五常訓 巻之五 智


 智は、增韻に心有る所知る也といえり。
知は心の明なり。
和訓には、さとると読む。
是非を照らす心の光なり。
心明らかにして、人倫事物の道理に通じ、是非善悪をわきまえ知りて、迷わざる徳なり。
仁義禮も、智によりて、其の理明らかにして行わる。
智なければ、道理くらくして、善心あれども、行うすべを知らず。
あやまりて、ひが事のみ多し。
周子は、通ずるを知と云うといえり。
萬理に通ずるなり。
朱子は、智は分別是非の理と云えり。
分別とは、わかちわかつなり。
心中に善悪をわかち辨えるを云う。
是非とは、事にのぞみては、是を是とし、非を非とするを云う。
智は性なれば、あながちに外に向かいて説くべからずといえども、用につきて説かざれば、智の體も明らかならず。
孟子は、智之寶はこの二つの者を知ってすてざるなり、と説き給う。
智の眞切なる所は、孝弟の道を知って、捨てずして固く守るを云う。
道理を知りて、又
よく其の道理を守りて失わざるなり。
知りても守らざれば、眞に知れるにあらず。
智は五行においては、水に属す。
水は清く明らかにして、かがみとすべし。
智の明らかなるに似たり。
又萬物は、皆水の潤い通して生ずる如く、萬事智にあらざれば、道理通ぜずして行われず。
朱子四書の註の中、仁義禮には、明解あり。
智の字に註なし。
故に朱子の後、智の字を説く者多しといえども、其の説分明ならず。
大学或問に曰く、知るは則ち心の神明、衆理に妙にして、萬物而宰者也。
心の神明とは、人の心虛靈にしてくらからざるを云う。
衆理に妙なりとは、もろもろの理を発明して知るを云う。
萬物宰たりとは、萬物をつかさどりて、善悪を裁判するを云う。
是れ致知の知を説きて、四徳の智を説き給えるには、あらずといえども、知の體用をよく説けること分明なり。
、此の外に、智の註を求むべからず。
愚ひそかに、朱子の両説に本づきて、知を説きて曰く、智者心之明、事之別也。
心の明とは、くらからざるを云う。
燈火明かにして、物を照らすが如し。
是れ、智の體なり。
事の別とは、事にのぞみて、是非をわかつを云う。
是れ智の用なり。
其の事にのぞみて、是非をわかつは何ぞや。
内の明あるを以てなり。
此の説、いまだ当否を知らず。
しばらくここに記して、識者の是非をまつのみ。


 智なければ、心に善あれども、行うべき道を知らずして、みだりに行へば、あやまりて僻事のみ多し。
父母に能く事へんと思えど、孝の道を知らざれば、不孝に帰す。
君に仕えるに、心に忠あれども、智なければ、忠を行うすべを知らで、不忠にいたる。
萬の事、皆しかり。
全て智なくしては、道を行うことあたわず。
人の悪をなすは、皆不知より出づ。
智あれば、善の好むべく、悪の嫌うべき事をよく知りて、道自ずから行わる。
故に学をするには、智を求めるを、第一のつとめとすべし。


 論語に、智者は惑わす、仁者は憂へず、勇者は懼れず。
又、知及び、仁守るといえり。
中庸には、知仁勇を三徳とす。
皆知を先として説き給う。
大学には、格物致知を先として、萬の道理を極め知りて、わが智を開く事をつとめしむ。
君子の学、つとめ行うを貴ぶといえど、先づ知らざれば、行う事あたわず。
如何となれば、智なくして心くらく、善悪是非をわきまえざれば、道を行うべきすべを知らず。
例えば、盲の杖をうしないて、一人道を行くが如し。
足健なれど、道を見ざれば、迷いて行きがたし。
智なければ、才力あれども、毎事道理を知らず、あやまり多くして、道行われず。
仁義禮も、智にあらざれば、道理明ならずして、行ないがたし。
人を愛するは、仁なれども、理くらければ、姑息するを仁とし、科あるを許すの類、是れ智なければ、仁行われず。
宜しくするは、義なり。
智なければ、其の宜しき程を知らず。
敬うは、體なり。
智なければ、其のよき程を知らで、敬い過し、或いは敬い足らざるは、非禮なり。
かようの類、皆是れ智なければ、仁義禮共に行われざれるなり。


 智の字、又、知の字となして通用す。
故に四書には、多くは知の字を用う。
唯四徳五常には、智の字を用ゆべし。


 人の身に、一つの大寶あり。
これを名づけて智と云う。
心の光明なるは、萬の善悪是非邪正をわきまえ知るのぎみなり。
若し人の身に智なければ、天地に日月なく、人に耳目なく、暗夜に燈なきが如く、又、家に主なく、軍に大将なきが如し。
いかに生れつきたる力量あり、忠信あれども、心くらく智なければ、行うべき道を知らずして、みだりに行へば、道道にかなわず、僻事多し。
萬につきて、善き悪しきをわきまえば我が身ひとつをだに修むる事あたわず。
況や民をなつけ、土地を治めん事は、いと難き事なるべし。
故に人身の大寶は知なり。
其の大寶をもとむるの道あり。
よき師友を求めて、其の教えをうけて、よきすぢの学問し、書を読み、ひろく見、多く聞き、よく思慮して、我が心に道理を求め、是れを以て、心をひらき、智を明らかにすべし。
師友に求むるの道は、我が身をへりくだりて、自ら是とせず。
好んで人に問いて、ひろく聞くべし。
我が智に自満して、ほこる事なかれ。
我にほこれば、必ず我が智を失う。
凡そ聞見をひろくすると、我が心に思案すると、是れ、智をもとむるの道なり。


 中庸の、博く学び、審らかに問い、慎んで思い、明らかに辨えるは、皆、是れ、知をもとむる道なり。
かくの如く、知を明らかにして後、篤く行う。
古人も、此の学もし眞に知れば、行う事も其の中にありといえり。
よく此の道を知れば、必ずよく行う。
行わざるは、知らざる故なり。
附子、砒霜には毒ありと知りては、食わず。
水火をば、人を害する事をよく知れる故に、おそれて、水におぼれ、火にやけず。
病を治する事を知れば、良薬の苦きをも服し、熱をこらえて、もぐさにて身を焼く。
是れよく知れる故なり。
又、博学多識なれど、道理を窮るり学問をせぜれば、道を知らざる人、古来多し。
経書の文句を説きわけたるまでにて、聖賢の教えの道理を知らざるをば、訓詁の学と名づく。
又、故事出處を覚え、ひろく古今の事に通じて、道を知らざるをば、記誦の学と云う。
詩文章を巧みにつくりて、道理にうときをば、詞章の学と云う。
此の三つは、共に儒者の学にあらず。
古人いやしめり。
儒者の学は、理をきわめ、知を致して、道を知るを以て務めとするを云う。
書を読んで道を知らざるは、儒者の学にあらず。


 智に大小あり。
是れ亦、知らずんばあるべからず。
たとえ微細なる末の事には疎けれども、身を修め、人を治める道に明らかなる人あり。
是れを小事にくらくして、大體に明らかなりと云う。
君子の大智なり。
貴ぶべし。
又、小事にかしこく、技藝にさとけれども、学問道理くらくして、身を修め、人を治めるに疎き人あり。
是れ小人の小智なり。
萬事に賢きやうに見えて、眞智なきなり。
是れを小事に明らかにして、大體にくらしと云う。
微細なる用にはかなえども、貴ぶに足らず。


 樊遲知を問う、子の曰く、民之義を務め、鬼神を敬って、而之に遠ざかる、知と謂う可し矣(雍也)。
是れ、知者のまよわざる事を以てこたえ給う。
知者は心明らかに、事理の是非を知る故に、凡そ、孝弟忠信などの、人道の行うべき事を専らつとめて、目に見えぬ鬼神の事にまよわず、祭るまじき淫祀をまつり諂うは云うに足らず、祭るべき正神なりとも、唯、敬いとうとぶべし。
近づきけがして、諂い求むべからず。
近づきなれるは、神をけがして敬わざるなり。
例えば、主君貴人などに、此方より馴れ馴れしく親しみ近づきて、禄をこい、財を賜わらんことをのぞむが如し。
無禮と云つべし。
神は非禮をうけず。
無禮にして近づきいのるとも、利生あるべからず。
神もし靈あらば、かえりて咎めあるべし。
又、祈るべき道理なくて、我が利欲を以て、へつらい求めて、福をいのるとも、神は、正直公明にして、私なければ、かかるひがひがしき祈りをうけ、賽銭奉財などにめでて、私を行い、利生あるべからず。
此の理、甚だ明らかにして、さとりやすし。
然れども、愚者は、此の理を知らずして、神に近づき、けがし諂いて、幸を祈るは、迷いの甚だしきなり。
人道の行うべき事をつとめ、神を敬いて、近づき諂わざるは、是れ知者のまどわざるなり。
故に知というべしとのたまえり。
神に祈るは、誠に正理なり。
君父などのために、祈るべき理ありて、誠と敬をつくして、天に祈り、正神に祈るは、其の幸いあり。
又、わが過ちをあらため、罪を悔いて、神の咎めを詫び事するも、是れ亦、祈る理あり。
かようの、祈るべき理なくして、如何に祈るとも、幸いを得難し。
其のためし、古今甚だ多し。
其の理を知るべし。


 韓非子が曰く、知は、目の如しなり、能く百歩の外を見て、而、其の睫毛を自ら見るかなわず。故に知の難きは、人を見るにあらず。
自ら見るにあり。
又、古人の語に、人これを知ると謂い、自ら知るこれを明らかに謂う、といえり。
人を知るは誠にかたし。
唯、知ある人、よく人を知る故に、これを知ると云う。
自ずから我が身の善悪を知るは、人を知るより難し。
如何となれば、我が身には私ありて、自ら是とし易し。
其の心明らかに、我が身に私せずして、公なる心なくては、我が身は知りがたし。
ここを以て、自ら知るを明と云う。
是れ人を知るよりは、自ら知るは猶明らかなり。
ここを以て明と云う。
夫れ、わが子を見るには、私ある故に、人子の悪しきを知らず。
他人の子を見ること明らかなるは、私なければなり。
人を知ることは、我を知るよりやすきは、私せざればなり、我を見ることは、人を見るより暗きは、私あればなり。
智を明らかにせんとならば、学んで理を極め、又、私を去りて、本心をくらますべからず。
愚人は暗くして、我が身を知らず、我に才徳なきをも知らで、我が身にほこる。
又、我に大なる過悪あれども知らず。
此の故に、人の諌めを防ぎて用いず。
却て怒り恨む。
それ人聖人にあらず。
誰か過ちなからん。
然るに、我が身に過ちなしと思へるは、智なきなり。
又、過ちを知れども、覆い隠して改めず。
是を、過ちを恥じて非をなすと云う。
皆是れ、愚者のしわざなり。
智ある人は、我が身を知れること明らかなる故に、我が身の過ちを知り、又、人の諌めを喜びて、禮用い、諌める人を貴び、我が過ちをあらためるに憚らず。
故に過ちなきにいたる。
日月の蝕すれども、やがてもとの如くになれば、光明少しも缺けざるが如し。
凡そ、人の諌めを好んで聞き用い、我が過ちを改めるは、善これより大なるは無し。
天下の美徳なり。
知と云うべし。
古より、たかき賤しき、諌めを好んで用いる人は、國家をおこし、身をおこす。
諌めを防ぐは、悪これより大なるは無し。
天下の悪徳なり。
愚と云うべし。
古より、諌めを防ぐものは、貴も賤も、多くは滅ぶ。
古来其の證據明なり。
夫れ明鏡といえども、其の裏を照らさず。
君子といえども、自ら見るに昧し。
故に賢人君子は、つとめて人の諌めをもとむ。
堯に諌めの鼓あり。
諌めんとする人は、此の鼓をうつ。
舜に誹謗の木あり。
木をけづりて、路頭に立て置きて、其の身の行いと、政の悪しきことを誹らしむ。
湯王には、司過の士ありて、湯王に過ちあれば、必ず諌むる事をつかさどる。
武王には、戒愼之ふりつづみありて、武王を戒め諌めんとする者は、其の振り鼓を動かして鳴らす。
漢より以降、君を諌める官あり。
歴代の聖人すら、其の身の過ちを知らん事をおそれて、人に求め給うこと、かくの如し。
いわんや末世の凡夫をや。


 生れつきて知るは良知なり。
二・三歳の小児も、親を愛する事を知らざるはなく、年すこし長じては、兄を敬うことを知らざるは無し。
是れ、学ばすして、人々生れつきて、よく知る故、良知と云う。
是れ、仁義禮智の智と同じ。
天性なり。
学んで知るも、亦、是れ良知あるが故なり。
生まれつきたる知、無くんば、何ぞ学んでも知ることを得んや。
学問の道は、智をひらく工夫なり。
学問の要二つあり。
未だ知らざる所を知る、一つなり。
すでに知る所をかたく守りて行う、一つなり。
知るにあらざれば行い難く、行うにあらざれば、實なくして、知らざるに同じく、無用の事となる。

十一
 不知の人は、義理を辨えざるのみにあらず、又、利害損得をも知らずして、我が身の禍となる事をかえりみず、利を貪り、僻事をなして、家を利し、身を立てんとして、却て身を亡し、家を破るにいたる。
かなしむべし。
是れ我が身の悪を止めずして、天のせめを待つというべし。
我が身を利せんとて、悪しき事を行い、人を苦しめて、我が身一人を楽しむ。
是れ皆、我が身の害となる事を知らず。
愚なるの至りなり。
智者は心明らかにして、人の憂苦しみをよく知る。
愚者は、心昧くして、我が身の外、人の憂苦しみを知らず。
いたりて愚なれば、我が身の外、父母兄弟の憂苦しみをだに知らで、不孝不弟を行う。

十二
 淮南子に、四方上下を宇と云う。(是れ、天地の間のことなり)
往古来今を宙と云う。(是れ上古より今までの事なり、古今の事を云う)
道と事と、其の間にありて、きわまり無しといえり。
今案ずるに、道と事とは、天地人の道と事なり。
人となる者は、凡そ、天地の内、古今の間の事を知らずんばあるべからず。
故にひろく天下古今の事に通ずべし。
是れ、智の功用にして、智者の工夫なり。

十三
 仁の、物をあわれみ、義の、悪を恥じ悪み、禮の、つつしみ敬うは、皆、なせるわざあり。
唯、智のみ、心の明らかなるのみにて、静かにして、何のしわざもなし。
されども仁義禮も、智の明らかなるを以て、是非を知りわかつにあらざれば、其の道行われず。
仁義禮これによりて行われ、是れによりて成就す。
故に智は、四徳の始めをなし、終わりをなす。
四徳の末にあるは、終わりを成すなり。
仁義禮を行い出すは、初めを生すなり。
例えば、一年の内、春は生じ、夏は長じ、秋はおさむ、此の三時は、皆、氣動きてなす事あり。
唯、冬は、四時の末にありて、静かにして、何のしわざもなし。
陽気の隠れひそまるのみ。
されど一年の功、ここにありて成就す。
是れ冬は、一年の功の終わりを成すなり。
又、天地の元気、冬の間静まり息まざれば、来春大に発生して、功用をなしがたし。
冬の内、天地の氣おさまりて、内にふくみ集まるを以て、来春の陽気、是れより出づる故、発生の本とす。
是れ一年の功の初めを生すなり。
故に冬は、一年の終わりを成して、又、一年のはじめを生す。
人の身も、明日よりゆうべに至りて、動き働けども、夜にいたりて寝いり静まる。
是れ、一日の終わりを成すなり。
又、夜中眠らざれば、明日力なし。
夜中に、よく寝入り息めば、明日の働きに力あり。
是れ明日の初めを生ずるなり。
智の四徳の初めを生じ、終わりを成すも、亦、かくの如し。
禮はさかんにあらわる。
智は隠れて見えず。
禮と智とは、うらおもてなり。
夏は萬物さかんに、陽気現る。
冬は、萬物ひそまりて、陽気隠れる。
冬と夏とは、裏表なるが如し。

十四
 学は、自得を貴ぶ。
自得とは、わが心に、ひとり道を知り、其の味を得たるなり。
わが物になるを云う。
我が心に得ずしては、道を知れりと云いがたし。
古来、文学ひろく、経義に通じて、道理を口に説くといえど、心にみち道を知らざる人多し。
是れ、自得せざるなり。
眞知にあらず。
たとえば、すぐれたる美味あれども、わが口に食わざれば、其の味のうまき事を知らず。
学んで道を知らざるも、亦、かくの如し。
ただ、眞をつみ、つとめ久しくして、後、自得すべし。
つとめなくして、にわかに自得せんとせば、是れを頓悟と云う。
わが儒の道の自得にあらず。

十五
 知ある人は、いかに言をたくみにし、利口に以て、是非善悪をみだし、或は邪説をすすむれども、其の心明らかなる故、其の言の是非をよく分別して、信ぜず。
知なき人は、是非をわきまえずして、人の言の巧みなるに迷いやすし。

十六
 古語に、毀譽於善悪を亂る、といへり。
人の褒め謗りは、よく善悪を言いみだす。
凡人は、人を知らずして、妄りにほめそしり、或いは我がひいきなる者は、悪人をも善人と云い、我が心に合わざる者をば、善人をも悪人と云う。
愚かなる人は、かかる讒言に迷い、其の言を信じて、善悪を聞きあやまり、人のほめそしりを明らかに察せざれば、讒人のためにたぶらかされて、其のはかりごとに落ちる事有り。
あさましき事なり。
古来英武の人といえども、知者にあらざれば、此のあやまり多し。
おそるべきことなり。
孔子曰く、巧言は、徳を亂れる。
言巧みなれば、必ず迷いやすくして、徳を乱れる。
よく心を用いて、聞き誤ることなかれ。

十七
 衆人は、目前に、すでに見え来れることにさえ昧し。
況んや後来のことを知らんや。
かねて事に先だちて、よく後来の事の、理非と成り行きを知るを先見の明と云う。
是れ知者の知る所、尊むべし。

十八
 言を聞きて信ぜざるは、聞く事あきらかならざればなりと、易にいえり。
人の善言と、諌めを聞きながら、其の言を信ぜず、唯、あだなる事のように思うは、其の心くらければなり。
明らかなれば、よく其の言の道理あることを知りて信ず。
故に人の善言を聞きて信ぜざるは、不明なる故なり。
古語に曰く、ただ、善人よく盡言を受く、其の聞きて能く之を改めるを云うなりと。
又、才弁なりて、言たくみなる者のことばをば、理もなきことをも、尊び信ず。
其の言巧みならず、其のかたちいやしければ、其の言に至理あれども、信ぜず。
是れ聞く人の不明なり。

十九
 論語に、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也己矣。
人を讒する者は、にわかにせず、漸くうるほすが如し。
かようにすれば、必ず心にそみて、迷い易し。
ここを以て、にわかに人をそしらず、ようやく讒すれば、人信じやすし。
又、にわかに人を脅やかして、即時に禍出で来るようにおどせば、人、亦、驚きて、信じ易し。
此の二の者は、讒人の巧みなる所なり。
故に人迷い易し。
かようの讒を聞きて信ぜざるは、心の明なり。
心の明は、即ち智なり。
古来かようの讒を信じて、賢人を失いし、ためし多し。
かなしむべく、おそるべし。
孔子曰く、佞人は、殆うしと。
豈まことならずや。

二十
 熟思審處は、智者のする事にして、後悔なき道なり。
かねて其の事あるべきと知りたる事は、先づ其の事を行うべきようを思いはかりて、きわめ置くべし。
事にのぞみて、とやせん、かくやせんと計るは、おそくして、事に及ばず。
すべて思慮は、かねてより定めるべし。
又、かねて計らざる不慮に出来る事も、亦、多し。
此の時にのぞみても、つくづくと思い、審らかにはかるべし。
或いは、智ある人、其の事を知れる人に問うべし。
あわてて、わが心一つにて、にわかに其の事を決定すれば、必ず過ち多し。
後悔すれども益なし。
急いで決定すれば、必ずあやまる。
古人の言に、凡そ事は、唯、待つことを怕、待者詳處之謂也と云えるが如し。
待つとは、急に決定せずして、つまびらかに思案して行うなり。

二十一
 子曰く、学んで而思不ば、則ち罔し。
学ぶとは、書を読み、人に問うなり。
学びたるのみにて、我が心に、其の道理を求めて、思案せざれば、道理を自ら得がたし。
故にくらし。
思うの工夫は、学ぶに相対して、おもき事なり。
人の、博学にして道を知らざるは、思うの工夫なければなり。
思うは、致知の工夫において、尤も益あり。
思うに非ざれば、自得する事なりがたし。

二十二
 孔子の舜の大智なることを称し給えり。
舜は大智なりし故に、わが智を用い給わず、天下の人の智をあつめて、我が智とし給う。
是れ、大智なり。
此の故に、人に問う事を好み給いて、淺く近き言を聞きても、其の言の善悪を察して、悪しきをば匿して、人にかたり給わず、善をばあげ用いて、其の人の言なる由あらわし給う。
かくありし故に、人善を舜に告げ申すことを好めり。
さありて、人の言う言の中にて選びて、其の中の過不及なき、道理の至極せるを取りて用い給う。
是れ舜の大智なる所なり。
古人は、詢于芻蕘とて、わが智を自満せずして、草かり木こりなどの、いやしく愚かなる者にも、知るべき事は問いて、其の言を用う。
是れ、諸人の知をあつめて、廣くとりて、我が知とするなり。
聖賢は言うに及ばず。
いにしえの英雄、漢の高祖、唐の太宗などの如くなる英明の君は、人の諌めを好んで、此に従い、殊更、張良、陳平、王珪、魏徴などが如き、智力のすぐれたる者を用いて、其の言を取り用い給へる故、天下を草創し、太平を開きて、大なる巧業をなし給り。
昏弱の君は、人の諌めを聞かず、或いは、諫臣を殺せるも多し。
かかる人は、必ず國家を失えり。

二十三
 天命を知るとは、人の吉凶禍福死生は、皆、定まれる天命あり。
生れつきたる分限あり。
分外のさいわいを、人に諂い求めても、神に諂い祈りても、必ず得べからざる事を知るを云う。
然るに、小人は天命を知らず。
禍あれば、手立てを以てのがれんとし、利を願いては、人に諂いて、富貴福禄を得んとす。
ここを以て、義理をすて、利欲に従いて恥じず。
又、祈るまじき理を知らで、神にへつらいて、福を求め、禍をのがれんとす。
君子は、義理を尊んで、天命を知る故に、義にそむける事は、大なる利を得るといえど行わず。
害ありといえども避けず。
天命の求むべからざるを知りて、義に害なしといえども求めず。
しかるに、若しみだりに利を求め、害をのがれんとして、其の益なきことをせば、天命を知らずして、愚かなりと云うべし。
何ぞ君子とすべけんや。

二十四
 魏徵曰く、兼ねて聴けば則ち明らかなり、偏に信じれば則ち暗し。
いう意は、ひろく人に問いて、諸人の言を聞けば、一遍の言に迷わずして、聞き損ずることなく、其の聞く事、偽りまぎれ無くして、明らかなり。
唯一人の言を信ずれば、其の人の言う所、多くは、一遍の私ありて、我が心を迷わす。
管子が曰く、天下の目を以て見れば、見ざる事なし。
天下の耳を以てきけば、聞かざる事なし。
天下の心を以て慮れば、知らざる事なしと。
是れわが智慧を用いずして、ひろく諸人の智を用いるなり。
知者の、我が知を用いずして、人の智を用いる事、かくの如し。
これ先づ、我が心の智慧正しくして、胸中に善悪をはかる權度ありて、ひろく見、ひろく聞きて、人の言う所の善悪是非をえらびて用いるなり。

二十五
 智の要は、人を知るにあり。
尚書に、人を知るは則ち哲、能く人を官にす、といえり。
哲とは、心の明らかなるを云う。
人を知るは、其の心明らかなるなり。
能く人を官にすとは、人を知れば、臣下の才徳をはかりて、その長じたる所を取って、各々其の才の宜しき官をさづける故に、過りなくして、其の職よくおさまる。
樊遅知るを問う、子の曰く、人を知る。
是れ人を知るは、心の明らかなる所、即ち知るなり。
明は、知の體なり。
人を知るは、知の用なり。
用を言えば、體、其の内にあり。
故に人を知るを以て、知を説き給う。
愚者は、人を知ら不して、交わる所、用いる所、其の人にあらず、唯、人のそしり誉めるにしたがい、わが喜怒にまかせ、あい口、ふあい口により、又、親しき疎きによりて、人を進退すれば、人を用いる道理にあたらず。
人を知らざれば、善悪邪正君子小人、皆、所を失う。
人を知ると知らざるとは、わが身の禍福案危と、國家の治乱存亡にかかれり。
心を用いて、能く人を知るべし。
人を知らずして、悪しき人を用いれば、身の禍となり、家のやぶれるとなる。
畏れざるべけんや。
知は、人を知るより難きは無しと、古人いえり。
人の心ほど、知り難きものなし。
よく其の心を察して知るべし。
口のききたると、容のよきとを以て、人をとるべからず。
其の心の賢否と、其の行いの善悪とを以て、人を進退すべし。
又、一言一行を以て、軽く人の賢否を定むべからず。
小人に欺かれて、其の人を信じて、すすめ用い、君子を見知らずして、疑い退けるは、迷えるなり。
愚かなりと云うべし。
よく辨えざれば、必ずあやまりて、善悪所をかふるものなり。

二十六
 人を知るの道は、明と公とにあり。
学んで道理を知るは明なり。
心明らかならざれば、人の是非を辨えがたし。
又、心に愛憎喜怒の私なきは公なり。
心公に私なくして、人の善悪是非を分つこと正し。
愛憎喜怒の私あれば、まよいて人を知ること正しからず。
善人を悪人とし、悪人を善人とす。
又、心軽くして、一旦の善悪を以て、にわかに人を是非すべからず。
歳月をまつべし。
言語の才ありて、利口なるを以て、人をとるべからず。
必ず心と口と違う者多し。
心公ならず、私心を以て、人を用いすつれば、我が氣に入り、あひ口なる者をば、悪人をも、善き人と思いて用い、善人をも氣にあわざれば用いず。
かくの如くなれば、人を知る事かたくして、人を用いる事、理にあたらず。
官職其の人にあらずして、民治らず。

二十七
 論語に曰く、不知言無以知人。
是れ、人を知るの法なり。
人の邪正は、言にあらわれる。
言は心の聲なりと、古人もいえり。
言の、理にかなうと叶わざるとによりて、其の人の邪正を知るべし。
もし、言の是非を辨えずば、人の邪正は知り難し。
然れば人を知らんとならば、言を聞きて、其の言の理にあたると、当らざるとを察むべし。

二十八
 人の心ふかく隠れて、外より見えがたければ、其の内心を知り難し。
外にあらわれる言語容貌を以て、其の心を信ずべからず。
言語よく、容貌うるわしく、君子に似たりといえども、内心は奸曲なる者あり。
言ふつつかに、容いやしけれども、内に忠信才智ある者あり。
外くらくして、内明らかなる人あり。
外明らかにして、内くらき人あり。
火は外明らかにして内くらし、水は、外くらくして、外明らかなり。
人の性も、亦、かくの如くなるあり。
言と貌を以て、人をとるべからずと、古人もいえり。

二十九
 子曰く、不患人之不己知患不知人也。
君子の道は外に求めず、唯、わが身に求む。
故に人の我が善を知らざるは、人の不明なり。
我が患にあらず。
わが善を行うは、もと我がなすべき所なり。
人に知らせん為にあらず。
例えば、飯をくらって、我が腹に満ちて、飢えを助ければ、人の知らんことを求めざるが如し。
人を知らざれば、人の善悪邪正をわきまえず。
是れ、わが不明なり。
故に患うべし。
もし人を知らざれば、其の人にあらざるを友として、身を失い、邪人を用いて、家をやぶり、人をそこなう。
或いは善人をすてて用いず、凡そ小人は、わが身を人の知らざるを患いて、我が人を知らざるを患えず。
すべてさかさまに工夫をなせり。

三十
 孟子の眸子を見る人も人を知るの術なり。
眸子とは、人の目の瞳なり。
瞳は、人の悪を覆い難し。
人の胸中正しければ、眸子明らかなり。
胸中正しからざれば、眸子くらし。
人の言の邪正を聞き、又、人の眸子を見れば、其の人の心中の邪正かくれなし。
言は、猶も偽りを以てよくすべし。
眸子は、隠す事難ければ、是れ、人を知るの術なり。
人の知愚、邪正、貧廉、才不才、寿夭、貴賤も、皆、眼目に現れる。
眼は、是れ五臓精萃のあつまる所、心性の先づあらわれる所なればなり。

三十一
 人を知れば、はじめて、一たび會面しても、其の人の賢を知りて、交わり深くなる。
或いは数千里をへだてても、其の情を通わす。
数千年の久しきといえど、其の人を思いしたう。
人を知らざれば、朝夕膝をならべて、白頭にいたるまで、久しく交わりても知らず。
人を知ると、知らざると、其の大にかわれる事、かくの如し。
故に士は、知己の者の為に死すといえる事、豈然らずや。

三十二
 人各々長ずる所あり、短なる所あり。
長ずる所とは、得たる所なり。
短なる所とは、得ざる所なり。
知者といえども、其の得ざる所は、愚者の得たる所には及ばず。
もし得ざる所を以て知者をそしらば、堯舜も今日の凡夫におとるべし。
人を知らずと云うべし。
君子の人を用いるは、良医の薬を用いるが如し。
各々其の性をよく知りて用いること、其の病に応ず。
又、大匠の材を用いるが如し。
ゆがめるを渠とし、直ぐなるを柱として、材すたらず。
人を用いるに、各々得たる所を知りて用いれば、天下に棄たれる人なし。
皆、用をなせり。

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