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五常訓 巻之三 仁之下



 孔子の弟子顔淵、仁を問い給う。
仁を問い給う。
孔子答えて曰く、克己復體為仁。
己とは、身の私欲なり。
禮とは、身の行う事、理にかないて、ほどよきを云う。
仁を害するものは、身の私欲なり。
身の私欲に勝ちて、身の行う所、理にかないて、ほどよきに立ち省りぬれば、本心の徳に害なくして、全くなる。
全しとは、きずなきを云う。
是れ、仁をなす工夫なり。
凡そ、私欲は、おのが身より出づるものなる故に、己が身に勝つは、即ち私欲に勝つなり。
禮は、元来、吾が身に生まれつきたる理なれど、私欲に奪われて、取り失えるを、もとの如く取り返して、立ち帰るべしとなり。
顔子、又、己に克ち體に復るべき条目を問えり。
孔子とたえ給う意は、凡そ人の身に、耳目口體あり。
目は見、耳は聞き、口は言い、體は動く。
人のわざ多しといえども、此の四つの事の外にこれなし。
此の四つの事につきて、其の心に私欲なくして、禮を以て物を見、物を聞き、禮を以て口に言い、體に動くべし。
非禮とは、上に言える。
己が身より出づる私欲なり。
淫聲邪色などの、外物の非禮にはあらず。
非禮非勿視とは、身に禮なくして、私欲を以て物を見る事をいましむべしとなり。
外の邪なる色見ざるは、云うに及ばず。
體に非ずして聴くことを勿くすとは、身に禮なくして、私欲を以て物を聞く事をいましむべしとなり。
外の淫聲を聞かざるは云うに及ばず。
體に非ずしていわす、體に非ずして動かず。
此の四つの者は、身の私欲に勝ちて、天理にかえる工夫の条目にて、即ち仁をするの事なり。
己に克つは、人欲にかつなり。
體に復るは、天理を存するなり。
人欲にかちて、又、天理にかえる、二つの工夫なり。
一を缺くべからず。
人欲にかちたるのみにて、天理を存せざるは、異学の事なり。
此の問答は、孔顔傳授の心法なり。
いるがせに思うべからず。
学者のつとめ行うべき所なり。


 身の私にかちて、道理に立ち省るは、仁の體なり。
人を愛し、物を利益するは、仁の用なり。
體ありて後、用行わる。
故にまづ我が身の私にかち、體にかえるべし。
人欲去らず、天理行われずしては、仁愛の道、人に施し難し。


 孟子は、仁は人の心なりと説き、学問之道無他、求其放心而己矣と説き給う。
放心を求むとは、仁心の外物の欲にひかれて取り失えるをおさめて、求め得るべりとなり。
学問の要は、わが仁心の放たれたるを求め得るより外にこれなし。
放心を求めるの工夫は、敬にあり。
敬とは、おそれつつしみて、此の心をまもり保つ工夫なり。
内にある仁心をば、外におしひろめ行うべし。
外物にひかれて、仁心を放ち失えるをば、おさめて内に入るべし。


 程子曰く、觀天地生物氣象。
是れ、天地の生理のやまざる處、眼前に見えたるをいえり。
其の氣象は、即ち温和慈愛なり。
人にありては、仁なり。
又曰く、萬物之生意最可觀。
言う意は、萬物皆、生意あり、是れ、仁なり。
中につきて、物のはじめて生ずるは、生意さかんにして、見えやすし。
竹の子など、はじめ生ずる時、日夜に長ずる事さかんなるを以て見るべし。
枝葉しげれる時は、生意見え難し。
仁の理、はじめて惻隠にあらわれる時は、此の心尤もさかんにして見えやすし。
ひろく政をおこし、仁をほどこす時にいたりては、其の理廣大にして、かえって見え難し。
又曰く、觀鷄雛、此可觀仁。
鷄のひよこの初めて生じて、動きやまざるも、生意のはじめてさかんなる時、此の理見よければなり。
又曰く、切脈最可觀仁。
此の意は、人の脈の、常に発して止まざるは、生意の常に止まざるなり。
又曰く、満腔子是惻隠之心。
言う意は、人の胸中にみちみちたる者は、惻隠の心なり。
中にみちみちてある故に、物にふるれは、即ち仁心おこる。
下思孟子の、仁は人なりとのたまうも、此の意なり。
人の身に、仁の理みちみちて、これある故、仁は、人なりといえり。
たとえば人の身には、生氣みちみちて、ある故、針にて刺しても、いたむが如し。
人の心に、仁愛の理みちみちてある故、孺子の井に入らんとするを見て、たちまち惻隠の心生ずるは、此の故なり。
是れを眞心と云う。
人の本心なり。
人欲の私より出づる心は、眞心にあらず。
本心をとり失えるなり。
程子又曰く、天地生物之理可觀、而不可言、識之者便知道也。
天地の生ずる理は、眼前にみちて見える處なれば、見るべしといえど、其の理は、ことばに述べ難し。
若しこれを知れる人あらば、即ち道を知れる人ならんとなり。
右の数説は、程子の、よく仁を知れることばなり。
仁を知らずしては、此の如くの言い難かるべし。
学者心をつけて、此れ等の説を静かに玩味して、天地生物の理を自得すべし。
もし此の理を自得せば、仁を知れる人なるべし。
しからば、其の楽しみ、手のまい、足のふむ事を知らざるべし。
此の理を知らずんば、四書五経の文字訓詁を詳かに知り、其の上博学多識にして、古今に通ずとも、道をしらぬ人なるべし。


 程子曰く、四徳之元、猶五常之仁、偏言則一事、専言則包四者。
言う意は、天の元享利貞の四徳は、元を以て兼ねたり。
元は、天の物を生ずる理なり。
これを以て、享利貞をつらぬけり。
春の生氣を以て、夏秋冬をつらぬくが如し。
五常の仁も、亦、かくの如し。
仁もを以て、義禮智をつらぬけり。
天の四徳も、人の四徳も、一つづつならべ、平らかにしていれば、各々一事なり。
専らにとは、すべて云うなり。
すべていえば、元を以て享理貞を兼ね、仁を以て義禮智を兼ねる。


 天地の、萬物を生ずる恵みの心を、わが身に體認して心とし、其の善心の、はじめて起る所を養い育て、これを害する所の私欲を去りて、火のはじめて燃え出づるを吹き起こすが如く、泉のはじめて流れ出づるを導きて流すが如くにせば、一念の惻隠をおしひろめて、萬民を救うべし。
一念の羞悪をおしひろめて、萬民を正すべし。
是れをおしひろめ充つれば、四海をおさむ。
おしひろめざれば、間近き父母に事えるに足らず。


 程子の言に、聖賢の仁をいえる處をあつめて見れば、仁を知り得んといえり。
今の学者、仁を知らんとなれば、孔孟程朱の仁を説き給る言を、数年の間、心をひそめて、求め味わうべし。
急迫にすべからず。
誠積み力久しくば、自然に其の理を知るべし。
若し、然らずば、聰明博学の人といえども、仁をば、知り難かるべし。


 虞書に生を好む之を徳と云い、民を安ずる則ち惠といえるも、皆、仁なれども、未だ仁の名なし。
仁の字、聖經に見えることは、尚書の中虺之誥にはじめて出づ。
曰く、克寬に克く仁にといえり。
其の次に伊尹の語に、民罔常懐懷干有仁といえり。
孔子に至て、専らに仁の一字を以て教えとし給う。
孟子も亦、孔子の教えを発明して、専ら仁を説き、又、仁義を説き給り。
凡そ、仁を専らとして教え、仁義をそなえて説き給るは、是れ、孔孟の家宝なり。


 いにしえ、国家の長久せしは、其の君、仁なればなり。
亡びしは、其の君、不仁なればなり。
桀紂以下、歴代不仁の君亡びざるは無し。
堯舜湯武は申すにおよばず。
漢の高祖文帝、後漢の光武、唐の太宗、其の餘歴代の賢君は、皆、仁愛ありし故、国家長久せり。
凡そ、国家の興亡、身の安危、皆、不仁とによれり。
貴きも賤しきも、仁の道豈つとめざるべけんや。
禹湯ゆは、己が身をせむ。
故にさかえたまう。
桀紂は、人をせむ。
故に亡びたり。
己をせめるは仁なり。
人をせめるは不仁なり。
左傳に、國のおこるは、民を見る事やぶるが如し。
其の亡ぶるは、民を見ること土芥の如しといえるも、仁不仁の異なるなり。


 鳥獣蟲魚を、すべて物と云う。
物を生かす事をことみ、殺す事を嫌うは、人の本心なり。
されども、口腹の欲を以て、物をころす事を好むは、本心を失えるなり。
命を惜しみ、死をおそれる事、物も人と同じ。
ころされる時、いたみくるしむ事、物も人と同じ。
子を愛する事も、物も人と同じ。
ただ物は、智なく力なく物言わず。
是れ、人と変われり。
ここを以て、人に殺されて食わる。
肉食を好む者は、小鳥は、一食に多き事、十にいたる。
はまぐり小えびの類は、一食に数十百にいたる。
或いは、生ながら、焼き煮て食い、或いは生ながら、切りわりて食う。
不仁なりと云いつべし。
仁に志あらん人は、物のかなしみをかえり見て、あわれむべし。
ころす事を好むべからず。

十一
 禽獣蟲魚は、知なし。
草木は情けなしといえども、人と同じく、天地の氣をうけて生ず。
禽獣蟲魚の命をおしみ、草木の其の生をとげんとする理は、人と同じ。
如何ぞみだりにこれを殺し、からをきり、根をたつべき。
されど五穀をさまたげ、人に害あるをば、殺しきるべき道理なれば、是非に及ばず。
又、俸養のため、人の利益となり、民用を助ければ、やむことを得ずして、これを用う。
是れ、義なり。
然らずして、人間に妨げなくは、其の生育をとげしむべし。
是れ、物を愛するの仁なり。
不仁なる人は、わが身の外は、すべて心を通わさずして、情けなく、物のあわれを知らず、物を苦しめいたましめ、命を断つ事を好む。
あさまし。

十二
 儒者の道、鳥けだものを殺すは、不仁なりと云う人あれど、それは道を知らざる人の言なり。
君子は故なければ、鳥獣をころさず。
故なくして妄りにころすは、儒者の道にあらず、末世の人のわざなり。
是れを儒者の道とよぶべからず。
ころすべき理あれば、人をも殺して、義にあたる。
況や、鳥けだものをや。
殺すまじき理あれば、草木をも伐らず、禽獣はさらなり。
曾子曰く、樹木時を以てきり、禽獣時を以てころす。
孔子曰く、一樹をきり、一獣をころすも、其の時を以てさぜれば不孝なり。
是れ、妄りに木をきり、物をころすは、天地の物をそこなうなり。
不孝と云うべし。
いにしえの人、田畑に作れる五穀をそこなう鳥獣を殺して、民のために害を除き、是れを用いて、宗廟社稷の神をまつり、老をやしない、賓客にそなえるため、民の隙を用いて、武事をならわしめ、軍法を教えんだため、四時の狩をして鳥獣をころせしは理なり。
君子の道は、唯、理にしたかうのみ。
理にしたがわざれば、親をすてて他人を愛し、人を愛せずして鳥獣を愛し、近きをすてて遠きを親しむは、理にそむきて仁にあらず。
君子の人物を愛するは、理一にして、分殊なり。
君子の心は、すべて人倫を愛し、萬物を愛せずと云う事なし。
是れ、理一なり。
理一とは、すべて萬物を愛する理は一なり。
愛せずと云う事なきなり。
理一は是れ、仁なり。
人を愛する内にも、親、兄弟、妻子、親戚、朋友、臣僕の品あり。
是れ、分殊なり。
分殊とは、愛する内に、其の親しきうとき、高きいやしき、大と小との分によりて、其の愛する品に、厚薄のかわりあるを云う。
分殊は是れ、義なり。
禽獣は、愛すべしといえども、時により、事により、殺すべき義あり。
是れ又、分殊なり。されども是れを用いるに、時あり禮ありて、みだりに殺さず。
草木をきるにも、時ありて妄りに伐らず。
古は、春夏に草木をきらず。
成長する時なればなり。
山林に入りて木をきるにも、鳥獣をころすにも、時あり。
獣の子をとらず、鳥の卵をとらず、胎あるも殺さず、巣をくつがえさず。
皆是れ、天道にしたがい、物をあわれむ仁なり。
殺すべくして殺すは、義にして、仁、其の中にあり。
殺すべくして殺さざれば、仁に似て義にそむく。
眞の仁にあらず。
今の人、聖学を学ばず、聖道を知らずして、みだりに聖人の法を議すべからず。

十三
 此の世に生まれては、高きも賤しきも、皆、同じく天地の子にして、同じ人なるに、なかにつきて、不幸なる人は、家貧しく、財なくして、常に衣食とぼしく、朝夕うれい苦めり。
且つ年悪しく、衣食乏しく、養い足らずして、世を渡るよすがなき人多し。
わが身幸にして、かかる苦しみ無く、かれは不孝にして、かかる憂いにしづめり。
彼の貧民、たとえ疎遠の人なりとも、其の本をたずねれば、同じく皆、わが兄弟のわびしき人なれば、豈、かなしまざらんや。
我がともがら、幸に天地の徳により、主君の恵みをうけ、父祖の恩によりて、彼の我に親しき人、我が知れる人の、世を渡り兼ねて、憂いにしずめる人を救わざらんや。
もし、これを悲しと思わず、救う志なくば、我ながら不仁にして、天地の御心にそむきぬる事、おそるべきと思い、自ら其の身を責むべし。
我が身の養いは、如何なる富貴の人といえど、日に一升の穀を食い、年に一襲の衣を著るに過ぎず。
されば、わが身の俸養は、さほど豊かに厚からずして、多くの費えをなさずとも、身ひとつを過ごし、且つ、父母、妻子、従者を養う事も、足りやすかるべし。
其の餘の財は、さほど多く積み重ねずともありなん。
多く蔵めれば、必ず厚く失うと、古人のいえる如く、財を多く積み重ねれば、かえりて禍い出でくる理あり。
天の悪み給う所なればなり。
彼の世を渡り兼ねて、憂い苦しめる人に、わが力にしたがいて、施し助けば、豈、心よからざらんや。
是れ、われに天地より生まれつきし所の仁を行いて、天地につかえまつる道なれば、わが職分をつとめるなり。

十四
 天地の、我に財禄を多く与えて、富貴にし給うは、必ず、我一人のために、厚く恵み給うにあらず。
我が力を以て、貧なる者に財をほどこし恵ませんために、我におおく財禄を与え給う理なれば、人に施さざるは、天の御心にそむく理なれば、おそるべし。
我が財を惜しむべからず。
もし、天心にそむき、財多くして人に施さざれば、禍い出来るものなり。
易に天道は、みつるを缺くといえり。
又、物みつれば缺くともいえり。
古語にも、あつまれば、散ずとも云う。
財多くて、人の貧窮をめぐまざれば、みちて缺くるの禍あり。
おそるべし。
又、我が采地の民は、我が養うべきものなれば、力にしたがって救うべし。
一人も餓死せしむる事なかれ。
民の妻子下人を賣らしめ、父母兄弟離散し、貧窮飢寒にいたらしむる事、わが身にかえり見るべし。
心をいたましむる至極なり。
あわれむべし。
凡そ、吝嗇にしては、仁義禮智共に行われず。
殊に仁の道缺くるものなり。
又、吝嗇ならねども、不仁なる人は、人をめぐむ事を好まず、無用の事には、財を多く費やすものなり。

十五
 道橋の、通り難き危うき所は、力あらば、修理して、道行く人を、心やすく自由に通らしむべし。
又、途中に、人の足をそこなうべき杙荊などあらば、除くべし。
其の外かようの心づかいをすべし。
是れ、陰徳にして、仁愛の道なり。

十六
 人もし富貴にして、いたずらに財を貯え、人に施さざらんは、富貴なる益もなく、思い出も無きことなるべし。
古人これを守錢虜と云う。
親戚、朋友、又、わが家に出入りする者、采地の農人、わが門にくる乞丐など、貧窮に苦しめる者あらば、我が力に随いて救うべし。
是れ、富貴なるかいありて、楽しみとすべき事なり。

十七
 人の世に居るは、陰徳を積み行うべし。
陰徳は、陰の恵みと訓む。
慈愛を心の内に密かに保ちて、人を救い助けるを云う。
世俗にこれを慈悲と云う。
古人の曰く、陰徳は耳のなるが如し。
我のみ知りて、人知らずといえり。
又、古語に、陰徳ある者は、必ず陽報ありといえり。
いう意は、陰徳ある者は、陰にて善を行えども、必ず天道に通じて、あらわに天のむくいありて、福を得るとなり。

十八
 陰徳は、富貴なる人のみ行うべきにあらず。
貧賤の人といえど、其の志あれば、行われずと云う事なし。
如何となれば、金銀米銭を多く妄りに与え、無益の事をなして、財を多く費やすを、陰徳と云うにあらず。
ただ、我が分限にしたがい、力の及ぶほど、施しめぐむべし。
仁愛に心を用いれば、誰も成りやすし。
せめて我が身の奢りと欲とに、財と心を用いる十分が一の力を費やさば、其の救い施す事ひろかるべし。
仁愛ふかくして久しく陰徳を積み行える人は、其の恵みを受ける人の喜ぶのみにあらず、天地神明の御心にしたがい、喜び給う理なれば、必ず天道のむくいあつく、目に見えぬ鬼神の守りありて、たびたび禍をのがれ、子孫もながく榮え楽しむこと、其の理明らかにして、古今和漢、ためし少なからず。
何の福か是れにしかん、何の祈祷祭祀か是にしかんや。
人を救う道は多し。
飢凍えする人を助け、鰥寡孤独のより所なき者を恵み、乞丐の人に施し、人の困窮を助け、もし位あらば、善人をすすめ、悪人をしりぞけ、才能を取り上げ、人の害を除き、人の利をおこし、ひろく民を救い助くべし。
位無くとも、人をあわれむ心は同じかるべし。
人の財を費やさず。
人に苦労をなさしめず。
人の財を借りては、我が身を倹約にして、必ず早く返して、人を苦しめず。
老人病人をいたわり、かたわなる人をあわれみ、人の才能をねたまず、褒めすすめ、妄りに人をそしらず。
人に善をすすめ、悪をいましめ、人を教えてうまず。
下部をあわれみ、風雨寒暑に人を苦しめず。
人のしいたげられたるを断り人の恨み憤りをとき、力あらば、道橋を修理して、往来の悩み無からしめ、又は、禽獣蟲魚を妄りに殺さず。草木をも時ならざれば、妄りにきらず。
凡そ、かようの事を陰徳と云う。
是れ、人をあわれみ、物をめぐみて、天道につかえ奉る道なり。
陰徳を行い、久しきをつめば、必ず其のむくいを求めざれども、後日に必ず天道の恵みありて、しばしば禍をのがれ、福寿をまし、其の家をさかんにして、子孫に福あり。
是れ亦、天道の善にさいわいし給う常理にして、古今和漢のしるし多き事、あげて数えがたし。
疑うべからず。
貧賤の人すら、陰徳を行えば、其の報いかくの如し。
況や、一群一郷を領し、或いは、司位高き人は、下をやすんじ、民を養うを以て職分とすること、是れ、天より命じ給う所なり。
常に心を用いて、天意にしたがい、民をあわれみ、困苦を救い、政をおこし、仁をほどこさば、其の功大にして、天道のむくいも亦、限りなかるべし。
富貴の人、多くは陰徳の行うべきことを知らず、勢いに乗じて、下の苦しみをかえり見ず、人のついえを厭はず、わが身ひとつの栄花をきわむれば、陰徳なくして、天地のいかり、人民のうらみ積りて、後は禍出来、子孫にむくうものなり。
天道は、まことに畏るべきかな。
又、陰徳をば、行わずして、鬼神にへつらい祈りて、福をもとめ禍をのがれんとして、無益のことをなし、民をくるしめて、財をついやす。
是れをたのんで、禍を免れんとせば、天地神明の御心にそむきて、かえりて禍あり。
佛家にて、是れを業福と云う。
佛道においても、甚だ嫌う所なり。
佛道よりいわば、佛は慈悲を専らにすといえば、かかる民の苦しみとなることは、佛意にかなうべからず。
故に羅泌か路史と云う書に、佛事さかんなれば、天譴を招くといえり。
いう意は、佛事結構すぎて、過分の財を費やして止まざれば、民のわざはひとなりて、必ず天のせめありといえり。
古も其のためし多し。
梁の武帝、伽藍を多く建て、佛事を盛んにせられし事を達磨に問はれしに、無功徳と答う。
武帝は、ついに臣下のために臺城におしこめられ、餓死せらる。
かかることを以て、佛事さかんに過ぎるは天の譴あり。
又、佛意にもかなわずと云う事を知るべし。
又、報いに遭わんため、福を求めて善を行うは、是れ、利欲の心よりいでたり。
陰徳にあらず。
悪を行うよりまされりといえども、誠の善にあらず。
同じく力を用いる事なるに、誠の心より善を行うべし。
偽りを以てするも、苦労は同じことにて、いたずら事なり。

十九
 人は貴き賤しき、唯、常に仁心を存して、日々に、人に利益あるとこを行うべし。
忿をこらえ、慾をおさえて、日々善行をなすべし。
いかりと慾をこらえざれば、善を行いがたし。
唯、いかりを抑え、慾をこらえる人、善をよく行う。
わが身を利して、人に損ある事を行うべからず。
我が力に従いて、人を救うべし。
仁心をだにたもちなば、日々に善行多かるべし。
少しは財を費やし、少しは心をつかい、少しは隙を費やしても、人の利益になる事を行うべし。
人のために益ある事をせずして、我が身に利ある事のみするは、小人の心なり。
日々善にならえば、善心日々にさかんになる。
善にならえば、日々に楽しみ、悪にならえば日々に苦しむ。
善悪共にならいによれり。
されども悪にはおもむき易し。
故におそるべし。
善には進みがたし。
故につとむべし。

二十
 およそ人、精力を費やす者、時にあたりては、其の損を知らざれども、時ありて盡きぬ。
精力を養う者は、時にあたりては、其の益を見ざれども、時ありてさかんなり。
人の善悪を行うも、亦、かくの如し。
徳をつみ、行いをかさねれば、當時は其の禍を知らざれども、時ありてよに用いられる。
義をすて理にそむくは、當時は其の禍を知らざれども、時ありて亡ぶ。
易に、積善の家には必ず餘慶あり、積不善の家には、必ず餘殃ありといえるは、此の意なり。
善は積みかさねて後に来たるゆえ、善を行う志は怠るべからす。
小善なりとも行うべし。
悪は積もれば必ず禍となる。
故に小悪なりとも行うべからず。
おそるべし。

二十一
 尚書に曰く、天道は善にさいわいし、淫にわざわいす。
又、曰く、善をなせばこれに百の祥をくだし、不善をなせばこれに百の殃をくだす。
又、老子曰く、天道好還。
是れ皆、天道の、善を好み悪を憎み給いて、善人にさいわいし、悪人にわざわいして、善悪の報いをかえし給う理をいえり。
此の理、古今和漢其の證多ければ、必ず疑うべからず。
愚者は此の理を知らで天道をおそれず。
唯、眼前の利をむさぼりて、後のわざわいを知らず。
豈ただ義理にくらきのみならんや。
我が身の禍福損得をもわきまえず。
かなしむべし。
不仁の至りなり。

二十二
 孟子曰く、不仁者はともに言うべからず。
いう心は、不仁者は、道理を教えいさめがたしとなり。
又曰く、其の危うき事をやすんじ、其の滅ぶるゆえんを楽しむ。
いう意は、不仁者は、我が身の危うき事をおそれずして、やすんじ、其の身亡ぶる事を行いて、たのしみとす。
愚かなりと云うべし。

二十三
 孟子曰く、人皆有不忍人之心。
忍とは、こらえるを云う。
いう意は、人のうれい苦しめる事を見ては、わが心かなしみて、怺えがたくして笑止がり、うれいかなしむ。
是れ、人に忍びざるの心なり。
此の心人皆これあり。
儒子の井戸に入らんとするを見て、おどろきかなしむ心是れなり。
此の心をおしひろめ行うは、仁をする道なり。
人の嫌い嫌がる事を此の方よりしかけて、何とも思わずして堪忍し、科なき人をしいたげ苦しめて、何とも思わずして堪忍し、科なき人をしいたげ苦しめて、何とも思わずして堪忍する、是れ皆、人に忍ぶるの心なり。
とにかくに、心つよくして、人の憂いをかなしまざるを云う。
是れ、人の本心にあらず。
憂い苦しみを見て、忍びがたきは、人にかぎらず、鳥獣草木まで、そこない苦しむるに怺えがたきは、卽ち仁心なり、しかるに唯、人に忍びざるの心ありと宣えるは、萬物皆わが一體にして愛すべけれど、中について、人においては同胞なれば、其のあわれみ尤もせつなる故に、とりわき人に忍びざるの心ありとのたまう。
人の憂い苦しみを見ながら、何とも思わで忍ぶは、心つよき人というべし。
其の心強きというは、卽ち人に忍ぶる心なり。
是れ、不仁の別名なり。

二十四
 仁者は、人我のへだてなし。
我が身を立つるを半ばとし、人を立つるを半ばとす。
他人すら隔つ可からず。
況や一家の親戚をや。
況や父母兄弟をや。
此の心をもって人倫に交わらば、人我の私少なくなりて、克伐怨慾の、人を害し、我を利せんとする心、ようやく薄く成りて、仁愛の道行われなん。
人もし此の心において、人我の偏執ふかく、唯、己を利して、人を恵むに心なきは、たとえ無学の人というとも、其の生まれつきたる天性の良智にも、かほどの理は知りぬべければ、など其の本心にそむきて、斯るさがなき事わざをば、しぬるや。
況や学者は、猶其の罪、殊更、重き事にこそあれ。

二十五
 子の曰く、仁遠乎哉、我欲仁斯仁至矣。
仁は、人の心なり。
なんぞ遠きにあらんや。
我に有る故に、このんで求めれば、卽ち得やすし。
是れ、仁至るなり。

二十六
 張子の西の銘の意は、仁人の天につかうまつる道をいえり。
天を父と稱し、地を母と稱し、人は其の恵みによりて生まれる。
天地の氣をとりて、我が身體とし、天地の理をうけて、我が本性とす。
故に人は、天地の子なり。
天下にあらゆる民は、われと同じく天地の子なれば、皆、我が兄弟なれば、尤も愛すべきこと、云うに及ばず。
鳥獣草木などの萬物は、わが類にはあらざれども、同じく天地の氣をうけたれば、我がともがらなり。
是れ又あわれむべし。
妄りにそこなうべからず。
大君は、我が嫡兄の家相なり。
老人を敬うは、わが兄を敬うなり。
幼きを慈しむは、わが弟を愛するなり。
凡そ、天下の病者、かたわ、子なき老人、父なきみなし子、やもめなどの、貧窮にしてたよりなき者は、皆、我が兄弟の内にて、不幸なる人なり。
とりわき憐むべし。
人たる者は、天地につかえて、天下の人は、皆、わが兄弟なる事かくの如し。
故におよそ人となれる者は、天地につかえて、おそれつつしみ、天地の道にしたがい行わずんばあるべからず。
人の子として、親に孝するが如くなるべし。
天理にそむく、悖徳の子の如し。
仁を害するは、天のため賊子なり。
賊子とは、親の仇敵となる子を云う。
天につかえる道を尽くして、天心にかなえる人は、子として舜の如き大孝の人なり。
天災にあいて、難儀に及ぶといえども、つつしみて天命を畏れしたがい、天を怨みざるは、人の子としては、申生か繼母の讒にあいて、父獻公よりころされしかど、父母をうらみざるが如し。
天よりうけたる所の五常の性を、全くたもち行いて缺かざるは、たとえば曾子の父母にうけたる身體を毀い傷らざるが如し。
天より我を富貴にし給うは、父母の我を愛するが如し。
天恩をよろこんで忘るべからず。
天より我を貧賤にして憂いあらしむるは、天の我を悪み給うにはあらず、我が身に艱難を見せしめて、我が徳行を成就せしめん爲なれば、天を怨むべからず。
親に事ふる孝子は、其の身生ける間は、親にそむかず、したがい事ふ。
死ぬれば心安んじて、親に恥づる事なきが如く、天につかえる人も、生ける間は、天道に従いてつかえ奉るが、人となれる道なり。
死ぬれば心安くして、天に恥づる所なかるべし。
是れいわゆる、朝に道をきいて、夕べに死すとも可なりの意なり。
凡そ、西銘の意は、はじめより半ばまで、人は天の子にして、天地萬物、皆、我が一體なることを説けり。
半ばより後は、天地につかえて仁を行う道をいえり。
尤もよく見て、其の理を自得すべし。

二十七
 同じ事を、重ねてしばしばいう事、老いのくりことの様にて、見聞く人、厭ひ嫌い給うべけれど、仁の理、いたりて大なれば、我が愚にして、一たびに、たやすく理のきこえる程説きがたければ、如何にもして、比書を見る人に、古人のいたれる教えをさとらしめんために、愚忠をつくして、かえすがえす言うのみ。

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