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寒山拾得

日付をタイプして、八月なのだと気づいた。下降にはいる。

古い友人から久しぶりに長い長いメールが届いた。彼は近年の安っぽいLGBTQプラスだかマイナスだか×だか÷だかとは無縁に、真摯に彼の人生を豊かに生きてきた方だ。

メールの中に寒山拾得への言及がありました。

いがらっしは、鴎外の寒山拾得がどうしても理解できなくて、でもどうしても理解したくて、10年に一度ぐらいの頻度でこの作品に戻っては、やっぱりわからないなあ、と読み続けてきました。

今回のメール、寒山拾得に言及のあったコンテキストによって、「!」と思いました。
昨日一昨日の舞踏ワークショップでの経験もこの「!」に貢献しているように感じます。(ワークショップについては、昨日のアカウントに書きました。)

寒山拾得をパラパラめくる。
うん。とりあえず、(また違う読み方をする日が訪れるかもしれないけれど)今の私にとっての理解ができたと思う。

こんなに力強いエールがあるでしょうか。

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ゆで玉子作っている最中に、殻にできた小さなヒビから白身の一部が飛び出して、玉子本体に接したま球状に固まることがある。
ひとは誰でも、そんな白い球状のものを持っているのだけど、なぜかそれは玉子本体の内部にあるように感じて、玉子本体を大切に、殻を壊してしまうことがないように注意深く日々を送る。
いがらっしが、運よくだか悪くだか、いや、そんな価値判断すら感じないで、気づいてしまっていたのは、その白い球状のものの所在は殻の内側ではないということなのかもしれない。

その白い球状のものはじつは思うよりずっと大きくて、いわゆる本体であったはずの玉子の殻とその中身は相対的におそろしく小さい。

もっと見方を変えると、白い球体のものは、玉子の例でみれば白い球体に見えるのだが、内と外という形に抽象化してしまえば、外側全体と考えることもできる。(解剖学の二重バッグ理論を参考にして下さい。トーマス・マイヤース『アナトミートレイン』p.40以降が参考になります。)つまり、玉子本体を取り囲んでいる空間すべてと。すると、玉子の「本体」は、小さなひび割れを通して内袋のようにできた「個」に過ぎなくなる。内と外が反転する感じが伝わるでしょうか。

ダンスは、この小さなヒビ割れとして機能できることがある。
ダンスでなくても、すべての行動や経験はそのように機能できることがある。

私たちは外側になったり内側の「個」になったりを、行ったり来たりしながら生きている。

しかし、内側の「個」を過大評価しすぎて、内側でないと社会とつながることができない・評価が得られないと信じる以外に選択肢がない。

玉子をとりまくすべての空間になっている状態が寒山拾得なのではないでしょうか。

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