解放

 この前ふと、中学生の時に出された課題である意見文のことを思い出した。必ず自分の経験談を入れるという条件はあるものの、自由にテーマを決めて良いというものであった。そして私が書いた意見文のタイトルは、「自分を殺すこと」であった。

 詳しい内容までは覚えていないが、確かその当時習っていた習字教室で、先生に「クセが出ないよう自分を殺しなさい」と言われたことを元に、他人に合わせるためには時には自分を抑える必要がある、それこそ「自分を殺す」必要があるということを主張した文であったはずである。

 我ながら、この意見文を書くこと自体だいぶクセがあるし、当時から尖っていたなと思う。それと同時に、自己否定が強かったり自分が認められなかったりするこの考え方も、どうやら中学生、いやそのずっと前から染み付いてしまっていたものなのだとも感じた。

 自分を抑えなければならないと思うということは、今の現状に満足していないということである。さらには、今悩んでいるのは全て自分のせいだとも思ってしまい、結果、自分はこうしなければいけない、ああしなければいけないと勝手に思考の檻に閉じ込めてしまっていた。

 いつの間にか檻からはみ出してしまっていた時もあった。でも、自分はそれを頑なに許さず、檻の鍵をより増やし、なぜはみ出してしまったのか自己反省を延々と檻の中で繰り返してしまっていた。時折それで病んでしまっていたし、今でもその癖は完全に抜けていないとも感じる。

 でも先ほどの意見文のことを思い出した時、ふと思ったのだ。なぜ「自分を殺す」必要があるのかと。

 よくよく考えれば、別にその必要はないのだ。いやまあ、空気を読むとか必要最低限のことは必要かもしれないが。でも、自分を抑えつけたところで悩みの根本的な解決にはならないし、むしろ悩みを増やしているだけだということにやっと最近気づけた。

 そして、その悩みというのも大半は、自分がこうありたい、ああなりたいという理想像が高いことからきていることにも気づいた。理想像が高いが故に、自分はこうでなければならないと勝手に束縛し、常に「○○しなきゃ」と焦燥感に駆られ、ずっと何か活動してきたのだと思う。

 だからまずは、「○○しなきゃ」と思わないことにした。「○○しなきゃ」ではなく「○○しよう」と思えることだけを今はすることを心がけている。周りがやってるからといって同じことしなくていいし、逆に周りと無理して違うこともしなくていい。このことを心がけるだけで、無数にあった檻の鍵も、少しずつ解けてきている気がする。

 かつて将来の夢を書く機会があった時、私は「鳥になって空を自由に飛びたい」と書いた。ある意味もうすぐその夢が叶いそうである。今日はここまで。

 

 

 

 

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