伝える難しさ

文章を書く時、想いが強いほど、内から外に向けたベクトルになりがちで、その大きさが強いほど、外の人は倦厭する。文章に限らず、あらゆる表現方法に言えることだろう。
これが OK!となるのが藝術である。なぜなら藝術は「すべての人からある一定枠内での理解を得る」ことを目指していないものが多いからだ。前提がちがう。

この前提を目指すものである限り、外から内に向けたベクトルを意識して、なるべく装飾を削ぎ落としてなるべくeasyな表現手法で伝えられたらよいなと思う。

しかし、これはすごく難しくて、私は大の苦手だ。
色々な枝葉を削ぎ落とした主張では、その過程で、様々なものがこぼれ落ちてしまう。従って、自分の想いから離れてしまったりするし、意図せぬ受け取られかたをすることが往々にしてあるから、難しい。
届けたいことが単純化した論理や短なフレーズなのか、はた織り機のように機能すべく様々な文脈や感慨や装飾を織り込んだひとつの織り布なのか、という違いはあるだろう。

しかしだ。本を出版している2人の先輩に言われたことがある。

「読まれる文章」は「読んだ人を分かった気にさせる文章」だ。その文章の質が良いか悪いかは別にして。
日本人の0.1%にめっちゃ届く文章ではあって、共感を得られた人にはめちゃめちゃ刺さるけど、他の人にとっては消化不良なのでもったいない。少なくともまず俺みたいなやつを除いて、同年代の人が手に取る文章ではない。

さらに、

ごめん、天才すぎて咀嚼に時間がかかりそうだ(俺の理解力が低い)いとちゃん天才すぎて1週間くらいなんども読み返さないと理解できない
いとちゃんの言いたいこと高度すぎて頭悪いから3回くらい読まないとわかんない。読み返してわかったけど理解しきれてるか不安

と言われる始末…おわかりですね…天才ではない…下手っていうことなんだよ……読んでくれて有難う(大泣)
普段、自分と似た言語や思考体系を使っている人は一発で分かってくれる。一方で、逆のものを使っている人には「内容」ではなく「印象」を強く与えるのにとどまってしまうよう。。たぶん何かを表現する多くの人が当たる壁なのだと思う。それを「いいんだ!」って振り切るか、調律をするか、難しいよね。

きわめつけに、複数人に

いとちゃんと会話しているとまるで村上春樹と話をしているみたいだ

と言われたことがある(恐縮すぎる)
じつは村上春樹さんの作品を拝読したことはないのだが、彼は装飾豊かな文体で有名である。その装飾ゆえに「わからない」という意見も耳にする。私にこの言葉をかけた人々の口調は非難するものではなかったけれど、結構重く受け止めている。村上さんとは違って、たいして豊かでもない装飾をしててまっているのだろう。

話すのが上手になりたいし、書くのも上手になりたいなあ。使い分けができるようになりたい。

そして、読みたい本、勉強したいことたくさんあって、ほんとうに時間ってないね。


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