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五常訓 巻之二 仁之上



 人の禽獣にことなるは、仁あるを以てなり。
五常五倫百行萬善、皆、仁より出づ。
故に仁の理至て尊く、至て大なり。
我がともがら凡愚の知り難き事なれば、たやすく言はん事、いとかたわらいたくこそ聞こゆべけれ。
されど、学びがてらに古人の説をあつめ、不幸にして書を読まざる人のために、いささか試に其の大義の萬一をいわん。
ただ、誤り多からん事をおそれるのみ。
中庸に曰く、仁者人也、親親為大。
孟子も亦曰く、仁也者人也。
又曰く、仁は人の心也と。
言う意は、天地の恵み大にして、よく萬物を生じ給う。
其の理を生理と云う。
生理とて、天理の生々て、よく物を生ずるを云う。
此の生理を人の身に生まれつきたる故に、人の身に、恵みの心胷中にみちみちて、よく物をあわれむ。
是れを以て、人の身、即ち、是れ仁なり。
故に仁者人也と説き給り。
仁は人也といえるは、たとえば生ずるは種なりといい、又、熱きは火なりと言わんが如し。
人の心に必ず仁ある事、種の必ず生じ、火の必ず熱きが如し。
禽獣も、同じく天地の恵みによりて生ずれども、仁をば生まれつかず。
此の故に、仁は禽獣也とは、云い難し。
萬物の内、人ばかり仁なるはなし。
ここを以て、人たるものは、必ず仁あり。
仁なくんば、人とすべからず。
故に仁は、人也といえり。
天地の、人を生み給える道理を、人の身に得て、心の徳とする故に、自ずから物をあわれむ道理あり。
是れ即ち仁なり。
又、仁は人の身に生まれつきたる心なれば、仁は人の心也といえり。
然れば、仁は天地の心をうけて心として、あわれみの理を其の内にふくめり。
故に人に交わりては、あわれみの心自ずから止む事なし。
されども其の中につきて、まづ父母を愛し、次に兄弟一族を愛するが、仁愛の内にていと大なる理なり。
故に親をしたしむを大なりとすといえり。
親とは親類なり。
先づ、親類をしたしみて後、他人を愛す。
是れ、仁を行う次第なり。
人なりと説き、人の心也と説ける字訓、尤も親切にして、仁の理によくかなえるなるべし。
周子は、徳愛を仁と云うといえり。
愛はあわれむなり。
仁は心の徳にて、人をあわれむを云う。
愛を以て仁を説くは、是れ、仁の大用を説けり。
仁の用をなすは、あわれみを人に施すにあり。
故に愛を仁と云う。
夫れ、仁は心に生まれつきたる理なり。
體なり。
愛は情なり。
情とは、性の外物に感じて、動きあらわれる心を云う。
用なり。
愛は仁の性の用に現れたるなり。
體は見え難ければ、あらわれたる用を以て説けり。
愛を以て仁を説くは、是れ、用につきて體を示すなり。
程子は、天地の生意を以て、仁を説けり。
生意とは、天地の理生々して物を生ずる意を云う。
其の生意の、人に生まれつきたるを仁と云う。
天にありては生と云い、又、元と云う。
人にうけては仁と云う。
天にあり、人にありて、其の名は変われども、其の理は一なり。
此の心に生まれつきたる生理内にありて、いまだ外にあらわれざるを仁とす。
既にあらわれては情となりて、物にほどこすを愛と云う。
愛のはじめておこれる、其の萌しの端を惻隱の心と云う。
仁と愛と一理なれど、性情體用の別あり。
用を指して體とすべからず。
情を指して性とすべからず。
然れば仁と愛と、體用のわかちあり。
たとえば仁は扇なり、體なり。
愛は扇を以て人をあおぐが如し。
あおがずんば扇も用なし。
あわれみなくんば、仁なんぞ用あらんや。
すべて言えば、愛するも仁なり。
たとえばあおぐも扇なるが如し。
性情體用も皆、仁なり。
體用をわかちて見、又、合わせて見るべし。
程子又曰く、仁主於愛。
是れ、仁は愛の理をふくめる故、動きて人にまじわれば、専ら愛する事をつかさどれり。
義の宜しきをつかさどり、體の敬をつかさどるが如し。
天地の萬物を生ずる心は、即ち是れ、天地の物を愛するの理なり。
其の理を人にうけて性とするは、即ち仁なれば、仁は人物を愛するを主とせり。
朱子の曰く、仁心之徳、愛之理。
心の徳とは、徳は得るなり。
天地の人物を生じ給う心を、我が心に得て、わが物となれる道理を徳と云う。
義禮智も、皆、心の徳なれど、仁は義禮智を兼ねたれば、仁において、専ら心の徳と云う。
たとえば一家の中、兄弟四人あれども、嫡子一人を以て、其の弟を兼ねるが如し。
愛の理とは、心の徳の、いまだ外にあらわざる内に、自ずから物をあわれむ理をふくめるを云う。
仁に愛の理あるば、飴の甘きが如く、醋のすきが如し。
其の内の味なり。
たとえば俗語に、ひらかねど扇は風のつぼみかなといえるが如し。
すべていえば、仁は心の徳なり。
わかちて言えば、愛の理なり。
心の徳、愛の理の六字、朱子はじめて発明せる所、後の学者に功あり。
是れ、周子の徳愛を仁というに本づけり。
或る人の曰く、愛の理は、発用を指せりと。
此の説非なり。
朱子の曰く、愛の理者、是れ乃ち指して其の體性を而言。
此説の證とすべし。
愛は用なれども、愛の理は内にふくめるを以ていえば、あらわれたる用に非ず。
朱子又曰く、仁は温和慈愛の道理。
温和とは、其の長閑くやわらかなるを云う。
慈愛とは、人の萬物を慈しみあわれむを云う。
温和は、仁の氣象を云い、慈愛は、仁の道理を云う。
たとえていえば、春の景色長閑なるは、温和なり。
春の陽気氣よく草木萬物を発生するは、慈愛なり。
朱子の此のニ説にて、仁の字義大むねそなわれり。


 韓退之の、博く愛するを仁と謂と説れるは、仁の天下萬民に行きわたる大用なり。
物として愛せざる事なきなり。
仁者ほまことに博く愛すれども、それは末なり、根本にあらず。
程子は仁の根源より説きて、全體をすべたり。
韓子の言、全く理なきにはあらず。
されど仁は性なれば、其の本より説きて、大用を兼ぬべし。


 四書六經の内に、唯、仁の一字をいえるは、義禮智をかねたり。
仁義の二字を説きて、禮智をいはざるは、仁は禮を兼ね、義は智を兼ねたり。
百行萬善は、皆、五常より出づ。
五常は、又、仁の一字を以て兼ねたり。
此の故に、孔孟は、専ら仁を求める工夫を以て教え給う。
其の説は、論語孟子の書に見えたり。


 程子曰く、医書に手足のなえしびれるを名づけて不仁とす。
此のことば尤もよく名づけかたどれり。
仁者は、天地萬物を以て一體とす。
己に非ずと云うことなし云々。
人の身、病なくして、血氣ゆきわたりて善くめぐれば、手足のさき針にて刺しても痛む。
もし風濕氣虛などの病によりて、血氣ふさがりめぐらざる所は、刀にて刺し、火にやきても傷まず。
なえしびれて、我が身とも覚えず。
是れを医書に名づけて不仁と云う、不仁者の心、外物を一體とせず、物と我との隔りありて、仁心其の物に行きいたらざれば、人の憂い苦しみをも、我が心に何とも無く痛まず。
かえりて情け無く、人を苦しめしいたげる。
手足に血氣めぐらずして、なえ痺れ、痛き事も痒き事も覚えざるが如し。
故に手足のなえ痺れるを名づけて不仁と云う事、尤もしかるべし。
仁者の心は、わが身一つを利せず、萬物とわが身と、隔てなく一體として、愛せざるものなし。
是れ、私慾の隔て無くして、公なる故に、我が心よく萬物に通じ、人の憂い苦しみを見ては、我が憂い苦しみの如く、痛み悲む。
鳥獣草木までもあわれみ恵みて、そこなわず。
鳥獣のころされ、草木のみだりに伐られるを見ても、傷む心あるは、皆、我と一體なればなり。
凡そ、天地の内にあらゆる萬物は、皆、我が身にあらざるは無し。
是れを天地萬物を以て一體とすと云う。
是れ、仁者の心なり。
凡そ、人倫も、禽獣草木も、同じく天地の生める所にて、同氣なれば、もと我が身と一體のものなれども、私欲あれば、物我の隔てありて、わが身の外は、心通ぜずして、人の憂い苦しみを見聞すといえども、我が心にあづからず。
ただ、我が身にさえ便りよければ、人の苦しみは、何ともおもわず。
是れ、不仁者の心なり。
人の身、血氣ふさがりめぐらずして、なえ痺れて、我が身とも覚えざるが如し。


 桃の實、杏の實を、桃仁杏仁と云う事も、亦、よく名づけしなり。
仁は、人の生理なり。
桃杏の實、植うれば必ず生ず。
是れ、其の内に生理あればなり。
もし、生理なくんば死物なり。
植えても生ずべからず。
桃杏の實、生理の内にありて、いまだ発生せずといえど、発生の理を内にふくめり。
ここを以て、桃仁杏仁と云う。
仁の内にありて未だ発せざるも、亦、かくの如し。
発せずといえども、愛の理は、内にふくめり。
程子曰く、心はたとえば五穀の種の如し。
種の生意あるは、仁なり。
其の種を蒔きて、陽氣発して、苗生出づるは、愛の情なりと、苗初めて萌すは、惻隠の心なり。
是等の説を以て、仁の理を知るべし。


 天地の恵みは、至て大にして、人と萬物を生みて、又、養い生かし給う。
此の故に、尚書に、天地は萬物の父母といえり。
天地の理、生々て止まざる故に、其の生々たる徳を以て、よく萬物を生じ給う。
易に天地の大徳を生と云う、是れなり。
夫れ、天地に別につかさどりなし。
物を生ずるを以てつかさどりとす。
程子の曰く、天は唯、是以牛為道。
朱子曰く、天地以生物為心。
人は、天地の物を生じ給う心をうけて心とす。
是れ、仁なり。
故に仁の理の根本は、天より出づ。
天の生理、人の仁、同じ理なり。


 尚書に、人は萬物の霊といえり。
霊とは、たましいと読む。
人は萬物にすぐれて明らかなるたましいあるを云う。
天地は萬物の父母なれば、萬物は、天地の子なり。
されど萬物の内、人は、陰陽の正しく委しき氣をうけて生る。
故に鳥けだものの蟲魚、凡そ萬物にすぐれて、とりわき天地の大徳を生まれつきたり。
ここを以て萬物の霊といえり。
又、孝經に、天地の性、人を貴しとすとのたまえり。
天地の内、性をうけたる物、人ばかり貴きは無し。
如何となれば、天地の徳を違えずして、そのまま心に生まれつきたればり。
されば人は、即ち天地の萬物を生み給う生理を以て、心とせり。
此の心を名づけて仁と云う。
凡そ、人たるものは、古今、此の仁あらずという事なし。
是れ、人たる者の心なり。
故に孟子にも、仁は人の心なりといえり。
若し、人此の仁を失わば、形は人なりといえど、心は、禽獣に近かるべし。
然れば、人と生まれたるしるしなく、萬物の霊とするに足らず。
又、貴しとすべからず。
故に人となる者は、仁を心にたもち、身に行わずんばあるべからず。
如何となれば、仁は天地よりうけて、人となれる理なればなり。


 孔子曰く、仁者は己たたんと欲して人をたつ。
己達せんと欲して人を達すと。
此の意は、仁者は心に私なくして公なる故、人我の隔て無し。
我が身をたてんと思えば、人をも共にたつ。
我が身を達せんと思えば、人をも共に達す。
人と我との隔てなし。
人を思う事我が身と同じ。
是れ、仁者萬物を以て一體とするの心なり。
若し我が身を専らに愛して、人を愛せざるは、人我の私に隔てられて、公の心なし。
是れ、不仁なり。
仁に至らんと欲せば、近くわが身の上にて、人の心をたとえ、我が好む事を人に施さず。
是れ、己を推す恕の道にして、仁に至る工夫なり。


 賢者以下は、私なき事あたわず。
私あれば、人我の隔てありて、仁に至らず。
仁にいたらんと思わば、人我を隔つる私の心を去るべし。
私を去りて仁に至る工夫あり。
己を推すを恕と云う。
己を推すに二筋あり。
一つには、わが心に人をあわれむ惻隠の一念生ぜば、其の心を外におしひろめて、人に及ぼして、人において愛せずと云う事なかるべし。
子を愛するを以ていわば、我が子をあわれむ心をおしひろめて、人の子をあわれむ。
是れ、己を推すと云う。
我が子のみ愛して、人の子を愛せざるは、人我の私なり。
凡そ、我が心に四端の善あるをば、皆、外におしひろめて行ないて、十分に至らしむべし。
内にありても、外におしひろめて行わざれば、用をなさず。
是れは内にある仁を、外におし出だして、ひろめ行うなり。
是れ、己をおす恕なり。
又、一つには、仁を人に施すの道、我が心を以て人の心を推し量るに、人も我も同じ心なれば、我が好む事は、人も亦、必ず好むものなり。
我が心に嫌う事は、人も亦必ず嫌うものなり。
かくの如く、我が心を以て人の心に比べるは、つゆ違う事無し。
不仁無禮を人の我に施すは、我が嫌う所なり。
ここを以て、人の心をおしはかるに、人もまた不仁無禮を嫌う故に、人に不仁無禮を施さず。
是れ、恕なり。
民を治める道を以ていわば、わが身もし下にありて、困窮し餓え寒え、妻を売り子を売りて、親子離れ、兄弟妻子離散するにいたらば、我が甚だ嫌う事なるべし。
其の心を以て、民の心をおしはかるに、我が嫌う如く、民も亦、嫌うべき事を知りて、民の餓えず寒えず、困窮せず、妻子を売らざるように、あわれみて施すべし。
是れを己が欲せざる所を人に施す事なかれという。
又、孔子の、よく近く取りてたとえるを仁の方というとのたまうも、此の意なり。
我が心に近く取りてたとえ比べれば、人の心も同じ心なれば、我が心に違わず。
我が心を以て、人の心をおしはかりて、人に施すは則、恕なり。
是れまた、己をおす恕なり。
恕に此の二義ありと知るべし。
いづれも己を推すという義なり。


 仁は徳の名なり。
恕は仁を行う工夫なり。
徳の名にはあらず。
工夫とは、つとめのしわざを云う。
世俗に、思案する工夫といえど、左にはあらず。
思案も其の内の一つなり。
仁に至らんとならば、恕を行うにあり。
仁は愛の理なり。
恕は、人我の私を去りて、愛を人に施す工夫なり。
仁はたとえば筆なり。
愛はたとえば筆より書き出だす文字なり。
恕は、筆を手にとりて、物かくが如し。
仁は體なり。
愛は用なり。
恕は仁を行うつとめなり。
恕なれば、私なく公にして、仁の理行われて、愛のほどこし廣し。
恕なければ、仁心あれども愛の理行われず。
故に仁愛を行わんとならば、恕を専ら務むべし。
それ、つとめずして愛の理行われるは、仁者の事なり。
賢人以下は、人我の私あるゆえ、恕を以て私を去りて、仁を行うべし。
故に恕はつとめて仁に至る道なり。
熟するは仁なり。
生しきは恕なり。
自然にかなうは仁なり。つとめて理にかなうは恕なり。
私なくして公なれば仁なり。
仁なれば愛す。
子貢の、孔子に、一言にして身を終わるまで行うべき者ありやと問われしに、孔子曰く、其れ恕乎、おのれが欲せざる所を、人に施す事なかれと答え給り。一言とは、一字なり。
恕の一字は、仁に至る道なり。
是れ、一生の間、守り行うべき道なり。

十一
 恕を行うには、公私の二つをわきまうべし。
公とは私なきを云う。
我が身を愛する心を以て人を愛し、我人の隔てなく、我一人を立てんと思う私なきは、公なり。
是れ、仁者の心なり。
私とは、公ならざるを云う。
我と人との隔てありて、ただ我が身一つを利せんと思うは、私なり。
又、わが親しみ愛する人をひいきして、ひとえに利益せんとするも、私なり。
皆是れ、小人の心なり。
凡そ、天下萬事の善悪のおこる處は、皆、公と私との二つより出づ。
又、君子小人のわかちも、ここにあり。
私あれば、間近き恩を受けたるわが親と君をわすれ、ただ、我が身の利欲をのみ務む。
況や、他人をや。
私なければ、身をすてても、君父のために忠孝をつくす。
況や、利欲などにひかれて、君父を疎かにすべけんや。

十二
 仁恕公私の別をいわば、人我を隔てず、私なきは、公なり。
公にして、愛の理行われるは、仁なり。
私ありて、人我を隔て、愛の理行わざるは、不仁なり。
人我の私を去りて、公にする工夫は、恕なり。
恕は、私を去り、公にして愛の理行わる。
是れ、仁なり。
公を即ち、仁とは云うべからず。
恕すれば人我の隔て無くして、公なり。
公なれば愛行わる。
是れ、仁なり。
恕は仁を行う工夫なり。
愛は仁の施しなり。
たとえば仁は河水の流れ行て、滞らざるが如し。
私は土石の河水を防ぐが如し。
不仁は河水の、土石に隔てられて、ふさがりて流れざるが如し。
恕を以て人我の私を去るは、たとえば川に土石のふさがれるを、鋤鍬などを以て、掘り通すが如し。
愛は、水の流れゆきて、よく物をうるおすが如し。
私あれば不仁なり。
恕すれば公なり。
公なれば愛行われて、仁の道たつ。
此の例えを以て、仁恕愛公私の別を知るべし。

十三
 樊遅仁を問う、子曰く人を愛す。
仁は愛をつかさどる。
故に仁を行うの道は、人を愛するにあり。
此の、人の字は、五倫をさして見るべし。
人を愛するは、即ち人倫を愛するなり。
人の道は、仁を行うにあり。
仁を行うの道は人を愛するにあり。
人を愛せんとならば、まづ、心の私を去り、人我の隔て無くして、あわれみの心をおしひろめるにあり。
人を愛するを以て仁を説き給う。
誠に切実にして、近き教えなり。

十四
 人は父母より生ずといえど、其の根本をたずねれば、皆、天地の恩によりて生まる。
生まれて後、一生の間も、亦、天地の恵みによりて身を立てる事、猶、親の氣をうけて、生まれて後も、親の養いによりて、人となるが如し。
是れ、誠に極まりなき大恩ならずや。
此の故に、天地を以て大父母とす。
天を父と稱し、地をば母と稱す。
人は、天地の子なり。
誠に天地の恩の極まり無き事、海山を以ても譬え難し。
天地の恩のむくい難き事、子として父母のむくい難きと同じ。
人は、萬物の霊なれば、などか天地の恩の大なる事を知らで、過ぎぬべきや。
故に人の道は、唯、天地の恩を知りてつかえ奉るにあり。
天地につかえ奉る道は、べちにあらず。
天地にしたがいて背かざるにあり。
天地に従うとは、如何にぞや。
我が心に生まれつきたる仁の徳は、是れ、天地より我にさづけ給るなり。
ここを以て、仁を行うは、即ち天地の御心にしたがいて背かざるなり。
たとえば主君よりさづけ給る官職を、よく務めるを以て、君につかえる忠義とするが如し。
仁を行いて、天地の生みて子とし愛し給る人倫を愛するが、天地につかえ奉る道なり。
人倫は五つあり。
五倫と云う。
五倫は、わが父母、君臣、夫婦、兄弟、朋友の五品を云う。
倫は、輩なり、天下萬民限り無しといえど、其の類をわかてば、此の五つに出でず。
五倫を愛するは、萬民を愛するなり。
萬民は天地の子にて、愛し給う所なれば、われ是れを愛するは、即ち天地の御心にしたがいて、天地につかえ奉る道なり。
仁の性に従えば、五倫を愛する道、自ずから行わる。
中庸に、性にしたがうを道と云う。
是れなり。
仁は、性なり。
五倫を愛する道なり。
天地より生まれつきたる仁の性に従いて、五倫の道を行うが、天地につかえ奉る孝にて、人の道なり。
是れ即ち、仁なり。
人の道とする所、さらに此の外に有るべからず。
次に、禽獣草木を愛するも、亦、天地につかえる道なり。

十五
 およそ人は、かりそめの一飯の恩、一物の恵みをうけてだに、其の心に銘じて忘れざるべき理なるに、かほど極まりなき天地の大恩をうけながら、それを悟らずして、儚き世の習いに迷いて、天道に背き、人道を行わず、其の大恩の萬一をも報ぜずして、身を終わりなん事、いと口おし。
たとえ不幸にして、聖賢の書を読まずとも、天をいただき、地を踏み、其の中にもまれながら、かほどの事は、其の是非をわきまうべきことにこそ侍れ。
況や、少しばかりにしても、古の聖賢の文を読みたる人、此の理をわきまえざらんは、いと儚くこそ聞こゆめれ。
されば、我人も、天地の恵みによりて生まれ、天地の内に身をよせ、天地の養いを受け、天地の心に背き、天地の道を知らず、天地の財を費し、天地の物をそこないて、一生の間、夢見るが如く、酒に酔えるが如く、迷いて悟らず、此の身終わりて、草木禽獣と同じく朽ちなん事は、人と生まれたるかいなし。
いたりて不仁にして、又、愚かなりと云うべし。
人の子として、親に事えずして、親の用にたたず、かえりて親に背き、不孝にして親を苦しめるが如し。
されば親によく事えるを孝とし、親に背くを不孝とす。
天地によく事えるを仁とし、天地にそむくを不仁とす。
仁と孝とは一理なり。
天地の恩と父母の恩とは、同じ。
父母に事える心を以て、天地に事えるは、仁なり。
天地に事える心を以て、父母に事えるは孝なり。
又、天理にそむきて人欲を行うは、我が父母に不孝にして、他人の父母を親むが如し。
返す返す唯、人はあだなる世の迷いを悟りて、大恩をうけて人と生まれ、身をよせたる處の、至りて貴き天地の道に朝暮したがい、身を終わるまで天道を畏れつつしみて、天に事え奉るべき事にこそあれ。
是れ即ち仁の心にして、人の道なり。
人となるもの、天地の恩を知らずんばあるべからず。
恩を知るを以て人とす。
恩を知らざるは禽獣と同じ。
恩を知ると知らざるは、人と禽獣との別れる所なり。
俗語に、恩を知らざるは木石に同じと云えるが如し。
されど木石は、天地と人の妨げとならず。
わが輩の、おろかに私多き者は、かえりて妨げとなり、木石にだにおとれるわざ多し。
身を省みるべき事にこそあれ。
返す返す天地の中に生まれたる人、天地の恩を知らず、つかえ奉らざるは、如何ぞや。

十六
 仁は、天地の、物を生ずるを以て心とし給る理を、わが身に受けて心とする徳なり。
故に仁は、萬善を統べて其の中にあれど、唯、ひとえに、人をあわれみ、物を恵を以て仁とす。
天地の、人物を生み育て恵み給える御心にしたがいて、天地の生み出し慈しみ給う人と萬物を我よりも又、天の御心をけて、あわれみ恵む。
是れ即ち仁の心にして、天地につかえ奉る道なりと知るべし。
此の仁心より、百行萬善は行われ出づるなり。
天地父母として、わが身は天地の子なり。
天下の民は、我と同じく、天地の子なる故に、即ち是れ、わが兄弟なり。
其の内に、王公大人あり。
是れ、わが兄弟の内にて、位高き人なり。
鰥寡孤獨、病者、かたわ、乞食、貧人あるは、皆、わが兄弟の内にて、不幸なる人なり。
位有るを敬い、不幸なるをあわれむは、皆是れ、わが兄弟をあつく親しむの道にして、即ち是れ天地につかえ奉る道なり。
たとえば人の子として、親に孝を行う道は、親の命にそむかず、親のうめる我が兄弟に睦まじく、又、親の親しめる親戚朋友、親の愛するしもべまで、其の程にしたがいて、情け深きを以て孝とす。
如何に親のひざもとにて、明け暮れ事えるとも、親のうめる所のわが兄弟に情けなくば、親の心にそむきて、至て不孝というべし。
天地のうめる處は、人と萬物なり。
天地のうめる人と物をあわれむを以て、天地につかえ奉る道とす。
天下に人多けれど、五倫の外にこれなし。
君子の道は、五倫にまじわりて、情け深く、恵みあつきを、人の道とする。
人倫は、皆、天地の子なり。
人倫をあつくするは、即ち、天地につかえ奉る道なり。
人倫を愛するとて、わけも無く一様に人を愛するは、道理にそむけり。
墨子と云いし人、仁を学びそこないて、天下の人を一様に兼ね愛する道を立てたり。
是れ、僻事なり。
人を愛するに、親しき疎きと、貴賤とによりて、自然の品あり。
品なければ、親をも路地人をも、一つに見るなり。
人倫の中に、とりわき親につかえ、孝を行うを専一とするは、人倫の本をあつくするなり。
次に兄弟、夫婦、朋友なり。
君臣の義は、又、父子の親しみと同じく、尤もおもし。
親を愛するを本とするは、是れ、わが生まれつきたる仁愛の先づおこる處、自然の道なり。
しいて次第を立てるにはあらず。
人倫を愛して、其の次には鳥獣蟲魚草木たで愛するは、是れ又、天地のあわれみ給える内に、取りわき人倫を尤もあつくし給う。
人は、萬物の霊なれば、禽獣草木に同じからず。
天地の性、人を貴しとす。
ここを以て、天地の御心をうけて、まづ、専ら人倫をあつくあわれみ、次には、鳥獣草木をも愛すべし。
君子の道は、唯一筋に、天地の御心に従いて、背かざるにあり。
是れ、天に事えて孝を行うなり。
是れを仁と云う。
もし人倫を愛せずして不仁なるは、天地の不孝の子なり。
孟子に、親を親しみて民を仁して物を愛すといえり。君子の仁愛を行う、其の次第かくの如くなるは、其の品に従いて、心を用いるに厚薄あり。
是れ、自然の理にしたがえり。
まづ、父母兄弟を親しみ、次に親戚を親しむは、皆是れ、親を親しむなり。
次に民を仁す。
民と萬民なり。
其の内にも、貴賤親疎の次第あり。
次に物を愛す。
物とは、禽獣草木を云う。
とりけだもの草木を愛するも、各々次第あり。
先づ、鳥獣を愛し、次に草木に及ぶべし。
親を親しみ、民を仁し、物を愛するは、軽重の次第あり。
親を親しむは、尤もあつく、民を仁する、是れにつぎ、物を愛するは、民を仁するより軽し。
此の三つは、すべていえば、皆、仁なり。
其の厚薄の次第、みだるべからず。
是れ、自然の理にして、しいて次第をわかつにはあらず。

十七
 仁は、義禮智信を兼ねて其の中にあれども、五つの者をならべ云う時は、各々一理ありて、仁を相助くべし。
仁の理、義を得ざれば宜しく行われず。
禮を得ざれば、節分なくして立たず。
智を得ざれば善悪を明らかに知らず。
信を得ざれば偽りありて守り難し。
四つの者、皆
備わりて、仁の道、行わる。
然れば義禮智信は、もと仁より出でて、仁を助ける理なり。

十八
 仁は、天地にありては、物を生ずるの心なり。
人にありては、温和にして、人を愛し、物を利する心なり。
仁は、ただ愛の理を以て云うべし。
天の道、人の道、皆此の愛を以て本とせり。
愛をすてて仁をいうは、非なり。

十九
 子曰わく、剛毅木訥は仁に近し。
又、曰く、功言令色、鮮矣仁。
剛毅は、心こわく強くして、柔弱ならざるなり。
木は、容貌質朴にして、かざり無きを云う。
訥は、言の巧みならず鈍きを云う。
心剛毅にして物慾にかがめられず、容貌質朴にしてかざりなく、言たくみならざるは、其の氣象を以て云う。
仁とは、云い難し。
されど外をつとめずして、内に實あれば、其の質、仁の理に近し。
功言は、言をよくして、仁者の言に似たり。
令色は、顔色をよくして、仁者の容貌に似たり。
顔色言語は、見事に聞き事なれど、かざりて外をつとめ、内に實なければ、仁にあらず。
此の二章を以て、仁の理を知るべし。
又曰く、仁者は必ず勇有りとは、仁者は心、私にわずらわざる故、義を見ては、必ず行う。
内に省みるに、疾しからず。
故に事にのそみて、憂えず恐れず、節義を堅く守りて、身に私せず。
此の故に、仁者は、必ず勇あり。
血氣の勇者は、けなげにて身をすつれども、仁義なければ道理に當らず、捨ててかいなし。
勢いにより、節にのぞみては、身に私して、道理にそむき、節義をうしなう。
故に必ず仁あらず、其の勇もたのみなし。
子の曰く、志士仁人は、無求生以害仁、有殺身以成仁。
仁に志ある人、仁ある人は、義の死すべき時節に、わが身に私せず、命生きん事をもとめて、わが心の道理を害せず。
身を殺しても道理にかなえば、其の心やすし、ここを以て、身をすてて仁の徳をなすとなり。
不義にして命生きても、わが心の道理を失えば、生けるかいなし。
是れ、仁者の勇ある所なり。
ここを以て、程子も、人必ず有りて仁義の心、而後有仁義之氣といえり。
志は、氣の師とて、心だにつよければ、氣はそれに連れられてつよし。
仁義の氣あれば、即ち、勇武行わる。

二十
 天によく事える道を仁とし、よく事える人を仁人と云う。
親によく事える道を孝とし、よく事える人を孝子と云う。
仁人の天によく事えるは仁なり。
孝子の親によく事えるは、孝なり。
禮記に、仁人の親に事えるは、天に事えるが如く、天に事えるは、親に事えるには、敬をおもくす。
愛敬を盡して、天に事え、親に事えるは、其の身の徳行の成就する道なれば、これを身を成すと云う。
天は地を統ぶ。
地は天の内にあり。

二十一
 孔子の教えは、唯、仁の一字を専らとし給うは、仁は、四徳を統べ、萬善百行の本とする理なればなり。
しかれば、人道は、唯、ひとえに仁を以て本とせり。
仁義禮智は、人の性の条目なれど、皆、仁より出づる所にして、仁分かれて四つとなれり。
是れを以て、五常は仁を本とす。
仁を以て、義禮智を兼ねる。
仁は、仁の本體なり。
體は、仁の節文なり。
義は、仁の断制なり。
智は、仁の分別なり。
是れ、四徳は、皆、仁にこもれり。
たとえば、春は生氣の初めなり。
夏は、生氣の長ずるなり。
秋は、生氣のおさまるなり。
冬は、生氣のかくれるなり。
是れ、春を以て夏秋冬を兼ねる。
仁の義禮智を兼ねるも、亦、かくの如し。
故に明道の曰く、義禮智、皆、仁なりと。
されど仁義禮智の別れるは何ぞや。
仁の内、自ずから此の四徳あり。
これを分てば、仁の理いよいよ明らかなり。
四つにわかつは、仁の理を明らかにせんが為なり。
四時をわかてば、一年の元氣の運行明白にして、知りやすきが如し。

二十二
 四徳四端、いづれも四つの者をならべ説くといえども、其のはじめ、まづ、仁心なければ、必ず義禮智なし。
惻隠の心なくては、生理滅び、心かたくなに愚にして、羞悪辞譲是非の端も起こらず。
たとえば、石の頑なにして、生氣もなく、心も無きが如し。
俗語に、物のあわれみを知らざるは、木石の如しといえるが如し。
又、身のなえしびれたる所は、刀にてつき、火にてやけども痛みをおぼえざるが如し。
仁は、生理なり、あわれみなり。
あわれみ無くて、物のあわれを知らざる人は、義理もなく、禮もなく、智慧もなきものなり。
是れ、惻隠なければ四端なし。
惻隠の四端を兼ねたる所なり。

二十三
 仁は、人の性にして、人々に皆、備われり。
孔子、仁を行うの道をば、常に説き給うといえど、其の理の深き事は、聞き得る人少なければ、稀に説き給り。
又、一事の善も仁心より出づといえども、仁の全體は、至て大にして、少しもきずなきを以て名づくる理なれば、仁を以て人に許し給う事まれなり。
顔子の亜聖も、三月仁にたがわずとのたまえい、三月の後は、仁ある事をゆるし給わず。
仲弓、子路、冉求、子貢、公西華などは、皆、孔門の歴々の高弟なり。
されど、皆、仁をば許し給わず。
陳文子令尹子文は、其の行い高しといえども、夫子各々長ずる所をば、許して、仁をゆるし給はず。
是れ、仁は、至て精粹にして、廣大なる道理なればなり。
李延平曰く、當理而無私心則仁矣。
いう意は、行うわざ、道理にかないて、心中に私なきは、仁なりとなり。
行う所理にかなえども、心に私あるは、仁にあらず。
心に私なきとても、行う所理にあたらざれば、仁にあらず。
内外共にきずなき人は、孔門の賢者といえども得難ければ、孔子の、軽々しく仁を人にゆるし給わざる故、是れなるべし。
伯夷叔齊をば、仁を求めて仁を得たりとの給い、微子箕子比干をば、殷に三仁ありとのたまえいて、皆、仁をゆるし給うは、其の心、私なく、其の行い理にかなえる故なり。

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