二宮翁夜話 第一章
第一章 天地神國の巻
一 萬物は皆、天の分身なり
翁曰く、世界、人は勿論、鳥獣虫魚草木に至るまで、凡そ天地の間に生々する物は、皆、てんの分身と云うべし。
何となれば孑孑にても蜉蝣にても、天地造化の力をからずして、人力を以て生育せしむる事は、出来ざればなり。
而して人は其の長たり故に萬物の霊と云う。
其の長たるの證は、禽獣虫魚草木を、我が勝手に支配し、生殺しても何方よりも咎めなし。
人の威力は広大なり。
されども本来は、人と禽獣草木と何ぞ分たん。
皆、天の分身なるが故に、佛道にては、悉皆成佛と説けり。
我が國は、神國なり、悉皆成神と云うべし。
然るを世の人、生きて居る時は人にして、死して佛なるべし。
生きて人にして、死して佛となる理あるべからず。
生きて鯖の魚が鰹節となるの理なし。
林にある時は松にして伐って杉となる木なし。
されば生前佛にて、死して佛と成り、生前神にして、死して神なり。
世に人の死せしを祭って、神とするあり。
是れ又、生前神なるが故に神となるなり。
此の理、明白にあらずや。
神と云い、佛と云い名は異なりといえども実は同じ。
國異なるが故に名異なるのみ。
予此の心をよめる歌に「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」「世の中は草木もともに生如来死して命の有かをぞしれ」呵々
【本義】
【註解】
二 萬物相の理を明かにす
翁曰く、凡そ萬物一つにては、相續は出来ぬ物なり。
夫れ父母なくして生ずる物は草木なり。
草木は空中に半分幹枝を發し、地中に半分根を挿して生育すればなり。
地を離れて相續する物は、男女二つを結び合わせて倫をなす。
則ち網の目の如し。
夫れ網は糸二筋を寄せては結び合わせて、相續する物なり。
只だ人のみならず、動物皆然り。
地を離れて相續する物は、一粒の種、二つに割れ、其の中より芽を生ず。
一粒の内陰陽あるが如し。
且つ天の火氣を受け、地の水氣を得て、地に根をさし、空に枝葉を發し、て生育す。
則ち天地を父母とするなり。
世人草木の地中に根をさして、空中に育する事をば知るといえども、空中に枝葉を發して、土中に根を育する事を知らず、空中に枝葉を發するも、土中に根を張るも一理ならずや。
【本義】
【註解】
三 陰陽の道理を明かにす
翁曰く、凡そ世の中は陰々と重なりても立たず、陽々と重なるも又同じ。
陰陽々々と並び行われるを定則とす。
譬えば寒暑昼夜水火男女あるが如し。
人の歩行も右一歩左一歩、尺蠖蟲も、屈みては伸び、屈みては伸び、蛇も左へ曲がり右に曲がり、此の如くに行くなり。疊の表や筵の如きも、下へ入っては上に出で、上に出ては下に入り、麻布の麁きも、羽二重の細かなるも皆同じ。
天理なるが故なり。
【本義】
【註解】
四 天照大神と太陽の大徳
翁曰く、佛書に、光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨といえり。
光明とは太陽の光を云う。
十方とは東西南北乾坤巽艮の八方に、天地を加えて十方と云うなり。
念佛衆生とは、此の太陽の徳を念じ慕う、一切の生物を云う。
夫れ天地間に生育する物、有情蠢動の物は勿論、無情の草木と雖、皆太陽の徳を慕いて、生々を念とす。
此の念ある物を佛國故に念佛衆生と云うなり。
神國にては念神衆生と読むべし。
故に此の念ある者は洩らさず、生育を遂げさせて捨て玉はずと云う事にて、太陽の大徳を述べし物なり。
則ち我が天照大神の事なり。
此の如く太陽の徳は、廣大なりといえども、芽を出さんとする念慮、育てんとする氣力なき物は仕方なし。
芽を出さんとする念慮、育たんとする生氣ある物なれば、皆是れを芽だたせ、育たせ給う。
是れ、太陽の大徳なり。
夫れ我が無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象りて、立てたるなり。
故に如何なる大借といえ共、人情を失わず利足を滞りなく済まし居る者、又、是非とも皆済して他に損失を掛けじと云う
念慮ある者は、譬えば、芽を出したい、育ちたいと云う生氣ある草木に同じければ、此の無利子金を貸して引立つべし。
無利子の金といえども、人情なく利子も済まさず、元金をも踏み倒さんとする者は、既に生氣なき草木に同じ、所謂縁無き衆生なり。
之を如何ともすべからず。
捨て置くの外に道なきなり。
【本義】
【註解】
五 神道は皇國本源の道なり
翁曰く、夫れ神道は、開闢の大道、皇國本源の道なり。
豊葦原を此の如き、瑞穂の國安國と治めたまいし大道なり。
此の開國の道、則ち眞の神道なり。
我が神道盛んに行れてより後にこそ、儒道も佛道も入り来れるはれ。
我が神道開闢の道未だ盛んならざるの前に儒佛の道の入り来るべき道理あるべからず。
我が神道則ち開闢の大道先づ行われ、十分に事足るに随いてより後、世上に六かしき事も出来るなり。
其の時こそ、儒も入用、佛も入用なれ。
是れ誠に疑いなき道理なり。
譬ば未だ嫁のなき時に夫婦喧嘩あるべからず。
未だ子幼少なるに、親子喧嘩あるべからず。
嫁有って後に夫婦喧嘩あり、子成長して後に親子喧嘩あるなり。
此の時に至ってこそ、五倫五常も悟道治心も、入用となるなれ。
然るを世人此の道理に暗く、治國治心の道を以て本元の道とす。
是れ大なる誤りなり。
夫れ、本元の道は開闢の道なる事明らかなり。
予此の迷いを醒まさん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり。
能く味わうべし。
大御神の足跡のある處、眞の神道なり。
世に神道と云うものは、神主の道にして、神の道にあらず。
甚だしきに至っては、巫祝の輩は、神礼を配りて米錢を乞ふ者をも神道者と云うに至れり。
神道と云う者、豈此の如く卑き物ならんや。
能く思うべし。
【本義】
【註解】
六 眞の神道は天照大神の大道を行ふにあり
綾部の城主九鬼候、御所藏の神道の書物十巻、是れを見よとて翁に送らる。
翁暇なきを以て、封を解き玉はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此の書を開き病床にて読ましめらる。
翁曰く、此の書の如きは皆、神に仕える者の道にして、神の道にあらざるなり。
此の書の類萬巻あるも、國家の用をなさず。
夫れ神道と云う物、國家の為、今日上、用なき物ならんや。
中庸にも、道はしばらくも離れるべからず、離れるべきは道にあらずと云えり。
世上道を説ける書籍、大凡此の類なり。
此の類の書あるも益なく、無きも損なきなり。
予が歌に「古道に積もる木の葉を掻き分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり。
古道とは皇國固有の大道を云う。
積もる木の葉とは儒佛を始め諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋われて見えぬなれば、是れを見んとするには此の木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと尋ねざれば、眞の神道を見る事は出来ざるなり。
汝等落積りたる木の葉に目を付くるは、大なる間違いなり。
落積りたる木の葉を掻き分け捨て、大道を得る事を勤めよ。
然らざれば、眞の大道は、決して得る事はならぬなり。
【本義】
【註解】
七 現時の神道者を嘆く
或は曰く、惠心僧都の傳記に曰く、今の世の佛者達の申される佛道ば誠の佛道ならば、佛道ほど世に悪き物はあるまじ、といわれし事見えたり。
面白き言葉にあらずや。
翁曰く誠に名言なり。
只だ佛道のみにあらず、儒道も神道も又同じかるべし。
今時の儒者達の行われる處が、誠の儒道ならば、世に儒道ほどつまらぬ物は有るまじ。
今時の神道者達の申される神道が、誠の神道ならば、神道ほど無用の物はあるまじ、と予も思うなり。
夫れ神道は天地開闢の大道にして、豊葦原を瑞穂の國、安國と治め給いし道なる事、辯を待たずして明らかなり。
豈當世祝者流、神札を配りて、米銭を乞ふ者等の、知る處ならんや。
川柳に、神道者身にぼろぼろを纏ひ居りと云り。
今の世の神道者、貧困に窮する事斯の如し。
是れ眞の神道を知らざるが故なり。
夫れ神道は、豊葦原を瑞穂の國とし、漂える國を安國と固め成す道なり。
然る大道を知る者、決して貧窮に陥るの理なし。
是れ神道の何物たるを知らざるの證なり、歎かわしき事ならずや。
【本義】
【註解】
八 衰村の復興は天地の大道に基く
翁曰く、論語に曰く、信なれば、則ち民任ずと。
兒の母に於ける、己れ何程に大切に思う物にても、疑わずして母には預くる物なり。
是れ母の信、兒に通ずればなり。
予が先君に於ける又同じ。
予が櫻町仕法の委任は、心組の次第一々申立てるに及ばず、年々の出納計算するに及ばず、十ヶ年の間任せ置く者也とあり。
是れ予が身を委ねて、櫻町に来たりし所以なり。
扨て此の地に来たり、如何にせんと熟考するに、皇國開闢の昔、外國より資本を借りて、開きしにあらず。
皇國は皇國の徳澤にて、開けたるに相違なき事を發明したれば、本藩の下附金を謝絶し、近郷富家に借用を頼まず。
此の四千石の地の外をば、海外と見做し、吾れ神代の古に、豐葦原へ天降りしと決心し、皇國は皇國の徳澤にて開く道こそ、天照大御神の足跡なれと思い定めて、一途に開闢元始の大道に據りて、勉強せしなり。
夫れ開闢の昔、葦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身せし如く、潔き事限りなし。
何事をなすにも此の覚悟を極むれは、依賴心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見ても浦山敷き事なく、心中清浄なるが故に、願いとして成就せずと云う事なきの場に至るなり。
この覚悟、事を成すの大本なり。
我が悟道の極意なり。
此の覚悟定まれば衰村を起こすも發家を興すもいと易し。
ただ、此の覚悟一つのみ。
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