二宮翁夜話 第五章

第五章 吉凶禍福善悪の巻

二十七 善悪の標準を説く

 翁曰く、儒に至善に止まるとあり。
佛に衆善奉行と云えり。
然れども其の善と云う物、如何なる物ぞと云う事、慥ならぬ故に、人々善を為す積もりにて、其の為す處、皆、違えり。
夫れ元と善悪は一圓なり。
盗人仲間にては、能く盗むを善とし、人を害しても盗みさえすれば、善とするなるべし。
然るに世法は、盗みを大悪とす。
其の懸隔、此の如し。
而して天に善悪あらず。
善悪は人道にて立ちたる物なり。
譬えば、草木の如き、何ぞ善悪あらんや。
此の人體よりして、米を善とし、莠を悪とす。
食物になると、ならざるとを以てなり。
天地何ぞ此の別ちあらん。
夫れ莠艸は、生るも早く茂るも早し。
天地生々の道に隨う事、迷いなれば是れを善艸と云うも不可なるべし。
米麦の如き、人力を借りて生ずる物は、天地生々の道に隨う事、甚だ迂闊なれば、悪艸と云うも不可なかるべし。
然るに只だ食うべきと、食うべかざるとを以て、善悪を分かつは、人體より出たる僻道にあらずして何ぞ。此の理、知らずばあるべからず。
夫れ上下貴賤は勿論、貸す者と借りる者と、売る人と買う人と、又、人を遣う者、人に遣われる者に引き当て、能々思考すべし。
世の中萬般の事、皆、同じ。
彼に善なれば是れに悪しく、是れに悪しきは彼によし。
生を殺して喰う者はよかるべけれど、喰われる物には甚だ悪し。
然りといえ共、既に人體あり。
生物を喰わざれば、生を遂げる事、能わざるを如何せん。
米麦蔬菜といえ共、皆、生物にあらずや。
予、此の理を盡し「見渡せば遠き近きは無りけり、己々が住處にぞある」と詠めるなり。
され共、是れは其の理を云えるのみ。
夫れ人は米を食い虫なり。
此の米食虫の仲間にて立てたる道は、衣食住になるべき物を、増殖するを善とし、此の三つの物を、損害するを悪と定める。
人道にて云う處の善悪は、是れを定規とするなり。
此に基きて、諸般人の為に便利なるを善とし、不便なるを悪と立てし物なれば、天道とは格別なる事論を持たず。
然りといえども、天道に違うにはあらず。
天道に順いつつ違う處ある道理を知らしむるのみ。

【本義】

【註解】

二十八 善悪元來一つなり

 翁曰く、善悪の論甚だむずかし。
本来を論ずれば、善も無し悪も無し。
善と云いて分かつ故に、悪と云う物出来るなり。
元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり。
故に人なければ善悪なし。
人ありて後に善悪はある也。
故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。
世法盗みを悪とすれども、盗み仲間にては、盗みを善とし、是れを制する者を悪とするならん。
然れば、如何なる物、是れ善ぞ、如何なる物、是れを、悪ぞ、此の理、明弁し難し。
此の理の尤も見安きは、遠近なり。
遠近と云うも善悪と云うも理は同じ。
譬えば、杭二本を作り一本には遠と記し一本には近と記し、此の二本を渡して此の杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二カ所に立つべしと云い付ける時は、速に分ける也。
予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけり己れ己れが住処にぞある」と此の歌善きも悪しきもなかりけりという時は、人身に切なる故に分らず。
遠近は、人身に切ならざるが故によく分る也。
工事に曲直を望むも、餘り目に近過ぎる時は、見えぬ物也。
さりとて遠過ぎても又、眼力及ばぬ物なり。
古語に遠山木なし、遠海波なし、といえるが如し。
故に我が身に疎き遠近に移して論す也。
夫れ遠近は己が居處先づ定まりて後に遠近ある也。
居處定まらざれば遠近必ずなし。
大坂遠しといはば、関東の人なるべし。
関東遠しといわば、上方の人なるべし。
禍福吉凶是れ、得失皆、是れに同じ。
禍福も一つなり。
善悪も一つなり。
得失も一つ也。
元一つなる物の半ばを善とすれば、其の半ばは必ず悪なり。
然るに其の半ばに悪なからむ事を願う。
是れ成難き事を願うなり。
夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随って離れず。
咲たる花の必ず散るに同じ。生じたる草の必ず枯れるに同じ、涅槃教に此の譬えあり。
或る人の家に容貌美麗端正なる婦人入り来る。
主人如何なる御人そと問う。
婦人答えて曰く、我は功徳天なり、我が至る所、吉祥福德無量なり。
主人悦んで請じ入る。
婦人曰く、我れに随従の婦一人あり。
必ず後より来る是れをも請ずべしと。
主人諾す。
時に一女来る。
容貌醜陋にして至って見悪し。
如何なる人ぞと問う。
此の女答えて曰く、我は黑闇天なり、我れ至る處、不祥災害ある無限なりと。
主人是れを聞き大に怒り、速やかに帰り去れと言えば此の女曰く、前に来たれる功徳天は我が姉なり。
暫くも離れる事あたわず。
姉を止めば我をも止めよ、我を出ださば、姉をも出せと云う。
主人暫く考えて、二人とも出しやりければ、二人連れ立ち出で行きけりと云う事ありと聞けり。
是れ生者必滅會者定離の譬えなり。
死生は勿論禍福吉凶、損益得失皆同じ。
元と禍と福と同體にして一圓なり。
吉と凶と兄弟にして一圓也。
百事皆同じ。
只今も、其の通り、通勤する時は、近くて良いと云い、火事だと云うと遠くてよかりしと云う也。
是れを以て知るべし。

【本義】

【註解】

二十九 善は實地實行にあり

 翁曰く、朝夕に善を思うといえども、善事を為さざれば、善人と云うべからざるは、昼夜に悪を思うといえども、悪を為さざれば、悪人と云うべからざるが如し。
故に人は悟道治心の修行などに暇を費やさんよりは、小善事なりとも、身に行うを尊しとす。
善心發らば速に是れを事業に表すべし。
親ある者は親を敬養すべし。
子弟なる者は子弟を教育すべし。
飢え人を見て哀れと思わば、速に食を與うべし。
悪しき事仕たり、われ過てりと心付くとも、改めざれば詮なし。
飢人を見て哀れと思うとも、食を與えざれば功なし。
故に我が道は實地實行を尊ぶ。
夫れ世の中の事は實行にあらざれば、事はならざる物なればなり。
譬えば菜蟲の小なる、是れを求めるに得べからず。
然れども菜を作れば求めずして自ら生ず。
孑孑の小なる、是れを求めるに得べからず。
桶に水を溜めおけば自ら生ず。
今此の席に蝿を集めんとするも、決して集まらず。
捕まえ来たりて放つとも、皆飛び去る。
然るに飯粒を置く時は集めずして集まるなり。
能々此の道理を辨へて、實地實行を励むべし。

【本義】

【註解】

三十  禍福は相對なり

 翁曰く、吉凶禍福苦楽憂歓等は、相対する物なり。
如何とすれば、猫の鼠を得る時は楽の極なり。
其の得られたる鼠は、苦の極なり。
蛇の喜び極まる時は蛙の苦しみ極まる。
鷹の悦び極まる時は雀の苦しみ極まる。
猟師の楽は、鳥獣の苦なり。
漁師の楽は魚の苦なり。
世界の事、皆、斯の如し。
是れは勝ちて喜べば、彼は負けて憂う。
是れは田地を買いて喜べば、彼は田地を売りて憂う。
是れは利を得て悦べば、彼は利を失って憂う。
人間世界、皆、然り。
たまたま悟門に入る者あれば是れを厭いて山林に隠れ、世を遁れ世を捨てる。
是れ又、世上の用をなさず。
其の志、其の行い、尊きが如くなれど、世の為にならざれば賞するに足らず。
予が戯歌に、「ちうちうとなげき苦しむこえきけば、鼠の地獄猫の極楽」一笑すべし。
爰に彼悦んで是れも悦ぶの道なかるべからずと考えるに、天地の道、親子の道、夫婦の道と、又、農業の道との四つあり。
是れ法則とすべき道なり。
能く考えるべし。

【本義】

【註解】

三十一 方位・日柄に禍福なし

 翁曰く、方位を以て禍福を論じ、月日を以て吉凶を説く事、古よりあり。
世人之れを信ずれどもこの道理あるべからず。
禍福吉凶は方位月日などの関する所にあらず。
之れを信ずるは迷いなり。
悟道家は本来無東西とさえ云うなり。
夫れ禍福吉凶は己々が、心と行いとの招く所に来るあり。
又、過去の因縁に依りて来るものあり。
或る智識の強盗に遭いたる時の歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、何れ報いは有りとこそしれ」と詠める通りなるべし。
必ず迷う事勿れ。
夫れ盗賊は鬼門より入り来らず、悪日にのみ来らず。
締まりを忘れれば、賊は入り来ると思え。
日の用心を怠れば火災起こるべし。
試みに戸を開けて置いて見るべし。
犬迎え入りて食物を求めるなり。
是れ眼前なり。
古語に曰く、「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家に餘殃あり」と。
是れ萬古を貫きて動かざる眞理なり。
決して疑うべからず。
之れを疑うを迷いと云う。
夫れ、米を蒔きて米實法り、麦を蒔きて麦實法るは眼前にて、年々歳々違わず。
天理なるが故なり。
世に不成日と云えるあり。
されど此の日になす事随分成就す。
吉日なりとて為せし事必ずしも成就するにあらず。
吉日を選んで為せい婚姻も、離縁になる事あり。
日を選ばずして結婚したるに偕老するもあるなり。
かかる事は決して信ずべからず。
信ずべきは、積善の家余慶ありの金言なり。
されど余慶も余殃も速かに回り来るものにあらず。
百日にして實法る蕎麦あり。
秋蒔きて来夏に實のる麦あり。
諺に桃栗三年柿八年と云うが如し。
因果にも応報にも、遅速ある事を忘れる勿れ。

【本義】

【註解】

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