女性性とルッキズム 私と貌

「女を武器にも弱みにもせず生きていく」
と、中学1年、セーラー服を着た時に言ってから、女性性にふれる話題をなるべく避けて通ってきた。

ルッキズムにも、中指を立てて生きてきた。
すきなものを纏うこと、心地よい私でいること、私が私にとって魅力的であることには関心があるけれど、ルッキズムには何も共感できない。

しかし、今の仕事をするようになって、
女性であること・女性として取り扱われることに向き合わざるを得なくなり、また、外から見た姿形に対しても考えさせられることが多くなった。

カワイイとかイケメンとかじゃなくって、

私が私にとって魅力的であるために
自分を表現するために
伝えたいことを伝えられる瞳であるために
安らぎと信頼を与えられる背筋であるために

外側の貌に時間やお金や心をかけることも
ほどほどにはありなのかもしれない
という気持ちが芽生えてきた。
まだ分からないけれど。

それはルッキズムとは全く別の位置にあって
時間やお金が無尽蔵にあるのならば
自分に取り入れたいなと以前からも思っていた。

でも、自分が心地よいと思える
最小限にしようと心がけてきた。
選ばなければならないのなら
手に取りたいものが他にうんとたくさんある。
その順序はきっと変わらない。
だから変わらないかもしれない。

けれど、それらを選んで丁寧に手に取り生きている人の考えや感情や生き方を、一度しっかり見つめて知ってみたいという気持ちが、はじめて芽生えている。

それで私が変わらなくても、それならそれでいい。

そして、すごく気乗りしないんだけれど、女性性についても向き合わなきゃなと、思っている。ハァ

私は月坂架絃だ。
生理的な機能の性差はある。
けれども、私の存在に、私が私である意味に、女性という符号をつけるのは、恋人だけでいいと思っている。
身勝手かもしれないけれど、ずっと。

なぜ身勝手かもしれないかって、
「評価は結局は他者が決めるもの」という側面があるからだ。

私のことを決めるのは、私しかいない。
一方で、あなたが私をどう考えるかは、あなたの自由なのだ。

「女を武器にも弱みにもせず生きていく」と言った12歳の瞬間から、何度も思い知らされてきた。
結局、外から向けられる私の評価を、私が決めることはできない。どんなに言い張ったって、人間という以上に女性という意味をもって私を知覚する人に、それを止めてもらうことはできない。性以外の符号も、すべて。


- 女性性
- 姿形を追求して生きること、外側に心を遣うこと、外側を手入れすること

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ぜんぜんライトでいいし、直接的でなくていいです。

映画 Legally Blonde のエル・ウッズとか大好き。

(こう思うようになったのは、
出会った人、出会った言葉のお蔭です。
ありがとう。)

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