どの場所もすべてが誰かにとってのふるさとだ
自転車に乗ることを、そろそろ趣味に追加した方がいいと思う。正確に言うと、自転車に乗りながら大声でYUIの歌をうたって車道を疾走することが、もはや趣味だ。
以前は毎日乗っていた自転車に今日は久しぶりに乗って、片道にして20分ほど走った。心の中の「未処理」の箱に長いこと残されていたさまざまなもの、きっと考えてもじっと見つめても箱から巣立つことはないさまざまなものが、走りながら巣立ってゆく。身ひとつで風を切って、大声で歌い、ペダルをこぎつづけることが、どうしてこんなにも晴れやかな爽やかさを残してくれるのだろう。
去年の夏は、大学から家に帰るまでの道(ルートその2)をまだ覚えきれていなくて、たまにその道を帰ると最後の曲がり角を間違えて行きすぎることがよくあった。
大通りの道。東京は本当に、どの景色も同じだな、と思っていた。夜のビル通りはとくに。
今は「どこにでもある街」から「親しみのある街」になっている。地元から来てくれた母や父と歩いた歩道、友達と行ったお店、お腹いっぱいになりなさいと野菜や果物をくれる定食屋さん、好きな本が揃っている書店、開拓をしようと思って曲がったら行き止まりになっていた(それを何度もやってしまった)路地、閉店してしまった喫茶店があった場所…。ちいさな思い出が、たくさん詰まっている。
どの場所も、すべて、すべての場所は、誰かにとってのふるさとだ。
そう思うから、土地の非難を口にするのは、すごく無神経なことだと思う。
ふるさとというのは、大切な庭だ。
その人にとってのすべてのふるさとを知っていたり、よほど気心が知れている仲でないと、他人の前で土地をわるく言うことはできない。
今の棲処は下町の町並みが気に入って決めた場所だけれど、それでも東京に越して来たばかりの頃は、一本二本と外に走る大通りのことをそれほど好きになれるとは思わなかった。半年経った去年の今頃でもそうだった。
今でもやっぱりビルが建ち並ぶ東京の道は苦手だけれど、あのルート2の大通りは私にとってすこし優しい。うーん、けっこう、たくさんの優しさが詰まっている。
越して来たときは「ここだって誰かにとっての大切で愛おしいふるさとなんだから」って言い聞かせていた。けれど、きっと私にとってのふるさとに、もうなっている。
時間を見つけては自転車に乗って、これからもルート2を走る。引っ越す日がいつか来るまで、もっとその時間が長いほど、優しいふるさとになっていく。
そんな場所が増えることは、幸せでくすぐったくて、懐かしく切ない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?