二宮翁夜話 第十二章
第十二章 実業の巻
七十三 農は國の大本なり
翁曰く、凡そ物、根元たる者は、必ず卑しき物なり。
卑しとて、根元を軽視するは過ちなり。
夫れ家屋の如き、土台ありて後に、床も書院もあるが如し。
土台は家の元なり。
是れ民は國の元なる証なり。
扨て諸職業中、又、農を以て元とす。
如何となれば、自ら作って食い、自ら織って着るの道を勤めればなり。
此の道は一國悉く、是れをなして、差閊えなきの事業なればなり。
然る大本の業の賎しきは、根元たるが故なり。
凡そ物を置くに、最初に置きし物、必ず下になり、後に置きたる物、必ず上になる道理にして、是ら則ち農民は國の大本たるが故に賤しきなり。
凡そ事天下一同に之れを為して、閊えなき業こそ大本なれ。
夫れ官員の顯貴なるも、全國皆官員とならば如何。
必ず立つ可らず。
兵士も貴重なるも、國民悉く兵士とならば同じく立つ可らず。
工は缺く可らざるの職業なりといえども、全國皆工ならば、必ず立つ可らず。
商となるも又同じ。
然るに農は大本なるを以て、全國の人民皆農となるも、閊えなく立ち行く可し。
然れば農は萬業の大本たる事、是れに於いて明了なり。
此の理を究めば、千古の惑い破れ、大本定まりて、末業自ら知るべきなり。
故に天下一般是れをなして、閊えなきを本業とす。
公明の論ならずや。
然れば農は本なり、厚くせずば有る可らず。
養わずば有る可らず。
其の元を厚くし、其の本を養えば、其の末は自ら繁栄せん事疑いなし。
扨て枝葉とて猥に折る可らずと雖も、其の本根衰える時は、枝葉を伐り捨て根を肥すぞ、培養の法なる。
【本義】
【註解】
七十四 農は不浄を清浄にする妙術なり
翁曰く、汝等勉強せよ。
今日永代橋の橋上より詠めれば、肥取船に川水を汲み入れて、肥しを殖やし居るなり。
人々の尤も嫌う處の肥しを取るのみならず、かかる汚物すら殖やせば利益ある世の中なり。
豈妙ならずや。
凡そ萬物不浄に極まれば、必ず清浄に帰り、清浄極まれば不浄に帰る。
寒暑昼夜の旋転して止まざるに同じ。
則ち天理なり。
物皆然り。
されば世の中に無用の物と云うはあらざるなり。
夫れ農業は不浄を以て、清浄に替える妙術なり。
人馴れてて何とも思わざるのみ。
能く考えば眞に妙術と云うべし。
尊ぶべし。
我が方法又然り。
荒地を熟田に帰し、借財を無借になし、貧を富になし、苦を樂になすの法なればなり。
【本義】
【註解】
七十五 多辯を戒め商法の極意を論す
浦賀の人、飯高六藏、多弁の癖あり。
暇を乞うて國に帰らんとす。
翁諭して云く、汝國に帰らば決して人に説く事を止めよ。
人に説く事を止めて、おのれが心にて、己が心に異見せよ。
己が心にて己が心に異見する心は、柯を取って、柯を伐るよりも近し。
元と己が心なればなり。
夫れ異見する心は、汝が道心なり。
異見せられる心は、汝が人心なり。
寝ても覚めても坐しても歩行いても、離れる事なき故、行住坐臥油断なく異見すべし。
若し己れ酒を好まば、多く飲む事を止めよと異見すべし。
速に止めばよし、止めざる時は幾度も異見せよ。
其の外驕奢の念起こる時も、安逸の欲起こる時も皆同じ。
百事此の如く自ら戒めは、是れ無上の工夫なり。
此の工夫を積んで、己が身修まり家齊ひなば、是れ己が心、己が心の意見を聞きしなり。
此の時に至らば
人汝が説を聞く者有るべし。
己れ修って人に及ぶが故なり。
己が心にて己が心を戒め、己聞かずば必ず人に説く事なかれ。
且つ汝家に帰らば、商法に従事するならん。
土地柄といい、累代の家業といい至当なり。
去りながら、汝売り買いをなすとも、必ず金を儲けんなどと思うべからず。
只だ商道の本意を勤めよ。
商人たる者、商道の本意を忘れる時は、眼前は利を得るともつまり滅亡を招くべし。
能く商道の本意を守りて勉強せば、財は求めずして集まり、富栄繁昌量るべからず。
必ず忘れる事なかれ。
【本義】
【註解】
七十六 商業の繁昌する道は安く売るにあり
翁曰く、商業の繁栄し、大家となるは高利を貧らず、安価に売るを以てなり。
其の高利を貧らざるが為めに、國中の買人集り来るは当然の事なれど、売る物も又之れに集まる妙と云うべし。
買うと売るとの間に立ちて、、高く買いて安く売るは、行わるべからず。
然らば安く売るは買い方も安かるべし。
安く買う所に売る者の集まるは實に妙なり。
是れ皆双方に高利を貧らざるの致す所なり。
高利を貧らざるのみにて、買う者も売る者も共に集まりて、次第に富を致す。
是れ又妙なり。
商家にして高利を貧らざるすら此くの如し。
然るを況んや我が方法は、無利足なり、尊ばざるべけんや。
【本義】
【註解】
七十七 農工商の大道を勤むべし
翁曰く、財宝を産出して、利を得るは農工なり。
財宝を運転して、利を得るは商人なり。
財宝を産出し、運転する農工商の大道を勤めずして、而して富有を願うは、譬えば水門を閉じて、分水を爭うが如し。
智者のする處にあらざるなり。
然るに世間智者と呼ばれる者のする處を見るに、農工商を勤めずして、只だ小智猾才を振ふて財宝を得んと欲する者多し。
誤れりと云うべし。
迷えりと云うべし。
【本義】
【註解】