I Can Appreciate Myself More

わたしのどうしようもないとこぜんぶ分かって仲良くしてくれてる友だち本当生きててくれてありがとう。あなたたちと父母の存在がわたしのお守りだよ。

じぶんのだめなところばかりが過剰に目について、他者の好意に対して感謝以上の申し訳なさを感じて生きてきた、ずっとそうだったけれど。わたしが気にしてることを認識すらしてなかったり、笑い飛ばしてくれる人がいるっていう事実に「向き合って気づく」ことができて。「あの人は優しいから許して仲良くしてくれてるんだ」っていう思考から抜け出せたよ。なんて晴れやかな脱出だろう。

じぶんでは気に留めていない私の美点を敬愛してくれている事実にも「目を向けて受け入れる」ことができるようになった、すこしずつ。
そう思ってくれていること、伝えてもらって、知ってはいても、じぶんに何か美点があることを受け入れることができなかった。だからこそ、素敵だねって言ってもらうたび、後ろめたいような気持ちでいた。そんなに良いモノじゃないよ、それよりもだめなところがいっぱいあるんだ、って。いつからだろう、きっと少女になりたての頃から、ずっとそうだった。
じぶんで自分を褒めてあげることができないから、他者から褒めてもらえることはとても貴重で嬉しいのに、なんだか「過大評価されてしまっている」=「優しい人をだましているような後ろめたさ」があった。褒めてもらうたびに、いつも。うれしさと一緒に申し訳なさが蓄積されていく感覚。それがふつうだった。

そんなわたしが「そのままで生きていていいんだよ」って、じぶんに言ってあげられる日が、たまにやって来るようになった。たまあにだけど。ゼロだったから。そのことが、すごくしあわせで、うれしいなあって。泣いちゃう。

他者には言ってあげられるのに。他者にはいつも、向けている気持ちなのに。じぶんにはどうしてもできなかった。そのことがかなしかった。すこし解放された今、くるしかったんだとも気づいた。
美点も未熟なところも、まるごと認識して、受け入れて、その上で美しいところを見つめて好きになること。それが「愛すること」だって、小学校の日記に書いてある。じぶん以外のすべての人には、幼い頃からずっとそう接してきたのに。どうしてじぶんにだけ、反対のことをしてしまうんだろう。

メールの返信が遅いとか、遅刻しちゃったりとか、忘れものしちゃったりとか「あたりまえ」「きほん」って言われていることが、私にはいちばん難しい。東大に入るより、50m走で一等を取るより、100kmをつづけて泳ぐより、綺麗な水彩画を描くより、富士山を登るより、ずっとずっと難しい。あまりに難しくてできない。
憧れの人はと訊かれたら特定の個人はいないけれど、そういう「あたりまえのことが当たり前にできる人」にずっと憧れている。
他者のことは、たいてい何でも気に留めないし許すことができるのに、じぶんのことは許せなくて、ちょっとしたこともすべて後ろめたいって思っていた。
「返信また遅れちゃってごめんね」が貯まって、仲良くなるほど、後ろめたさが大きくなっていっていた。「ごめんねの貯金」はどんどん貯まり、すぐに「土下座モード」になっていく。土下座したい人だらけだった(今もまだそのきらいが抜けていない)そして、褒めてもらうたびに「塩をかけられたナメクジ」になる。
わたしみたいな友だちのこと、じぶんは何とも思わないのにね。ぜんぜんロジカルじゃなくて笑っちゃうよね。

愛されて育ってきた。友だちにも恵まれてきたのに。じぶんがかけた呪いって、つよい。

今でもすぐにじぶんを責めてしまう。たくさん責めているけれど、「そのことを気にも留めない人もいるんだ」「それでも心から好いてくれる人がいるんだ」という事実は「私のもの」になった。
ロジックさえも、頭で理解するだけではだめなんだって、こういうことだよね。腹で理解しないと、じぶんのものにはならないの。人間らしい。つまり、ロジカルでロマンチックだと思わない?

2021年に起こった宝物。非線形な、うれしい成長。

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