五常訓 巻之四 禮


 禮は、心につつしみありて、人を敬うを本とし、萬事を行うに、則にしたがいて、正しく理あるを文とす。
則とは、作法なり。
孝経に、禮敬而已矣。
云う意は、禮は敬を専らとす。
而已とは、此の外には無しと云う詞なり。
朱子曰く、禮の本は在干敬人。
人を敬うは、心のつつしみより起こる。
人を敬うも、其の人をあわれむ心より出づる故、朱子も、禮は、仁のあらわれたる也といえり。
禮記曰く、禮は理也。
周子曰く、理を曰ふ禮と、理は筋目なり。
筋目とは、萬事を行うに、各々正しき則ありて、其の則に違わざるは、即ち理なり。
理にしたがえば、萬事正しくして治る。
理にしたがわざれば、萬事邪にして、乱れて行われず。
朱子曰く、禮は天理の節文、人事の儀則なり。
天理は自然に定まりて、かくの如くなるべき道なり。
節文は、過不及なき良き程なるを云う。
節は、過ぎざるなり。
文は、不及なきなり。
敬い過ごすは、節にあらず。
敬い足らざるは、文にあらず。
飾り過ぎるは、節にあらず。
賤しくしてふつつかなるは、文にあらず。
是れ皆、理にたがいて禮にあらず。
萬事の節文、皆かくの如し。
人事の儀則とは、人の行う技の、行儀にあらわれたる作法なり。
視る・聴く・言う・動くの四つの身のわざも、萬事の制行も、よきほどなる自然の法あり。
是れ人事の儀則なり。
中庸には、親親之殺、尊賢之等、禮所生也といえり。
云う意は、親類を親しむは、仁なり。
其の内に、父子、兄弟、諸父、従兄弟などの品あり。
其の親疎尊卑の次第同じからざる、是れ之を親しむ之を殺す也。
賢を尊ぶは義なり。
人に大賢あり、才能ある人あり、舊識恩德ある人あり。
其の内に、大小高下の品あり。
是れ、尊ぶ賢之等なり。
親類の品に応じて親しみ、大賢小賢の品によりて敬うは、是れ即ち禮の生ずる所なり。
しかれば、禮は仁義を行うに、各々其の品にしたがいて、程よきをいえり。


 威儀をつつしみ、衣冠を正しくし、視ること、聴くこと、言うこと、動くことの四事につきて、各々過不及なく、よき程の法あり。
又、親につかえ、君につかえるに、各々定まれる法あり。
兄弟、夫婦に對し、賓客にはじまり、臣下に對し、民をつかい、先祖鬼神をまつる法あり。
是れ、禮は、皆、天理のよき程なる節文にして、人事の定まれる作法なり。
仁義皆理なりといえども、とりわき禮を理といえるに子細あり。
理とは、行うべき筋目なり。
萬事を行うに、皆、定まりたる作法あり。
是れ、人の行うべき筋目なり。
是れ、即ち、禮なり。
ここを以て、聖人の説き給える禮の字は、理の字にあたれり。
されども理といわずして禮といえるに、子細あり。
理といえば形と事にあらわれたる迹たくして、虚なり。
故に、取り守りし難し。
禮は理の品節文章とて、人のわざに品々あり。
よき程ありて、其の理あらわれ見え、形をなして實なり。
故に取り守るべし。
是れを以ての故に、禮といいて、理といい給わず。
釋名に曰く、禮は體也、言う得るを事之體を也。
此の意は、體とは、形なり。
禮は、心に本づけども、あらわれる所は、事の上に見えたる形を云う。
人の行儀作法の正しく、三千三百のわざにあらわれて、法の正しきが禮なり。
是れ皆、形ありて、目に見える所なれば、體なりと云う。
事にあらわれずして、形なくんば、體にあらず。
然れども、又、形の上にかかわりて、心上に誠敬なくば、文のみにて本なし。
體にあらず。
唯、敬を本として、外に行うに文あるは、禮なり。


 人に血氣あり。
身に耳目口體の欲あり。
心に、喜怒哀楽の情あり。
もし體を以てこれを節せざれば、人欲にしたがい、天理をうしないて、人事乱れ、人道すたる。
ここを以て、聖人禮を以て教えとし、彼の血氣よりおこる情欲をふせぎたまう。


 曲體に曰く、毋れ不敬。
凡そ、人事の視る聴く言動より出る處、萬事敬しまざる事なかるべし。
敬とは、心に道に違わん事をおそれて、恣ならざるを云う。
是れ、心を保ち、身をおさめ、事を行うの則なり。
是れ、禮の本なり。
古より、聖人賢人の心法は、敬を以て要とし給う。
凡そ、身の行儀作法なく、道を失い、禍おこるも、皆、敬まざるによれり、古語にも敬めば、禍に勝といえり。
つつしめば、禍なし。
白楽天が言に、福與禍在乎愼與不愼といえり。


 凡そ、禮あるを以て人とす。
若し、禮なければ、人の法すたり、鳥獣に同じくなりて、人道たたず。
禮なきの至りをいわば、父に会って怒り詈り、母に帚をとられて、立ちて綷語し、君の過悪をそしりあらわし、兄と財を争い奪い、東家のかきを越えて、處女をひくの類、皆是れ、禽獣の行いなり。
人倫の法にあらず。


 禮の初めは、聖人の、心になき事を作り出して、教え給うにあらず。
生まれつきたる人情に本づきて、過不及なきよき程なる理を教え給うなり。
人の身に、飢渇内に生じ寒暖外にふれる故、飲食衣服せざる事あたわず。
飲食をよき程にし、衣服を正しくするは禮なり。
飢え餓えするとて、妄りに多く飲み食い、人に譲りなく、爭い食うは、禽獣の行いなり。
わが身に應ぜざる衣服を着るは、上をおかし、下にせまり、或はみだりなる服食を用いれば、身に相應せず。
又、男女の色も、心に任せぬれば、淫亂に至るゆえに、夫婦の別、男女の間を正しくす。
君臣、父子、凡そ、人倫の交わりも、其の理にかないて、よき程に愛し敬う法あり。
これ皆、禮なり。
禮なければ、君臣、上下、尊卑、貴賤、長幼、男女のわかちなく、師弟子、朋友、賓客のまじわり薄し。
葬祭の禮なければ、死を送り神に仕えるの道なし。
故に禮は、聖人、人情に本づきて、教えを立て給う。
人の身、禮あれば安く、禮なければ危うし。
人の身に、さしあたり用ゆべき事、是れより急なるは無し。
故に古語に、禮は人之急なりといえる。
誠なるかな。
人たる者、禮を行わずんばあるべからず。


 禮義三百、威儀三千とて、およそ人の行うべき大禮三百條、小禮三千條あり。
是れは其の大槩をあげていえり。
必ず三百三千に限るべからず。
皆是れ、つつしみ敬う心より出で、天理の程よき所にして、人事のしかるべき作法なり。
つつしみ敬う心は、禮の本なり。
三百三千の品は、禮の文なり。
文とは、外のあやなり。
本なければ禮たたず。
文なければ禮行われず。
故に禮は、本をおもんず。文も亦、そなわらずんばあるべからず。


 君子は、耳に非禮の音楽淫聲をきかず。
目に非禮の事をいわず。
身に非禮のうごきをなさず。
飲食を愼み、節にして過ごさず。
皆是れ、禮の制する所なり。


 口の過ちなきより、身の過ちなきは難く、身の過ちなきより、心の過ちなき事は難し。
三つのもの、ともに禮を以て正さずんばあるべからず。


 威儀を正しくすとは、身の形儀をつつしむなり。
是れ禮のおもんずる處なり。
外の行儀みだりなれば、内心も共に不敬になる。
敬は心にあるのみならず、内外ともに正しくすべし。
坐する時、立つ時、行く時、臥せる時、皆、禮ありて怠るべからず。
耳をかたむけて、人の密事をきく事なかれ。
ながしめに人を見る事なかれ。
甚だ労するにあらずんば、我が家にありても、怠りてみだりに臥す事なかれ。
立つにかたし立すべからず。
坐して兩足をのぶべからず。
かたぬぐ事なかれ。
人の密事をうかがわず。
たわぶれの顔色をすべからず。

十一
 朝は早く起きて、事をつとむべし。
古語に、一日の計画は朝にありといえり。
朝よりおこたれば、一日のつとめ捗ゆかず。
故に朝おくる事の遅速を見て、其の人の家の、興ると衰えるとを知るべしと、古人いえり。
夜も学問家業をつとむべし。
夜氣は静かなる故、事巧はかゆくものなり。
つとめて止まず、君子の人にまさるゆえんなり。
おこたりて務めず、衆人の君子に及ばざるゆえんなり。
士のみならず、農工商も同じ。
よくつとめて、怠らざるは、必ず家をおこす。
或人うたがう、君子この如くに、つとに起き、夜半にいねて、おこたらずんば、おそらくは精力つかれて、養生の道にあらじと云う。
答えて曰く、しからず。
禮記に曰く、君子莊敬なれば日につよく、安肆なれば日におこたる。
いう意は、行い正しく、つつしみありて勤めれば、精力日々につよくなる。
是れ、血氣めぐりて、陽氣発生する故、病生ぜず。
身を安く、わがままにして、つとめざれば、日々に怠りて、弱くなる。
是れ、血氣ふさがりて滞り、元気めぐらずして養生の道にたがえばなり。

十二
 禮記云う、禮樂不可斯須去身。
君子の道、禮樂の二つを以て、身をおさめ、人を教える。
禮は心の恭敬を本として、萬事身の行いの上に節文あるを云う。
樂とは、心の和樂を本として、昔聖人の作りたまえる歌舞八音の音樂の文あるを云う。
音樂は心の和をみちびくそなえなり。
後代の淫樂の心をとらかすとは、大に同じからず。
禮を以て身をつつしみ修め、樂を以て心を和らげ樂しむ。
此の二つの事、しばらくも身を離すべからずとなり。
是れ、古の教えの法なり。
後代には、禮樂の教え傳わらず。
されど、心のつつしみと樂しみとは、今とても、しばらく忘れるべからず。
つつしみ樂しみの二つは、互いにならび行われて、相そむかざるべし。
禮勝てば、かた過ぎて人と我との間和せず。
樂勝てば、和らか過ぎて禮義を失いて、悪しき方にながる。
禮樂二つながらそなわりて、よき程の中道行わる。
故に論語に、禮の用は和を貴しとすと云う。
又曰く、有所不行、禮以て節すと云う。
是れ、禮樂の二つを以て、身を修め、事を行う、よき程の道あるを云う。

十三
 聖人禮樂を作りて、人に教えたまうは、本なき事を出だしたまうにあらず。
凡そ禮は天地の序でなり。
序でとは、次第あるを云う。
陰陽の氣、時節にしたがいて次第あるは、天地の禮なり。
楽は天地の和とにもとづきて、禮楽を作り給う。
故に禮記に曰く、天高く地下く、萬物散殊して、而禮制行矣。
流れて而不息、合同し而楽興る焉。
是れは禮楽の根源をいえり。
禮の本源をいえば、天高く地ひくくして、各々位あり。日月星辰より、風雨霜雪、草木禽獣等の萬物にいたるまで、各々其の形色をあらわし、各々其の分限かわり、各々時節の序であり。
是れ天地萬物の上に、自然に、各々高下、次第、品節わかれたり。
即ち是れ天地の禮なり。
聖人これに法とりて、禮を作り給り。
禮は序でを以て主とすればなり。
序であれば、上下、貴賤、親疎、長幼の位正しくして乱れず。
楽の本源をいわば、天地の間、陰陽五行の氣、古今四時にめぐり行われて、しばらく止まず。
其の氣和合して、萬物化生す。
是れ即ち天地の楽なり。
聖人これに法とりて、楽を作り給う。
楽は和を主とす。
和げば、人我一同にしてそむかず。
道理にしたがいて萬事行わる。
是れ禮楽の根源なり。
凡そ聖人の教えは、皆是れ天地の道を本とし、これを法として示し給う。
天理の外に、別の教えなし。
ここを以て、程子も、儒者は天に本づくといえり。
聖人の道は、即ち天地の道なり。
聖人の教えは、即ち天地の教えなり。

十四
 君子は天地をおそれうやまう。
故に大風、大雨、迅雷などの時は、容をあらためて、夜は起きて衣服を著て坐す。
是れ天のいかりを敬う禮なり。
是れ亦天につかえまつるの道の一端なり。

十五
 少儀に曰く、虚しさを執れども盈るをとるが如く、虚しきに入れども人あるが如くにす。
いう意は、内に物なき器をとるにも、盈ちてこぼれやすき器をとるが如く、おそれつつしむべし。
人の居らざる家に入るにも、人あるが如くつつしむべし。
是れは敬の心常にあるを云う。
禮の本なり。

十六
 衣服は人の表なり。
人にまじわるに、先づかたちを見る。
次に言を聞き、次に行いを見る。
故に孝経孟子などに、衣服と言語と徳行をつらぬるに、衣服を先にせり。
衣服は、形を覆う表の飾りなれば、選ぶべし。
我が位に応じ、処に応じ、時に応ずるべし。
紫・萌葱・紅などの間色は、禁じて着るべからず。
又、大なる絵かた、大なる縞、目にたつ染物おり物などは、ひなびて賤しい。
好むべからず。
我が年よりくすみ過ぎたるは、おいらかにして目に立たず。
みやびやかにして、若きも老いたるも、身によく相応して似合えり。
凡そ、衣服の模様にても、人の邪正は、おしはかれるものなれば、選ぶべし。

十七
 飲食は、身を養うものなり。
然るに、飲食を恣にして、かえりて、身を損なうは、禮なければなり。
飲食のつつしみは、禮を以て慾を制するにあり。
飲食の禮多し。
中について放飯流歠をいましむべし。
放飯とは、ほしいままに、飯を多く食うなり。
飯に限らず、一切の食を多く食うは、放にして非禮なり。
ことに飯を多く食うは、見ぐるしく、腸胃をそこなう。
流歠とは、ながれるが如くに、あつもの、酒など多く飲むを云う。
此二つは、とりわき戒むべし。
凡そ、禮のはじめは、飲食にはじまると、禮記にいえり。
禮なければ、飲食を放にして、見ぐるしく、禽獣の行に近し。
ここを以て、飲食の節をつつしむは、禮の始めなり。
孟子にも、飲食の人は、即ち人これをいやしむ。
其の小を養いて、以て大を失うが為なりといえり。

十八
 禮は、未発にいましむ。
人の情慾の、いまだ起こらざる先に、早く戒むれば、邪悪にいたらず。
故に禮の教えは、目に見えぬ所に、大に益ありて、日々に善にうつり、罪に遠ざかりて、自ら知らず。
是れ、禮の尊ぶべき所なり。
法は既に悪事いで来て、後に禁ず。
其のしるし目に見えて、其の益少しなり。
男女の別ありて、禮法正しければ、淫乱にいたらず。
凡そ、淫乱は、必ず、初めに禮法なきよりおこる。
若き子弟のともがら、早く禮を教え、内外の別きびしければ、かかる悪事におもむかず。
朋友の交わり、禮ありて敬えば諍闘に至らず。
凡そ、闘諍は、必ず、無禮よりおこる。
君は臣をつかうに禮あれば、そむき離れるにいたらず。
禮の、人に益あること、かくの如し。
故に禮の教えは、本なり。
法のいましめは末なり。
たとえば、無病の時、身をつつしめば、病起こらず。
病起こりて、薬を飲み、灸をするは、末なり。
邵子の詩に、病後能く薬を服せんより、病前よく自ら防がんにはしかじと云えるが如し。
又、人家に、火災出来たる時、力をつくして防がんよりは、兼て火の用心きびしければ、火災なきが如し。

十九
 禮記に、子曰く、敬いて禮にあたらざる、これを野と云う。
敬うは誠によけれど、禮にかなわざれば、これ野きなり。
敬に良き程の法あり。
過不及ありて、其の法にかなわざるは、是れ禮にあたらざるなり。
況や、おごりて理にかなわざるは、ことに禮にそむけり。
野きより、其の害甚だし。

二十
 飲食と、男女と、財宝とは、人の大欲の生ずる處なり。
故におよそ人の過悪の出来るは、多くは、此の三つよりおこる。
心の好むに打ち任せては、危うし。
道理にそむき、わざわい生ずる本なり。
此の三つを好むのは、人情にして、無くんばあるべからず。
されど禮を以て節せざれば、これを、用いる理を失いて、必ず大慾生じ、悪にながる。
故に禮なければ、人道不立して、禽獣の行いに同じ。

二十一
 周子、陰陽は、理あって後に和ぐといえり。
二気の流行正しければ、四時の和行わる。
人の道も亦、同じ。
禮、正しく、次第みだれざれば、各其の理を得て、和順行わり。
故に曰く、禮者天地之序也、樂者天地之和也。
禮は、先にして、樂は後なり。
人倫の交わり、先禮法正しく、次第乱れざれば、人と我と和合す。
君臣、父子、夫婦、兄弟の間、其の禮正しければ、おのずから和順なり。
若し禮なくして、臣下の疎きが親しきを越え、賤しきが貴くきを越え、庶子が嫡子を越え、妾は妻を越えて、次第乱れれば、必ずうらみそむきて、和合せず。
朋友の交わりも、禮正しければ、和睦して、あらそい無くうらみ無し。
又、喧嘩口論などすることも、皆無禮よりおこる。
若し禮儀正しくば、和順行われて、闘い何ぞおこらんや。
故に人の闘諍を止めるの道も、禮を正しくするにあり。

二十二
 朱子曰く、禮は即ち理の節文なり。
いう意は、萬の行い、道理にかないて、過不及なく、程よきを云う。
飲食の一事をいわば、飢え乾く時に飲み食うは理なり。
されども、飲み食うべき理なりとて、みだりに多く飲み食へば、放逸にして、みだりがわしく、又、必ず病を生ず。
飲み食うべき理にあたりて、過不及なく、よき程なるが、理の節文なり。
萬の事、是れを以て知るべし。

二十三
 林放と云いし人、世上の禮を行う者、かざり多く、ことわざしげくして、末をもっぱら務めるを、禮の本意にあらじと思いて、禮の本を孔子に問う。
凡そ、萬の事、先づ其の本を得れば、其の末自ずから出来るものなり。
例えば、樹木の根本堅固なれば、千枝萬葉皆これより出るが如し。
本を失いて、末のみを努めれば、其の實を失う。
故に其のつとめる事しげくして、其のなす技小なり。
しかるに、時の人の迷えるを悟り。
禮の本に志しあるを大なる問いなりとて、先づほめ給う。
さて答えてのたまう意は、萬の禮は、中を得るを貴ぶ。
中は過不及なきなり。
是れ禮の当然にて、至極せる道理なり。
されども中に行う事ならずば、其の本をつとむべし。
萬の事かざりのみにて、外の儀文華美にしておごらんよりは、唯ねがわくは、倹を行うべし。
倹とは、其の心眞實にして、かざり偽り無きを云う。
是れ禮の本なり。
此如く倹にして眞實にかざり無ければ、本たちて、末自ずから生ず。
又、禮の内にて、取りわき父母兄弟などの死せる時、喪に居るは、尤もせつなる時にて、つつしんで心を用うべき事なり。
喪に居るに、其の死をいたみ哀しむは、喪の禮の本なり。
しかるに外の飾りさかんにして、作法はそなわれども、心に哀しみの誠なきは、是れ本なきなり。
かく有らんより、唯いたみ哀しみあつくして、外の法はおろそかならんこそ優るべけれ。
凡そ、禮は、先づ心の誠實なるを本とすれば、本なくして、末のみ修らんより、しがじ、本立ちて末おろそかなるには。
是れ、本末備わらずして、偏なれども、外のかざりのみ多くして、内心に本とすべき誠なきには、遥かにまされり。
本立てば末は是れより出づる理なり。
末のみ修りて、本なきは、誠なくして、禮の道たたず。
喪の禮は、ことさら眞實ならでは行われざるものなれば、既に禮の本を説きて、又、其の内より、喪の禮の本をかかげ、出だし説き給う。

二十四
 禮器に云う、先王の禮を立つる、本あり、文あり。
忠信は、禮の本なり。
義理は、禮の文なり。
本無ければ立たず。
文なければ、行われず。
いう心は、禮に本あり。
忠信を本とす。
忠信はまことなり。
禮に文あり。
義理を文とす。
義理とは、外に行う處のあらわれたるしわざの、すじめよきを云う。
本なければ禮の道立たず。
萬の事、皆、誠より出づ。
誠なければ物なし。
されど又外のわざ、理にかなわざれば、文無くして、禮の道行われず。
必ず本末二つながら備わりて、禮の道全し。
されど先づ本をつとめるを要とすべし。
忠信を本として、禮文行われるは、たとえば、味甘き物は、五味の和を受け、色白きものは、五色の采を受けるがごとし。
忠信ある人は、禮を学ぶべし。
質よき故に、外の禮文備わり易し。

二十五
 禮は、中を得るを尊ぶ。、中とは、過不及なきを云う。
管仲晏子此両人、皆才力すぐれたり、しかれども、聖人の道を知らず。
管仲は、身上よりおごりて、禮を失い、晏子は、倹約に過ぎて、禮を失う。
今の人、倹約なれば、吝嗇にして、なすべき禮法をも行わず。
是れを下に偪ると云う。
下にせまるとは、わが身上より下なる人の行いをするを云う。
奢れば法制にそむきて、禮を失う。
是れを上を僭すと云う。
上を僭すとは、わが身上の分に過ぎて、上なる人の振る舞いをするを云う。
故に禮は、過不及なき工夫をなすべし。

二十六
 禮は、謙遜をたっとぶ。
謙はへりくだる也。
ほこると裏表なり。
ほこるは、我が才力權位功名にほこるの類なり。
謙は自満せざるを云う。
我が身に才徳權位功業あれども、ほこらず。
是れ天下の美徳なり。
遜は、譲るなり。
善事を君父にゆずり、人にゆずりて、自ら居らざるを云う。

二十七
 禮記に、禮至れば、争わずといえり。
争いは、君子の道にあらず。
禮あれば、争いなし。
如何となれば、禮は、讓を尊ぶ。
讓は争いの裏なり。
夫子も、君子は、争うところ無しとのたまえり。
争うとは、人に対して、わが才能、威勢、智力、權位、財利をあらそうの類なり。
我に有る力を以てあらそうは、たとえば鳥獣の、牙を以てし、爪を以てし、角を以て争うが如し。
人倫の法にあらず。
是れ皆、小人のわざなり。
禮讓の道にあらず。
且つ又、禍をとるの道なり。


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