二宮翁夜話 第十五章

第十五章 處世修養の巻

九十三 修行の道に限度あり

 翁曰く、佛者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見える内は、能く修行すべし。
其の地位に至る時は、國家を利益し、世を救うの外に道なく、世の中に益ある事を勤めるの外に道なし。
譬えば山に登るが如し。
山の高く見える内は勤めて登るべし。
登り詰めれば外に高今日山なく、四方共に眼下なるが如し。
此の場に至って、仰ぎて彌々高きは只だ天のみなり。
此の處まで登るを修行と云う。
天の外に高き物ありと見える内は勤めて登るべし、学ぶべし。

【本義】

【註解】

九十四 他を傷けざるは道徳の本體なり

 世の中刄物を取り遣りするに、刄の方を我が方へ向け、柄の方を先の方にして出すは、是れ道徳の本意なり。
此の意を能く押し弘めば、道徳は全かるべし。
人々此くの如くならば、天下平かなるべし。
夫れ刄先を我が方にして、先方に向けざるは其の心、萬一誤りある時、我が身には疵を付けるとも、他に疵を付けざらんとの心なり。
萬事此の如く心得て我が身上をば損す共、他の身上には損は掛けじ。
我が名譽は損する共、他の名譽には疵を付けじと云う精神なれば、道徳の本體全しと云うべし。
是れより先きは此の心を押し拡むるのみ。

【本義】

【註解】

九十五 物一得あれば一矢あり

 翁曰く、凡そ物一得あれば一失あるは世の常なり。
人の衣服を於ける甚だ煩わし。
夏の暑きにも冬の寒きにも、絲を引き機をおり、裁縫いすすぎ洗濯、常に休する時なし。
禽獣の自ら羽毛あり、寒暑を凌ぎ、生涯損ずることなく、染めずして彩色ありて、世話なきに如かざるが如しといえとも、蚤虱羽蟲など、羽毛の間に生じ、是れを追うに又暇なきを見れば、人の衣服ぬぎ着、自在にして、すすぎ洗濯の自由なるに如かざる事遠し。
世の他をうらやむの類、大凡斯の如き物なり。

【本義】

【註解】

九十六 心は正平に保つべし

 硯箱の墨曲がれり。
翁之れを見て曰く、総べて事を執る者は、心の正平に持たんと心掛くべし。
譬えは此の墨の如し。
誰も曲げんとて、摺る者はあらねど、手の力自然傾くが故に此くの如く曲るなり。
今之れを直さんとするも、容易に直るべからず。
百事その通りにて喜怒愛憎ともに、自然に傾く物なり。
傾けば曲るべし。
能く心掛けて心は正平に持つべし。

【本義】

【註解】

九十七 悪習の者を善に導くの法

 翁曰く、深く悪習に染みし者を、善に移らしむるは、甚だ難し。
或は惠み或は論す。
一旦は改める事ありといえども、又元の悪習に帰るものなり。
是れ如何ともすべなし。
幾度も是れを惠み教ふべし。
悪習の者を善に導くは、譬えば渋柿の台木に甘柿を接穂にしたるが如し。
ややともすれば、台芽の持前発生して継穂の善を害す。
故に継穂をせし者、心を付けて、台芽を掻き取るが如く厚く心を用ふべきなり。
若し怠れば台芽の為めに、継穂の方は枯れ失せべし。
予が預かりの他に、此の者数名あり。
我れ此の数名の為めに心力を盡くせる甚だ勤めたり。
二三子是れを察せよ。

【本義】

【註解】

九十八 人倫は禮法を尊ぶべし

 翁曰く、禮法は人界の筋道なり。
人界に筋道あるは譬えば、碁盤将棋盤に筋あるが如し。
人は人界に立てたる筋道によらざれば、人の道は立たず。
碁も将棋も其の盤面の筋道によればこそ、其の術も行われ、勝敗も付くなれ。
此の盤面の筋道によらざれば、小児の碁将棋を弄ぶが如く、碁も碁にならず、将棋も将棋にならぬなり。
故に人倫は禮法を尊ぶべし。

【本義】

【註解】

九十九 人の長所を友とせよ

 翁曰く、論語に己れに如かざる者を友とする事勿れとあるを、世に取り違える人あり。
夫れ人々皆長ずる所あり。
短なる所あるは各々免れ難きなり。
されば其の人の長ずる所を友として、短なる所を友とする事勿れの意と心得べし。
譬えば其の人の短なる事をば捨て、其の人の長所を友とするなり。
多くの人には短才の人にも手書きあるべし。
世事には疎き学者あるべし。
無学にも世事に賢こきあるべし。
無筆には農事に精しき有るべし。
皆其の長所を友として短所を友とすること勿れの意なり。

【本義】

【註解】

百   悪友との絶交を期す

 門人某、若年の過ちにて、所持品を質に入れ遣い捨て退塾せり。
某の兄なる者、再び入塾を願い、金を出し、質入品を受け戻して本人に渡さんとす。
翁曰く、質を受けるは其の分なりといえども、彼は富家の子なり。
生涯質入れなどの事は、為す可き者にあらず。
不束至極といえども、心得違いなれば是非なし。
今改めんと思わば、質入品は打ち捨てて可なり。
一日も質屋の手に掛かりし衣服は、身に付けじと云う位の精神を立てざれば、生涯の事覚束なし。
過ちと知れば速やかに改め、悪しと思わば速やかに去るべし。
穢き物手に付けば、速やかに洗い去るは、世の常なり。
何ぞ質入したる衣服を、受け戻して着用せんや。
過って質を入れ、改めて受け戻すは困窮家子弟の事なり。
彼は忝くも富貴の大徳を、生まれ得てある大切の身なり。
君子は固く窮すとある通り、小遣いがなくば、遣わずに居り、只だ生れ得たる大徳を守り失わざれば、必ず富家の聟と成りて、安穏なるべし。
此の如き大徳を、生れ得て有りながら、自ら此の大徳を捨て、此の大徳を失う時は再び取り返す事出来ざるなり。
然る時は藝を以て活計をたてるか、自ら稼がざれば、生活の道なきに至るべし。
長芋すら腐れかかりたるを囲うには、未だ腐れぬ處より切り捨てざれば、腐り止まらず。
されば質に入れたる衣類は、再び身に附けじと云う精神を振るい起こし、生れ得たる富貴の徳を失わざる勤めこそ大切なれ。
悪友に貸したる金も、又同じく打ち捨つべし。
返さんと云うも、取る事勿れ。
猶ほ又貸すとも、悪友の縁を絶ち、悪友に近付かぬを専務とすべし。
是れ能く心得べき事なり。
彼が如きは身分をさへ謹んで、生れ得たる徳を失わざれば、生涯安穏にして、財實は自然集まり、随分他の窮をも救うべき大徳、生まれながら備わる者なり。
能く此の理を論して誤らしむる事勿れ。

【本義】

【註解】

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