違いも、二人のカルチャーへの関わり方への対比で表現されるのも上手だし(忙しくて時間の余裕のない人間が、趣味に時間を費やせなくなる過程はきつい・・・パズドラの使い方は後世に語り継がれるのでは)、クライマックスのファミレスのシーンでの光景は、なかなか見れない優れた映画の景色を見れたと思う。

という、いい映画を見れた、というのは事実。ただそれ以上の、「うおおおお、この映画めっちゃ好きなんですけどおおお」という領域にいたらなかったというのも正直な感想。

具体的には、作品のリアリティラインに疑問を持ってしまったのだ。

特にそれは最初のカフェでのシーンに象徴されている。イヤホンに関する、いかにもうるさ型が言いそうな内容を二人が別の席で語っているのは面白いのだが(それもちゃんと丁寧にのちに彼らがどうやってその情報を得たのかも描いていてそれも微笑ましい)、問題はそのあと。なぜわざわざそれを本人たちに言いにいこうと思ったのか。もちろんそこでお互いを認識するのをやりたかったからなんだろうけども、そういう、やりたいことに伴う不自然さがいきなりファーストシーンででてきたのが大きかったかもしれない。

最後のファミレスのシーンも、すごく感動的なシーンだと思うのだけど、内心「・・・いやそんな泣く?」と思ってしまった。号泣やん。あんな鼻水出て。わりと印象が重なる、ラ・ラ・ランドのラストのさっぱりさを思い出したりもしたので。さらにラスト近くのお互いが見えていない状態での手をふるとこや、結婚式場で二人がそれぞれ友人に決意を語る内容が同じで重なる、というのも、やりたいことや画が優先されすぎて不自然さがノイズになっているのでは、と思ってしまった。

一番の気になるところは、前半の固有名詞の連発で楽しかったのが、だんだん飽きてきた映画後半にでてきた、オダギリジョー。あなた「南瓜とマヨネーズ」で同じ役やってませんでしたか。なんか最近、物語中盤にでてきて主人公に影響を与える系の、ちょっと余裕のある大人の役で、クレジットが三番手か四番手くらいになりそうな役やるの多くないですか。さらにそのオダギリジョーがやってる会社のいかにも曖昧なイメージ像もあって、物語の中盤に主人公二人を不仲にさせるためだけにでてきた、物語の中の便利な装置として見えてしまった。そういうのが気になると今度は、映画の半券までシンクロするかね、とかヒロインの両親の広告代理店ジョークやセカオワ、ワンオクいじりもなんだか鼻についてくる。

でもこの映画は面白いと思う。めちゃくちゃ評価されると思うし、そのことに関しては何も思わない。

ただ私も、熱くなりたかった。この映画の登場人物のように作品についてよかったところを語りたかったのだ!

・・・と思ってたけど、よく考えたらこの映画の主人公たちが作品の内容についてがっつり語ってるシーンってあったっけ。

もしかしたらそのことも主人公たちのキャラクター描写になってるのかもしれないと思った。

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