花びらの海 僕たちの祈り

ほんとうにだいじなことは、おおっぴらに言ったりしない。
だいじなことには、ふたつの種類がある。
ひとつは、ずうっと思っている、だいじなこと。
もうひとつは、ぽつりぽつりと泡沫のようにわきあがり、しずかに記憶の海にとけていく、だいじなこと。
かくしているわけではないけれど、やたらと打ち明けたりもしない、私を貫く普遍の哲学や、移ろう生を彩るささやかな感動が、道行く日日に咲き乱れている。
その花びらを共有できる人がいてくれることは、かけがえがない。

ほんとうにだいじなことは、わきおこる花びらだ。桜の花びらのような、薄いうすい花びら。白に近い、薄桃色の花びら。そっと包んでおかないと、とんでいってしまう。おおきな音やチカチカした光のもとでは、朽ちて破れてしまう。

私を貫く普遍の哲学。普遍なる想い。ずうっと思っていることは、いつも私の内側にあって、ときおり、胸の中からふぅっと吹きわたる。花吹雪のように、風に乗って。私の中を駆け巡ったり、外へとびだして吹きわたったり。ずっと抱いているそれはもう私のからだの一部だから、代謝をするようになっているみたい。
一方で、ぽつりぽつり泡沫のようにあらわれる花びらは、日常のそこここに、ふわ、と突然うかびあがる。目をはなしたら消えてしまういち枚の花びらは、世界と私との間のあいまいな空間に、ふわりとあらわれる。そういう感動や言語は、その刹那の時々に書き留めておかないと、後になって明らかにされることはない。気まぐれな記憶の海が情景の残像を浮かびあがらせることはあっても、多くの花びらは、はらはらと海底にしずみ、とけていったことさえ分からないうちに、海の底の森林の養分になる。そうしてできた土が私の芯の土地になる。または、底につく前、海をたゆたううちに、波の中へととけていく。この水が私といういのちの、輪郭の液界になる。
生まれてはとけていく花びらが折り重なってできた豊かな土や水が、私のいのちを肥やす。

ときおり口にすることがある。ふつう誰にもあかされることはない花びらのことを。しずかに折り重なって、吸収されていくはずのもののことを。
それは、日常を共にしてくれる人へ、ひそかに語られる。ときに、暴露される。
私の海にゆくはずだった花びらが、あなたのもとへも吹いてゆくのだ。
そういった外界からやって来た花びらは、すべて海へ着地するわけではない。さらりととんでいって消えてしまうことのほうが多い。
だから、よそ者の花が海をたゆたうとき、うまがあうとか、気があうと感じ、穏やかな親交となるのだろう。そういう親交を重ねていると、液界が親和していき、いのちが馴染んでゆく。水が呼応をはじめれば、呼吸が奏であうようになる。やがて、互いに海底の森林を肥やし合い、芯部の土壌でつながった人と人は、かけがえのないつながりを持つ。

亡き人も、人の中で生きている。
たとえ意識の中で覚えていなくても、私の海があなたを憶えている。
あなたの言葉をわすれた。あなたの綴り字の形をわすれた。あなたの手の感触をわすれた。あなたの匂いをわすれた。あなたの声をわすれた。もう、あなたの笑う顔の残光しか覚えていない。
けれど私は憶えている。あなたから渡ってきた花びらのすべてを。ひとつひとつをはっきりなぞれないくらいに、私の一部となり馴染んでいる。
あなたはいつも私の中にいるし、私そのものにもなっている。だから、さみしくないよ。

でも、さみしいよ。生きている私は、あたらしい明日を迎えるから、あたらしいあなたの花びらを望める明日がほしいよ。
私の中で息づいているあなたの呼吸のしらべをいつでも聴くことができるけれど、今生きているあなたの呼吸と息を合わせたいよ。
生きている私には、今日を生きるための養分が必要だから、私の海も森林もあなたの花びらをほしがってしまうよ。
誰にもあかされることのない私の花びらも、あなたの海へと行きたがっているよ。
記憶のあなたとだけ、私の中で生きているあなたとだけ、来る日を生きてゆくのは、暖かくてさみしいよ。

今、生きているあなたへ。
ありがとう。みずみずしい今日を迎えてくれて。あたらしい明日を迎えてくれて。
もし、あなたがいなくなってしまっても、私は孤独にはならない。もう私の中にあなたがいるから。けれど、私はひとりぼっちになってしまうよ。

別れを知らない頃、あなたがしんでしまうのがこわかった。あなたが消えて失くなってしまうと思ったから。でも、今ここにいる温かいあなたが、ぎゅっと抱きしめてくれているあなたが、失くなってしまうなんて、おかしいと思った。そんなおかしいことが起こって私だけが取り残されるのは、世界が滅んでしまうよりこわいと思った。

私がしんでしまうのもこわかった。私が考えていること、血の通った肌、毎日梳かしている髪、ここにある感覚が、失くなってしまうってどういうことだろう。花びらたちは消えてしまうの。消えるってどういうことだろう。そんなおかしなことが起こるのは、あなたがいなくなる次にこわかった。

今は、こわくない。
私がしんでも、私は世界に、あなたに、とけて馴染んでいくと知ったから。
あなたがしんでしまっても、あなたは失くなってしまわないとわかったから。
けれど、こわくないけど、さみしいよ。あたらしいあなたがいない明日を迎えるのは。
どうか、いなくならないで。
いつの日かついえると分かっている祈りを、私は決して絶やさない。

私が私の輪郭を、すこしでもみずみずしく保っていられるように。私の水や森林の海を、私の輪郭の中で肥やしていけるように。
私はよく食べて、呼吸し、からだを動かして、眠る。よく思考し、感じ、ひらいている。

かけがえのないあなたにも、よく循環して、代謝して、みなぎって生きていてほしい。
すこしでもながく、活き活きと生きていてほしいから。しあわせだと言って生きていてほしいから。

これは祈りだ。
暮らす日のそこここに「愛している」が宿っているように、道行く日日に花びらが吹いているように、呼吸の潮(うしお)が、所作のひとつが、私の祈りだ。

みなが祈りをもって生きている。意識してする祈りよりも、無意識のうちに身につけ纏っている祈りのほうが多い。異なる祈りと、共通の祈りをもって、はなさず抱きしめている。

この祈り。幾億の祈りのうち、多くの人が共通に持ち、ときに意識し、口にし、願い、涙し、微笑んできた祈りを、ふたつの単語、ななつの文字で、ひとつの言葉にした。

その祈りの言葉のことを、祈りを物質にしたもののことを、いつかあなたに話したい。


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