二宮翁夜話 第四章
第四章 循環輪廻の巻
二十二 運は天道にして四世の因果なり
翁曰く、世人運という事に心得違いあり。
譬えば柿梨子などを籠より打ち明るく時は、自然と上になるあり、下になるあり、上を向くあり。
此の如きを運と思えり。
運という物、此の如き物ならば頼むにたらず。
如何とならば、人事を盡してなるにあらずして、偶然となるなれば、再び入れ直して明ける時はみな前と違うべし。
是れ博奕の類にして運とは異なり。
夫れ運というは、運転の運にして、いわゆる廻り合わせという物なり。
夫れ運転は世界の運転に基元して、天地に定規かるが故に、積善の家に余慶あり。
積不善の家に余殃あり。
幾たび旋転するも、此の定規に外れずして、廻り合わするを云うなり。
能く世の中にある事なり。
挑燈の火消えたるために、禍を免れ、又、履物の緒の切れたるが為に、災害を逸れる等の事、これ偶然にあらず眞の運なり。
佛に云う處の、因応の道理則ち是れなり。
儒道に積善の家余慶あり。
積不善の家余殃あるは天地間の定規、古今に貫きたる格言なれども、佛理によらざれば判然せざるなり。
夫れ佛に三世の説あり。
此の理は、三世を觀通させざれば、決して疑いなき事あたわず。
疑いの甚だしき、天を怨み人を恨むに至る。
三世を觀通すれば、此の疑いなし。
雲霧晴れて、晴天を見るが如く、皆、事業自得なる事をしる。
故に佛教三世因縁を説く。
是れ儒の及ばざる處なり。
今爰に一本の草あり。
現在若草なり、其の過去を悟れば種なり。
其の未来を悟れば花咲き實法りなり。
茎高く延びたるは肥多き因縁なり。
茎の短きは肥のなき応報なり。
其の理、三世をみる時は明白なり。
而して世人此の因果応報の理を、佛説と云えり。
是れは書物上の論なり。
是れを我が流儀の不書の經に見る時は、釋氏未だ此の世に生まれざる昔より行われし天地間の眞理なり。
不書の經とは、予が歌に「聲もなく常に天地は書かざる經を繰り返しつつ」と云える、四時行われ、百物成る處の眞理を云う。
此の經を見るには、肉眼を閉じ、心眼を開きて見るべし、然らざれば見えず。
肉眼に見えざるには、あらねども徹底せざるを云うなり。
夫れ因報の理は、米を蒔けば米が生え、瓜の蔓に茄子のならざるの理なり。
此の理天地開闢より行われて、今日に至って違わず。皇國のみ然るにあらず。
萬國皆然り。
されば天地の眞理なる事、辯を待たずして明らかなり。
【本義】
【註解】
二十三 四世因果の輪廻現象を説く
翁曰く、佛説面白し。
今近く譬えを取って云わば、豆の前世は艸なり、艸の前世は豆らりと云うが如し。
故に豆粒に向えば、汝は元艸の化身なるぞ、疑わしく思わば汝が過去を説いて開かせん。
汝が前世は艸にして、某の國某の村某が畑に生まれて、雨風を凌ぎ炎暑を厭い艸に覆われ、兄弟を間引かれ、辛苦患難を經て、豆粒となりたる汝なるぞ。
此の畑主の大恩を忘れず、又、此の草の恩を能く思いて、早く此の豆粒の世を捨て元の艸となり、繁茂せん事を願へ。
此の豆粒の世は、仮りの宿りぞ。
未来の艸の世こそ大事なれと云うが如し。
又、艸に向えば汝が前世は種なるぞ。
此の大恩に依って、今艸と生まれ、枝を發し葉を出し肥を吸い霧を受け、花を開くに至れり。
此の恩を忘れず、早く未来の種を願へ。
此の世は苦の世界にして、風雨寒暑の患いあり。
早く未来の種となり、風雨寒暑を知らず、水火の患いもなき土藏の中に、住する身となれと云うが如し。
予佛道を知らずといえ共、大凡此の如くなるべし。
而して世界の百艸、種になれば生ずる萌しあり、生れば育つ萌しあり、育てば花咲く萌しあり、花咲けば實を結ぶ萌しあり、實を結べば落ちる萌しあり、落ちれば又生ずる萌しあり。
是れを不止不転循環の理と云う。
【本義】
【註解】
二十四 輪廻循環は無常即ち有常なり
翁曰く、夫れ此の世界咲花は必ず散る。
散るといえ共、又、来る春は、必ず花咲く。
春生ずる草は必ず秋風に枯れる。
枯れるといえ共、又、春風に逢えば必ず生ず。
萬物、皆、然り。
然れば無常と云うも無常に非ず、有常と云うも有常に非ず。
種と見る間に草に変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に實となり、實と見る間に元の種となる。
然れば種と成りたるが本来か、草と成りたるが本来か、是れを佛に不止不転の理と云い、儒に循環の理と云う。
萬物皆この道理に外れる事はあらず。
【本義】
【註解】
二十五 善因善果は、必然の輪廻なり
翁曰く、善因に善果あり。
悪因に悪果を結ぶ事は、皆、人の知る處なれども、目前に萌して目前に顕れる物なれば、人々能く恐れ能く謹みて、善種を植え悪種を除くべきなれども、如何せん、今日蒔く種の結果は、目前に萌さずして、十年廿年乃至四十年五十年の後に現れる物なるが故に、人々迷うて懼れず。
歎かわしき事ならずや。
其の上に、又、前世の宿縁あり、如何ともすべからず。
是れ、世の人の迷いの元根なり。
然れども世の中萬般の事物、元因あらざるは無く、結果あらざるは無し。
一國の治乱、一家の興廃、一身の禍福、皆、然り。
恐れ愼むで迷う事勿れ。
【本義】
【註解】
二十六 地獄極楽の有無を諭す
或る人間いう、地獄極楽と云う物實にありや。
翁曰く、佛者は有りといえども、取り出して人に示す事は出来ず、儒者は無しといえども、又、往きて見きわめたるにはあらず。
ありと云うも、なしと云うも、共に空論のみ。
然りといえども人の死後に生前の果報は無くて叶わざる道理なり。
儒者の無しと云うは、三世を説かざるに依る。
佛者は三世を説くなり。
一つは説かず、一つは説くも、三世は必ずあり。
されば地獄極楽なしと云うべからず。
見る事ならざればとて、なしと極むべからず。
扨て地獄極楽ははありといえども、念佛宗にては、念佛を唱える者は極楽へ行、唱えざるは者は、地獄へ落ちると。
法華宗にては、妙法を唱える者は浮かみ、唱えざる者は沈むと。
又、甚だしきは、寺へ金穀を納める者は極楽へ行、納めざる者は地獄におつと。
斯の如き道理は決してあるべからず。
夫れ、元と地獄は悪事をなしたる者の、死してやられる處、極楽は、善事をなしたる者の、死して行く處なる事疑いなし。
夫れ地獄極楽は勧善懲悪の為にある物にして、宗旨の信不信の為にもある物にあらざる事明らかなり。
迷うべからず、疑うべからず。
【本義】
【註解】
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