ふしぎ

「どうして国は国民のためになることをしないんだろう。逆のこともたくさんするんだろう」と、ふしぎに思いませんか?

私はふしぎを感じました。そこで立てた、知るべき問いの中に「国は国民のために在るのか?」があります。この「前提が異なる可能性」は、否定したいと感じるほどの一番の脅威であり、最重要なことなのに、問いを立てることもなく、なんとなく「私の生きている国は国民のための平和な共同体だ」「だから、国の意思決定も運用も、その意義にかなって為されているはずだ」と信じていることに、その自分に、衝撃が走りました。
うっすら認知している国内外の歴史を考えただけでも反例はいくらでも浮かぶのに、「戦後の平和な日本」の像を、憲法の授業や、僅かばかりの情報で、作り、信じ、我がものにしている自分の危うさが、衝撃でした。あっちゃ〜!やっちまってたわ〜><!という気持ちです。

「国は何のために生まれたのか。意義に変化はないのか。意義を果たすための方法を決定し、運用する者たちは、意義に共感しているのか。決定者はどんな構成なのか。どんな経緯で着任したのか」「国とは何か。何をもって国と呼ぶのか。なぜ、いつから、国という単位を名乗り続けているのか」「これらは、人類史を見た時に、どうか。日本史を見た時に、どうか」「現代世界にとって、どうか。現代日本においては」

これらの1つの問いのみならず、別観点からたくさん問いを立て、知れば問いが増え、知った気にならないことへ一番に注意をはらって、高校から10年くらいで、やっと、「事実と考えてよさそうなこと」と「確からしい仮説」が増えてきました。今の情報社会なら、もう少し、早かったのかもしれません。でも、一次情報と経験を集めるには、やはり、それなりの時間がかかったのかな、とも思います。

※私は〜〜論者ではありません、〜〜論を指してはいません。

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