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美術館に行って、展示より鑑賞者が気になるという憂鬱

憂鬱な体験

東京都現代美術館の『オラファー・エリアソン ときに川は橋となる』(2020/6/9-9/27)に行った。コロナ禍の平日だったが、昼過ぎの美術館にはにわかに人気が満ち、特に目玉のエリアソン展には各作品に10人以上が集まっていた。
私は現代美術を中心に展示を見に行くのが好きであり、かつ大学の講義でしばしばオラファー・エリアソン氏の作品が言及されていたため、実物を見られるのを楽しみにしていた。

内容は詳しく述べないけれど、エリアソン展の作品は、光や水や鏡、そして影を利用したものが中心で、ときに鑑賞者を巻き込みながら展開される。歩くと様々な色の自分の影が映し出されるなどの驚きもあり、仕組み・からくりはどうなっているんだろう?ということが一瞬ではわからない。それを考えるのは楽しいし、解説を読んでじっとその場にとどまってみると、日常とは離れた感覚が味わえそうだ。

そう思ったのだけれど、私は特に20代くらいの若い女性たち(自分もだが…)の特徴的な鑑賞態度が気になって仕方がなくなってしまった。女性たちは大体2人組で来ていて、不思議な作品に「すごいね!」と言い、シャッター音を鳴らし、ポーズを変えながら会場の光によって生まれる自分たちの影の写真を撮っていた。小部屋の中のシャワーに虹が映る《ビューティー》は、女性や家族連れが各々が交代でシャワーの向こう側に立って「順番で写真を撮るスポット」となっていたため、近くに行って見るのをやめた。次の作品、次の作品、また次の作品で内容よりも鑑賞者の態度の方が気になってしまい、展示を周るのが憂鬱になった。

以上のことがあって、私がここでするのは展覧会の内容の話ではない。私が憂鬱になったあるタイプの鑑賞者についての感情をもとに雑文を書く。当タイプの鑑賞者のことを便宜上「女性たち」と書くが、全女性をターゲットにしているわけではなく、また女性に限定したい訳でもないので留意していただきたい。

自分が当然としていた鑑賞態度

自分は美術館に行ったとき、主に以下のことを気にして鑑賞している。

・なぜこの作品を作ったのか?

・何を伝えたいのか?

・どのようなメディウムや技術で作品を作っているのか?

私はこのような見方を小学校や中学校の美術の授業や、美術の教科書や、人生経験を通して学んだ。(自分で作品を作るようになってからは、どのように作ったのかも気にするようになった。)芸術作品を介してたとえ亡くなった作家であっても思いや技術を通わせることができる、それが芸術作品の力だと思っている。私は作家の経歴などの知識を入れることは相変わらず怠っているけれど、芸術作品の見方は人それぞれでいいと思うし、まったく違ったところで生まれた作家と「出会う」のは嬉しいことだ。

件の女性たちに戻る。SNSにアップするために写真を撮っている人たちは、自分が気にしているような鑑賞態度など気にしていない。ただ視覚的に綺麗なものに反応し、カメラを向けること。SNSにアップすること。それはただ作品を消費して、自らをコーディネートすること以外に何の意味があるのだろうか。作家が意思を持って作り上げた作品は、SNSの自分のページの一つの「ファッション」となり、美術館で展示を見た体験は、いつかは消えるSNSのページの電子化情報に変換されるが、それで良いのだろうか。エリアソン氏が地球環境を主題にしていることをパンフレットの解説から少しでも汲めば、視覚的な美しさを追求して作品を作っているのではないと感じるはずだ。

女性たちの写真を撮る行為は『チームラボ』のプロジェクションマッピング作品に対する行為と似ている。暗い部屋にイメージが映し出され、鑑賞者の動きに反応して動くこともある。あれは「綺麗でしょう」「こう楽しんでください」ということが決められていて、鑑賞者はその通りに動けばいい。「なぜこの作品を作ったのか?」などと気にしなくていい。(その点で私はプロジェクションマッピングやイルミネーションの作品が少し苦手だ。)でも、芸術作品は違う。圧倒的な個人の意思によって作られ、他者の理解は二の次だ。難解な作品もある。だからこそ、自分で解釈しなければならない。

《おそれてる?》は、鮮やかな丸い形の影がゆらめく空間だ。決まった色の光を透過する円形のガラスが吊られていて、ガラスの影はガラスの枚数の倍になる。一対の影は補色の関係になっていて、影が重なり合うと、また違う色の影ができる。ここで見るべきは「光」、ガラスの「影」、時間が過ぎると生まれる「色」であるが、女性たちは自分の影を撮っていた。そこは最早吊られたガラスや色彩理論など不要な私的空間であり、女性たちにとっては、白い壁と自分の影を映してくれる光源があれば良かった。

そこには「見知らぬ他者」がないのだ。女性たちは「自分」「友達」「自分のSNSを見ている他者」を意識しているだけで、作品を作った作家やその意図は気にしていない。極端に言えば、作者はただの知らない人であって、そのときさえ自分のSNSを潤わしてくれればいい。これは書きすぎかもしれないけど。しかし、私が最も大事にしたいのは「見知らぬ他者」である作家なのである。見知らぬ作家とここで出会えたこと、それによって自分の日常、凝り固まった視点を変える契機がないか。自分では思いもしなかった他者の考えに出会うことが、他者のいる社会に生きることだ。

別の角度からの意見

一緒に展示を見に行った男性に、(展示中不機嫌な私の)憂鬱な気持ちを吐露したら、いくつか意見をくれた。

私)女性たちが、作者が望んでいない鑑賞方法をしているのが気になってしまう。

男)体験型の展示もあったし、作者は作品を見て皆が驚くのをある程度期待している。

私)自分はそう思わない…。

男)美術にさほど興味がない人も含めて、ある程度入場者を入れないと美術館も大変なのでは?

私)美術館もコロナで入館者が減っただろうから、それも分かる。女性たちを気にしなければいいのだろうけど、私は他人の行動が気になってしまう性質だし、今回は目につくほど多く、展示より気になってしまうほど影響されてしまった。

悲観的な予測

この文章を通して、私の鑑賞態度が正当だとか、全員が私のような鑑賞態度であるべきだとか、そういう意見を主張したいわけではない。常に「自分は自分の考えを正しいと思い込んでいないか」と意識しながら生きていたい。ただ、写真を撮ることに夢中になっている人たちを見て、展示に集中できない事態になり、また悲観的な未来の人間像を想像してしまった。

今後、SNSは全世代にどんどん普及していくだろう。SNSにアップするための写真を撮るのは、SNSがあるからだ。私はInstragramをやっていないし、Twitterでも知り合いと繋がっていない。自分の気持ちなど知られたくないし、他人の日常に振り回されたくない。けれど現代社会にはSNSの網の目がしっかりと絡みついていて、友人たちは息をするようにストーリーをアップし、自己表現合戦(私の偏見)をしている。その雰囲気に飲み込まれた女性たちが美術館に流れ込むと、今回のようになる。

そして、社会がますますブラックボックス化していくことも、「作者の意図なんか気にしない」態度に拍車をかけていくだろう。今、PCのキーボードを叩くと、なぜこの文書が画面に表示されるのか私は知らない。さっき食べているクッキーが誰がどこでどのように生産した材料を使って誰がどこでどのように作って誰が運んで誰が売ったのか私は知らない。私たちはそれをいちいち知らなくていいし、気にしなくていい。分業化が進み、技術が高度化するにつれて、未来の人間は直接の影響を及ぼさないことは気にしなくなっていくのかもしれない。作家の意図。美しいパフェの作り手の経歴。地震があっても倒れない日本の建物の構造。因果を知らずに生きていけることは、「私は」たまに息苦しい。

まあ、もちろん世の中のすべてを知ることは不可能だし、しなくていい。高校生の秋、家までの道を歩きながら、「私は、今顔をなでていった爽やかな風がなぜ吹いているかも知らない」と少し悲しい気分になったことをよく思い出す。現代には、複雑化した事実や知識は無限にある。何を知って、何を知らずにいるかが生き方だ。その中でも、せめて美術館には、作者に思いを馳せる空気が満ちてほしい。

自分はどうするか

最後に「自分はどうこの現実に向き合うか」という個人的な意見表明を書いておく。

1.会わない。なるべく気にしない。

長期休業期間と被らない平日や、休日でも午前中であれば、ちゃんと美術を見に来た人がほとんどなので気持ちよく鑑賞できる。あと、今回のような女性たちがいたとしてもなるべく気にしないようにする。課題の分離の訓練。

2.SNSに画像を使用しない

SNSのアイコンなどに作品の画像を使わない。SNSにアップもしない。視覚的に美しい作品もあるけれど、「ここに行きましたよ」という権威付けのように記号化されることを作者は考えていないし、望んでもいないと思う。(自分が作った作品でそれをやられたら嫌だ。)美術館側で「シェアしてください」(展覧会を盛り上げたい、来場者数を増やしたい)ということを言っているときがあるけれど、さっき言ったような記号化を免れる方法が全く分からないのでやらない。そもそも今のところSNSで誰とも繋がっていないのでやる意味がない。

3.作品を忘れない

展覧会は、見に行って終わりにしたくない。作品は普通に過ごしていては得られない感覚や、自分の創作意欲をもたらしてくれる。買ったポストカードをすぐ見られるように机の上のファイルにファイリングしたり、作者の意図についてどう思ったかを記録したりする。



現代美術館はとても楽しく、レストランの料理(サムネ画像)も美味しかったのでまた行こうと思う。

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