千夏の絵の中で 第三話 尾行

【第三話】

放課後の美術室。太郎は千夏を探して、ここに足を運んでいた。しかし、千夏の姿はどこにもない。

「あ、太郎くん。千夏先輩に用事? 今日は休みだよ」

声をかけてきたのは、太郎と同じクラスの渡邊麻衣だった。内気そうな雰囲気の1年生女子生徒だ。

「え、そうなの? 麻衣さんも美術部だったんだ?」

太郎はちょっと驚いた表情で、麻衣に尋ねる。

「うん、そう。私影薄いから、太郎くんは気づいてなかったんだね」

麻衣は控えめな口調で答える。

「あ、そうか。ごめん、知らなかった。えーっと、千夏先輩はもう帰ったのかな?」

「えーと、そうだね...多分、今日は用事があって休みなんだと思う」

麻衣の言葉に、太郎は少し困ったように頷いた。千夏の不在に、何か引っかかるものがあるようだった。

「そっか...、麻衣さんも美術部頑張ってるんだね」

「う、うん。でも、千夏先輩みたいな上手な人とは比べものにならないけどね」

麻衣は恐縮した様子で、千夏の絵の腕前を認めた。太郎はそんな麻衣の様子に、少し気遣うように笑いかける。

「そっか。それじゃあ、また今度ね」

「う、うん。じゃあ、気をつけてね」

太郎が美術室を出て行くと、麻衣は独りで細かく震える手をじっと見つめていた。

太郎は放課後の部活を終え、何となく本屋に立ち寄った。特に目的があるわけではない。ただ、新刊の漫画が並んでいないか、あるいは参考書の棚をひと通り眺めるのが、彼の小さな楽しみだった。

店の外を見渡すと、見覚えのある千夏の姿が目に入った。彼女は大学生くらいの男性と並んで歩いており、二人の間には親しげな空気が流れている。

「あれは、千夏さんだよなぁ。…隣は彼氏かなぁ」

太郎は気づけば、本屋から出て二人の後を追い始めていた。探偵のように、彼らの距離を保ちながら、二人の間に流れる空気を感じ取ろうとする。この行動に、彼は自らを戒めるように思う。

しかし、その思いはすぐに、悪戯をしている子供のような冒険心に変わる。不思議な高揚感が、太郎の胸を満たしていくのだった。

二人は駅前の広場で立ち止まり、何かを話し合っている。太郎は遠くから、その様子を窺った。やがて二人は会話を終え、別々の方向へと歩き始める。千夏は駅の中へと消えていった。男性は来た道を戻ってきた。太郎はその男性とすれ違い、間近で男の顔を見る。大学生くらいに見えた。

その夜、太郎は自室で数学の宿題に取り組んでいた。しかし、集中力が途切れがちで、頭に浮かんでくるのは、今日の出来事ばかりだった。

あの時、自分の目で見たものは確かだ。従妹の千夏が見知らぬ男性と、親密に会話をしている姿が焼きついている。

千夏はいつも落ち着いており、その大人びた振る舞いは同年代の少年たちとは一線を画している。太郎はふと思う。千夏にとって年上の男性が彼氏であることは、全く不思議ではない。彼女の成熟した性格からすれば、宮田や自分のような年下の男子が恋愛対象になることはないだろう。

そうであれば、宮田の思いは叶わないということになる。太郎は、宮田の望みを砕いてしまうようで、複雑な気持ちになる。

「宮田も、千夏さんのこと本当に好きみたいだったけど...」

宮田の告白を思い出し、太郎は頭を抱えた。自分がこの問題の仲介者のような立場になっているのが、心苦しい。

このままでは宿題に手がつかない。太郎は深呼吸をして、机の上に広げた数学の教科書とノートに目を向けた。彼はペンを握りしめ、問題に集中しようと決意する。

「もう、めんどくさいことは考えるのやめよう。今は宿題だけに集中しよう。」

太郎は数学の問題に目を通し始め、徐々に計算に没頭していった。数字と式の世界に入り込むことで、少しずつ他のことを忘れていく。宿題に集中することで、少なくとも今夜は、千夏や宮田のことから解放されるのだった。

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