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『夜と霧』を読んで vol.234
夜と霧、一度は聞いたことはある名著ではないでしょうか?
私もタイトルは聞いたことはありましたが、内容は全くもって知りませんでした。
何か有名な小説か何かだと思っていたのです。
しかし、実際にはドイツ強制収容所での悲惨な過去を、自身も収監された心理学者のヴィクトール.E.フランクルが、あくまでも一心理学者としての目線で描いたものである。
当然、哲学的な内容も含まれるのですが、それ以上にこの過酷な体験の中で、そこまで深く考えに及び、思い返すことができることに正直驚きを隠せなかったです。
知ろうとするから知れる時代背景
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この本が記しているのは実際に起きた出来事です。
時代はアドルフヒトラーが統治していた当時のドイツ、ナチスドイツでの出来事です。
アドルフヒトラーといえば、独裁政治でお馴染みのあの人です。
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そんなヒトラー率いるナチスドイツによる、ホロコーストというおもにユダヤ人を対象とした大量虐殺(強制労働)がこの収容所での話になります。
ユダヤ人の話をするとキリスト教の歴史まで紐解かないといけませんので、ここでは割愛します。
ユダヤ人とは、約2,000年前に国が滅ぼされ、ヨーロッパ全土に散らばって暮らし始めましたユダヤ教(キリスト教はユダヤ教から生まれる)を信仰する人々のことを言います。
国は滅びましたが、キリスト教が広く浸透するヨーロッパ社会でユダヤ教の人たちも溶け込み暮らしていました。
しかし、そんなユダヤ教徒に対して徐々に差別的な文化が広がっていくのです。
キリスト教は救い主イエス様の言葉を信じ信仰する宗教、規律や律法といったものを重視し、イエスを十字架の刑にしたユダヤ人は、キリスト教徒からすれば、目の敵だったのです。
そこに目をつけたのがヒトラーです。
国の財政的危機をユダヤ人を敵にすることで、人数減らし&国家の意思統一といったものに利用したのです。
最終的には、ドイツは敗戦し東から攻めてきたソ連軍に解放されることとなります。
と、ここまでが私がこの本を読んだ後で、学んだことですが意外にも自分の知識が浅はかで恥ずかしくなりました。
しかし、それもこれもこの本を読まなければ知り得なかったであろう世界の常識です。
知ろうとするからこそ、学べる、そして今の自分にとってこれこそが必要必然な学びだったのでしょう。
哲学的思想と生死感
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さて、本書では何度かフランクルによって生死感と、絶望の境地に達したからこそ感じる感情(いやこの本では思想や客観的思考といった方が適切なのかもしれない)に触れることができます。
が、しかし、理解し難いものがほとんどです。
理解しようと思えばできるのかもしれませんが、理解できるというのが失礼に値するのではないかと思うくらいの壮絶な回想が描かれています。
最初は極めて正常な思考だったのですが、それが目の前にする到底あり得ない生死感に触れることで、徐々に徐々に崩壊していくのです。
その証拠に本書では、筆者が自分の回想を記しているのに、まるで自分のことでないような、自分と自分を操作している何かの2人に分かれているような記載が随所にあるのです。
読んでいけばわかりますが、早い段階で人格が乖離してしまっているのです。
もっというと乖離させなければ生きていけないからなのでしょう。
自分を自分という入れ物から取り出し空っぽの無感動にすることこそが、自分を守る最大の鎧になるそうです。
究極のセルフハンディキャップとも言えるかもしれません。
そんな生半可なものではありませんが。
私の数年前の人間関係を思い出しました。
周囲に認められたいがためにがむしゃらにやって、挙句の果てに勝手に周囲に怒り散らし非難していたころ。
それぐらいならばと、完全に周りとの関係をシャットアウトしていました。
その感覚に近いのかもしれません。
外的な強さに勝る内なる強さ
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これだけ過酷な環境の中フランクルはなぜ生き残れたのでしょうか?
彼は、本の中においてもよほど体の頑丈であっても、内なる強さがなければ衰弱してしまう人もいるといったことを書いています。
確かにこれだけの毎日生きることさえも辛い生活を送っている中では、どんなに体が丈夫であろうとも、精神的に崩壊ししまうことは有に考えられます。
つまり、ある絶望的状況においても真にその人の強さになるのは、体の健康さや頑丈さではなく、その絶望的状況において自分の感情や思考をどのようにコントロールできるのかの内因的強度によるのです。
現に、著者フランクルも離れ離れになってしまった妻のことを思い、生き延びます。
これは現代社会においても同じようなことが言えるのではないでしょうか。
どんなに体が丈夫でも、ショックなことに対面した時に痛むのは心です。
逆に心が正常で、元気であれば体の健康も伴います。
全てがそうとは限りませんが、病は気からとも言います。
辛い耐え難いことが起きている時に、本当に大事にしなければいけないのは体と同じくらいに心のほうなのではないでしょうか?
過去にも未来にも生きず、今を生きる
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非常な事実は続きます、最後までです。
最終的にドイツは敗戦し、ソ連軍によって解放されます。
当然、全員が歓喜の中に包まれるかと思いきや、フランクルの見た光景は全くそれとは異なるものだったそうです。
ただただ、呆然と立ち尽くした後にひたすら食す囚人たち。
無感情という最強の鎧すら脱ぎ出すことができずに、ただただ己の欲求を満たすことでしか満たせない、そんな人間になってしまうのです。
それでも、徐々に徐々に元の生活を取り戻そうと人に戻っていきますが、待っている世界は残酷そのものです。
強制収容所にいた時に回想していた未来など一つもあることがなく、戻れたとしても自分の存在を必要としない人々。
残るのは、自分の居場所もなく、存在意義もわからず、ただただ辛いことを忘れないと生きていけないほどに辛い毎日を過ごしたという事実だけ。
これこそが、最大の苦しさなのです。
それこそ、著者のフランクルはそこを客観的に感じられていましたが、そんな彼も、妻を思い毎日を生きていた時すでに妻は死んでいたのです。
この絶望をどう生きるのか。
ここで本書は終了します。
絶望的な日々に投げ出された時、本当に私たちは生きてりゃ御の字と笑顔でいられるのでしょうか。
過去をふり返らず、未来に不安にならず今を生き抜くことができるのでしょうか。
そんな時に自分自身の支えになってくれる志や目的はあるのでしょうか。
深く考えさせられる大変心揺さぶられる名著でした。
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