二宮翁夜話 第三章

第三章 天道と人道の巻

十六  天道と人道と自ら別あり

 翁曰く、夫れ世界は、旋転してやまず。
寒往けば暑来たり、暑往けば寒来たり、夜明るければ昼となり、昼になれば夜となり、又、萬物生すれば滅し、滅すれば生ず。
譬えば、銭を遣れば品が来たり、品を遣れば銭が来るに同じ。
寝ても覚めても、居ても歩行いても、昨日は今日になり、今日は明日になる。
田畑も海山も皆その通り。
爰にて薪をたき減らすほどは、山林にて生木し、爰で喰い減らす丈の穀物は、田畑にて生育し、生まれたる子は、時々刻々年がより、築たる堤は時々刻々に崩れ、堀りたる堀は日々夜々に埋まり、葺きたる屋根は、日々夜々に腐る。
是れ即ち天理の常なり。
然るに人道は是れと異なり。
如何となれば、雨風定めなく、寒暑往来する此の世界に、毛羽なく鱗介なく、裸體にて生まれ出で、家がなければ雨露が凌がれず、衣服がなければ寒暑が凌がれず、爰に於て、人道と云う物を立て、米を善とし、莠を悪とし、家を造るを善とし、破るを悪とす。
皆、人の為に立てたる道なり。
依って人道と云う。
天理より見る時は善悪は、なし。
其の證には、天理に任かする時は、皆、荒地となりて、開闢のむかしに帰るなり。
如何とならば、是れ則ち天理自然の道なればなり。
夫れ天に善悪なし、故に稲と莠とを分かたず。
種ある者は皆生育せしめ、生氣ある者は皆發生せしむ。
人道はその天理に順うといえども、其の内に各區別をなし、稗莠を悪とし、米麦を善とするが如き、皆、人身に便利なるを善とし、不便なるを悪となす。
爰に到りては、天理と異なり。
如何となれば、人道は人の立つる處なればなり。
人道は譬えば料理物の如く、三倍酢の如く、歴代の聖主賢臣料理し塩梅して拵えたる物なり。
されば、ともすれば破れんとす故に、政を立て、教えを立て、刑法を定め、體法を制し、やかましく、うるさく、世話をやきて、漸く人道は立つなり。
然るを天理自然の道と思うは、大なる誤りなり。
能く思うべし。

【本義】

【註解】

十七  人道は節制によって成る

 翁曰く、夫れ人道は人造なり。
されば自然に行われる處の天理とは格別なり。
天理とは春は生じ秋は枯れ、火は燥けるに付き、水は卑きに流れる。
昼夜運動して萬古易らざる是れなり。
人道は日々夜々人力を盡し、保護して成る。
故に天道の自然に任かすれば、忽に廃れて行わず。
故に人道は情欲の儘にする時は、立たざるなり。
譬えば漫々たる海上道なきが如きも、船道を定め是れによらざれば、岩にふれるなり。
道路も同じく、己が思う儘にゆく時は突き当たり、言語も同じく、思うままに言葉を發する時は、忽ち争いを生ずるなり。
是れによりて人道は、欲を押さえ情を制し、勤め勤めて成る物なり。
夫れ、美食美服を欲するには天性の自然、是れをため是れを忍びて家産の分内に隨わしむ。
身體の安逸奢侈を願うも又同じ。
好む處の酒を控え、安逸を戒め、欲する處の美食美服を押さえ、分限の内を省いて有り余りを生じ、他に譲り向来るに讓るべし。
是れを人道というなり。

【本義】

【註解】

十八  人道は作爲にして自然の道にあらず

 翁曰く、夫れ人の賤む處の畜道は、天理自然の道なり。
尊む處の人道は、天理に順うといえども又、作為の道にして自然にあらず。
如何となれば、雨には、濡れ、日には、照られ、風には吹かれ、春に青艸を喰い秋は木の實を喰い、有れば飽きるまで喰い無き時は喰わずに居る。
是れ、自然の道にあらずして何ぞ。
居宅を作りて風雨を凌ぎ、藏を作りて米栗を貯え、衣服を製して寒暑を障え、四時共に米を喰うが如き、是れ、作為の道にあらずして何ぞ。
自然の道にあらざる明らかなり。
夫れ自然の道は、萬古廃れず、作為の道は怠れば廃れる。
然るに其の人作の道を誤って、天理自然の道と思うが故に願う事成らず思う事叶わず、終わりに我が世は憂世なりなどと言うに至る。
夫れ人道は荒々たる原野の内、土地肥饒にして艸木茂生する處を田畑となし、是れには、草の生ぜぬ様に願い、土性せきはくにして、艸木繁茂せざる地をまくさばとなして、此の處には艸の繁茂せん事を願うが如し。
是れを以て、人道は作為の道にして、自然の道にあらず。
遠く離れたりたる所の理を見るべきなり。

【本義】

【註解】

十九  天道と人道との異る道理を悟るべし

 翁曰く、世の中、用をなす材木は、皆、四角なり。
然りといえ共、天、人の為めに四角なる木を生ぜず。
故に満天下の山林に四角なる木なし。
又、皮もなく、骨もなく、かまぼこの如く半片の如き魚あらば、人の為便利なるべけれど、天、是れを生ぜず。
故に満々たる大海に、斯の如き魚一尾もあらざるなり。
又、籾もなく糠もなく、白米の如き米あらば、人生此の上もなき益なれ共、天、是れを生ぜず。
故に全國の田地に、一粒も此の米なし。
是れを以て、天道と人道と異なる道理を悟るべし。
又、南瓜を植えれば、必ず蔓あり。
米を作れば必ず稾あり。
是れ又自然の理なり。
夫れ糠と米は、一身同體なり。
肉と骨も又同じ。
肉多き魚は骨も大なり。
然るを糠と骨とを嫌い、米と肉とを欲するは、人の私心なれば、天に対しては申し訳なかるべし。
然りといえども、今まで喰いたる飯も餒えれば喰う事の出来ぬ人體なれば、仕方なし。
能々此の理を弁明すべし。
此の理を弁明せざれば、我が道は了解する事難しく行う事難し。

【本義】

【註解】

二十  懶惰私慾は天道にして勤勉克己は人道なり

 翁曰く、天理と人道との差別を、能く弁別する人少なし。
夫れ人身あれば欲あるは則ち天理なり。
田畑へ草の生ずるに同じ。
堤は崩れ堀は埋まり橋は朽る、是れ則ち天理なり。
然れば、人道は私欲を制するを道とし、田畑の草をさるを道とし、堤は築立て堀はさらい、橋は掛け替えるを以て道とす。
此の如く、天理と人道とは、格別の物なるが故に、天理は萬古変ぜず、人道は一日怠れば忽ちに廃す。
されば人道は勤むるを以て尊しとし、自然に任ずるを尊ばず。
夫れ人道の勤むべきは、己れに克つの教えなり。
私欲は田畑に譬えれば草なり。
克つとは、此の田畑に生ずる草を取り捨てるを云う。
己れに克つは、我が心の田畑に生ずる草をけづり捨て、取り捨て、我が心の米麦を、繁茂させる勤めなり。
是れを人道と云う。
論語に己れに克て禮に復るとあるは此の勤めなり。

【本義】

【註解】

二十一 水車の廻るは半ば天道にして半ば人道なり

 翁曰く、夫れ人道は譬えば、水車の如し。
其の形半分は水流に順い、半分は水流に逆ふて輪廻す。
丸に水中に入れば廻らずして流れるべし。
又、水を離るれば廻る事あるべからず。
夫れ佛家に所謂知識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、譬えば水車の水を離れたるが如し。
又、凡俗の教義も聞かず義務もしらず、私欲一編に著するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。
共に社会の用をなさず。
故に人生は中庸を尊む。
水車の中庸は、宜しき程に水中に入りて、半分は、水に順い、半分は流水に逆らい昇りて、運轉滞らざるにあり。
人の道もその如く、天理に順いて種を蒔き、天理に逆らうて艸を取り、欲に隨いて家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。

【本義】

【註解】

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