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五常訓 巻之一 總論



 およそ人となれる者は、天の大徳をうけて生まれ、其の心に生まれつきたるものあり。
名づけて性と云う。
是れ即ち天地の萬物を生じ給う大徳の生理なる故に、性の字、心にしたがい、生にしたがう。
此の性の内、自ずから五つの徳あり。
名づけて五常と云う。
古今天下の人、たかきいやしき、さかしおろかなる、皆おしなべて、此の五つの徳を生まれつきて、心に備われる事、古今変わる事なし。
ここを以て五つの常と云う。
常とは変わらざるを云う。
此の五常の性は、人の人となれる理にして、人の萬物にすぐれて貴く、禽獣にかわれる所ここにあり。
此の五つの性にしたがへば、五倫の道是れより行われて、人道是れによりて立つ。
故に天下の道理是れより出て、道の本根とす。
故におよそ人たる者、此の理を知らずんばあるべからず。
五常の性は體なり。
其の理説き難し。
用にあらわれて、見えやすきを以て、其の義をいはば、愛を仁と云う。
愛は、あわれみなり。
宜を義と云う。
宜とは、事物に相應するを云う。
各々其の事につきて理に當るなり。
理を禮と云う。
道理に通じ、是非を知るを云う。
理とは人を敬い、事に則ありて、正しく筋目有るを云う。
通ずるを智と云う。
道理に通じ、是非を知るを云う。
守るを信と云う。
偽りなくして、道をかたく守りて、変ぜざるを云う。
此の字義は、周子の説なり。
韓子の曰く、人の性とする所の者 五、曰く、仁義禮智信。
是れ、人の性に、此の五つの者備われる事をいえり。
故に又、五性とも云う。
此の五性を全ていえば仁なり。
故に孔子は、唯、仁の一字を以て教えとし給う。
是れ、易に大地の大徳を生と曰うといえる意に本づけなり。
天地の萬物をうみ給うあわれみの理、人の心に生まれつきたるを仁と云う。
仁は人心の全徳なり。
故に仁の一理を以て、義禮智信をかね、又、萬の善をすべたり。
春の氣を以て、夏秋冬を兼ねるが如し。
されども易においては、人の道をたてて仁と義というと、仁義の二つをつらぬいて説き給り。
是れ、経書に、仁義をつらね説ける初なり。
孟子に至りて、孔子の道をひろめて、仁義をもっぱら説き給う。
仁義の二つにて、萬善行われ、人道立つ事、天に陰陽ありて、天道行われるが如し。
されども孔子の説き給う仁の外には出でず。
唯、仁の一理をわかちて、仁義といえるなり。
たとえば、一年の内、元氣の流行は一筋なれど、動静の分あるを以て、わかちて陰陽といえるが如し。
又、孟子はじめて仁義禮智の四徳をつらねて説き給り。
是れ又、仁義の外、禮智あるにあらず。
禮は仁より出で、智は義の内にあり。
朱子の、禮は仁之著るなり。
智は者義之藏れるなりといえるが如し。
仁義をわかちて四徳を説くは、陰陽をわかてば、春夏秋冬の四時となるに本づけり。
前漢の董仲舒曰く。
仁義禮智信五常の道は、王者の當に修飾すべき所なり といえり。
是れ、四徳に信を加えて、五常と説ける始なり。
四徳の外、別に信あるにあらず。
四徳のまことありて偽り無きは、即ち信なり。
信なければ、仁義禮智にあらず。
たとえば、四時の内に土用ありて、木火金水の氣行われるが如し。
木火金水も、土なければ生ぜず。
是れ、董仲舒のはじめて説き出せるにもあらず。
上代よりすでに此の説あればなり。


 人心の徳は、本唯、仁の一理なり、又、分かれて、仁義禮智となる。
又、信を加えて五常とす。
たとえば、一年は唯、一氣のめぐりなり。
二つにわかてば、陰陽となる。
春夏は、陽なり。
秋冬は、陰なり。
陰陽をわかてば、春夏秋冬の四時となり、土用を加えて五氣となるが如し。
一日の内をも、二つにわかてば昼夜となり、又わかてば、朝昼暮夜の四つとなるが如し。


 人の心にそなわれる仁義禮智の四徳、其の根本いづくにあり、いづくより享けたるや。
曰く、是れ、其の根本、天にあり。
天より出でて人の心にうまれつきたり。
其の根本、天にあり。
天より出でたるとは如何ぞや。
曰く、易に天地の大徳を生と曰う。
大徳とは大なる恵みなり。
生とは、萬物をうみ生かすを云う。
天地 別に心なし。
人と萬物をうみ生かす事を以て、心とし給い、これを以て、古今、限りなき人物を生じ給う。
此の心を生と云う。
即ち生理なり。
又、元と云う。
是れ、天地の恵み、物をあわれみ給う大徳なり。
其の生理、一年の内、春夏秋冬にめぐり行われて、元享利貞の四徳となる。
天に此の四徳ありて、天道常に行われるが如く、人に仁義禮智ありて、人道行わる。
人は、天地の子にて、天地の、物をあわれみ給る御心をうけて、心とす。
是れを名づけて仁と云う。
仁は即ちあわれみの心なり。
此の仁の理をわかてば、仁義禮智の四徳となる。
天の元氣の生理をわかちて、元享利貞というが如し。
是れ、人の仁義禮智の四徳の根本は、天道の元享利貞より出でたり。
天にあり、人にあり、其の理は一なり。
董子のいわゆる、道の大原は天に出でたりというは、是れなり。


 仁義ニ理あるにあらず。
仁の節あるは義なり。
仁義の二つを以て、禮智を兼ねる。
故に、仁をいえば、義は其の内にこもる。
仁義をいえば、禮智は其の内にこもる。
仁は禮を兼ね、義は智を兼ねる。
春は、夏を兼ね、秋は、冬を兼ねるが如し。
夏は、春氣の長ずるなり。
冬は、秋氣のかくれるなり。
仁義を以て禮智を兼ねるは、禮は仁のあらわれるなり。
禮義三百、威儀三千は、皆、仁の發せるなり。
是れ、仁禮一理なり。
智は、義のかくれたるなり。
義の、善悪をたちわかつ事、利刀の、物を断つが如くなるは、智の、是非することの明らかなるより出づ。
是れ、義智一理なることを見つべし。
仁禮は、陽に属し、義智は陰に属す。
仁義の二つをいえば、春生じ夏長ずるは仁なり。
秋收まり冬藏れるは義なり。
四徳にわかちていえば、春は仁なり。
夏は禮なり。
秋は義なり。
冬は智なり。


 人に仁義あるは、天に陰陽あるが如し。
天に陰陽なければ、造化の理ほろびて、四つの時行われず、萬物生ぜずして、天地の道立たず。
人に仁義なければ、心の徳ほろび、五輪の道行われずして、人道立たず。
禽獣と何ぞ異ならんや。
故に易に曰く、天の道を立てて陰と陽という。
人の道を立てて、仁と義という。


 仁義禮智の四徳、古今天下の人の心に、皆、生まれつきて備われる事、何を以てか知るや。
四端あるを以て知れり。
四端とは、惻隱、羞悪、辭讓、是非を云う。
是れ、仁義禮智の四徳、心の内にありて、物にふれて自ずから心上におこりて、外にあらわれるを云う。
故に四端と名づく。
端とは、物内にありて見えずといえども、其の端少し外にあらわれ出づるを以て、其の物の内にあることを知るが如し。
仁義禮智の性、心の内にありて、いまだ起こらざる時は、其の有無見るべからずといえども、物に感じておこり、用となるにいたりて、仁は惻隱となり、義は羞悪となり、禮は恭敬となり、智は是非となる。
もし内に、仁義禮智の四徳なくんば、必ず此の四端あらわるべからず。
内にある故に、外に四端あらわる。
是れを以て、人の心に四徳ある證とすべし。
惻隱は、いたみいたむと訓む。
人のうれい苦しむを見ては、あわれみいたむを云う。
是れ、仁の心のあらわれる端なり。
もし人の憂い苦しみを見ながら、あわれむ心無くんば、仁無きなり。
羞悪とは、はぢにくむと訓む。
悪むは嫌うなり。
わが不義なるを恥じ、人の不義を嫌う。
是れ、義の端なり。
もし人の不義を嫌わず、わが不義を恥じずんば、義なきなり。
辭讓は、我が身に取るを辭退して受けざるは、辭なり。
人にゆづりて與えるは、讓なり。
飲食するを以ていわば、飲食を辭して、まづ人にゆずり與えるを云う。
是れ、禮の端なり。
もし讓らずして、争い奪わば、是れ、禽獣のわざにして、禮にあらず。
是非とは、事の善なるをば善と知りて是とし、不善なるをば、不善と知りて非とす。
是れら、智の端なり。
もし是非をわきまえずんば、智無きなり。
此の四端は、ひ人となれる者は必ずあり。
此の四端あるを以て、仁義禮智の内にある事を知るべし。
又、如何なる愚かな人も、親を愛し、君を尊び、兄を敬い、弟をあわれみ、善をほめ、悪を悪まざる者なし。
是れ、仁義あればなり。
飢寒する人を見ては、あわれむ心起るは、仁あればなり。
又、小人といえども、我がいつわりあらわれ、不義を人に知られれば、赤面し、汗をながす。
是れ、義あればなり。
凡そかようの類、物にふれて、善心起ること多し。
自ら心見て知るべし。
皆是れ、仁義禮智の四徳を生まれつきたるにあらずや。
ここを以て、孟子は、人の性は善なりとのたまう。
もし、五常の徳なくんば、何ぞ性は善なりといわんや。
猶もせちなる事をいわば、孟子の書に見えし如く、唯今三四歳なる小児が、井戸のはたにあたりて、智なくして、たちまち井戸の内に落ち入らんとするを見ては、如何なる至愚極悪の人も、おどろき悲しみて、救わざるは無し。
是れ、其の子の父母に親しみあるにあらず、人の子を救いたるとて、誉を求めるにあらず。
又、見捨てたりと、人にいわれる悪名をおそれるにもあらず。
唯、天性に生まれつきたる仁愛のまことの心より出づるなり。
これによりて見れば、人皆此の善心生まれつきて、心に備われる事を知るべし。
君子の道を行う工夫は、わが心の内にある四端の善心の、少し萌したるを養い育てて外におしひろめ、十分に行うにあり。
たとえば、火のはじめて燃え出でたるを打ち消さずして、吹き起こし熾んならしむれば、ひろき原、大なる山をも焼くが如し。
昔もろこしの齊の宣王は、一牛を殺すを情けなく思い、助けられしは、誠に惻隱の心、善心の發なり。
されども、わが國の多くの人民の飢寒を救わず。
是れ、牛を愛する仁心はありながら、其の仁心をおしひろめて、萬民に及ぼす工夫なくして、民を飢寒せしむ。
火のはじめて燃え出でたるを打ち消したるが如し、物を焼く事あたわず。
凡そ、人の善を行わずして、不善をするは、皆、其の善心あるを推し広めざるなり。
善をするは、皆、善心の内にあるを、外に推し広めるなり。
親に事うるに、親を愛する一念あるは善なり。
これを推し広めれば、大孝に至る。
もし、是をれをすてて、推し広めざれば、不孝となる。
自餘も皆、此の類なり。
故に善と悪とは、此の心を推し広めると、推し広めざるとに有り。
心には、此の善端ありといえど、推し広め行わざれば、生まれつきたる天性を損ない捨てて行わざるなり。
是れ、いわゆる自暴自棄なり、推し広めれば、天下四海をも治めるに足れり。
若し、推し広めずして打ち捨てれば、至りて近きわが父母につかえて、孝をなす事も成り難し。
況や萬民を治めるをや。
堯舜の仁、湯武の義は、至りて大なれども、此の善心を推し広め給えるなり。
桀紂が悪は、此の心を推し広めざるなり。
然れば、四端を推し広めると、推し広めざるとは、善悪と、君子小人と、國家の治亂との分かれる所なり。


 天地の恵みを受けて、わが身に生まれつきたる四徳なれば、人の人となれる道理、ここにあり。
然るに此の道理を知らず、且つ人欲にくらまされ、是をすてて行わず、天地の徳にそむき、人の道を失う事、悲しむべし。
此の四徳を失えば、人と斯く生まれたるしるし無く、鳥獣に同じくして、草木の、天地の恵みのままに成長し、枯れしぼみて人の養いとなり、妨げとならざるには、遥かに劣れるぞあさましき。
人は、萬物の靈とて、天地の内にて、いと貴きものなれど、天地の性にそむき、人の道を失なわば、禽獣に近くて、貴ぶに足らず。
是れ、自ら我が身を賤しくもちくだすなり。
豈、賤しむべき事ならずや。


 仁義の道は、我が心の外に求めず。
幼穉なる童も、其の親を愛することを知らざるは無し。
其の長ずるに及んでは、其の兄を敬う事を知らざるは無し。
親を愛するは仁なり。
兄を敬うは義なり。
ここを以て、仁義は我が心に、もとより生まれつきたる事を知るべし。
且つ親を愛し、兄を敬うは、誰も知りやすく行い易し。
甚だ高くして、知り難く行い難き事にあらず。
此の二つに基づきて、其の心を推し広め、萬事に行い凡ぼさば、仁義行われて、人道立ちぬべし。


 人の性とする所、唯、仁義禮智信の五字なり。
天下の道理、此の外に出でずして、ことごとくこの内にあり。
是れ、萬善の出づる所の根源なり。
五常の性にしたがいて、五輪の道を行う。
聖賢の教える所、学者の学ぶ所、此の外にこれなし。


 五常の性にしたがいて、私欲の煩いなく、唯、其の自然に打ち任すれば、人倫にまじわりて、其の性の善あらわれ、人倫の道行わる。
中庸に、性にしたがい行えば、親に孝し、君には忠し、夫婦は正しく、兄弟むつまじく、朋友に信あり、萬の善、皆これより出づ。
國家を治め、天下を平らかにするも、皆是れ、五常の性にしたがいて、行い出せるなり。
ここを以て人道たつ。
聖人の聖人たるも、亦、五常の性にしたがえばなり。
天下の道理は、五常の外に出でず。

十一
 およそ人となるものは、萬物にすぐれ、五常の外を生まれつき、道あるものなれども、食を飽くまでくらい、衣を暖かに着、家をかまえて、身を安くしたるまでにて、道の教えなければ、形は人なりといえども、其の心、其の行いは、禽獣に近きこそうらめしけれ。
古の聖人、是れをうれい給て、学校を建て、師をたてて、人たるの道を教え学ばしめ給う。
されば事の急ならざるようにして、いたりて大切なる事は、学問より重きは無し。
如何となれば、道はしばらくも離れるべからず。
人学問なく、道を知らざれば、人の道たたず。
人と斯生まれつきたるかいなし。
人生再び得難し。
道を学ばずして、空しく過ごすべからず。
ここを以て、朝に道を開きては、夕に死すとも可なりと、聖人ものたまえり。
学問は、まづ此の道に、志をたて、明らかなる師をえらびて、其の教えをうけ、よき友にまじわりて、其の助けを借りるべし。
志を立つることは、我にありといえども、道を学ぶことは師友の力を用ゆべし。
たとえばいとささやかなる芸能、又、民のつとむる賤しきことわざといえども、師なく、法なく、教えなくて、唯、わが心一つに任せたらんには、いかに才力ありても、其のわざをよくしがたし。
況や、人の道は、即ち天地の道にて、きわめて大なる事、諸芸にくらべがたきをや。
いかでか古の聖人の法を学ばずして、わが心一つにて其の道行われるべき。
然れば、人となる者は、必ず古の聖人を師とし、其の教えを尊び、其の書を読み、学問して、人の道を知らずんばあるべからず。
愚かなる人は、学問は人のつとめの外の事のように思い、学ばずしても苦しからざる事とのみ思えり。
人となりて、人の道を学ばずして知らざるは、農人の田を作る事を知らざるが如し。
古より、もろこしにて、さばかり明らかにさとれる賢人君子、世に多かりしかど、我意をたてず、わが才智に誇らず。
皆聖人の教えを尊びしたがい、幼きより、老いにいたりて、道を学びて止めず。
是れ、其の智明らかにして、聖人の教えを学ばずんばあるべからざる事を、よく知れる故なり。
況や、今の時、末世の凡人、いかに其の才力人にすぐれたりとて、古の賢者には及ぶべからず。
然れば、聖人を師として学ぶべきこと、言うに及ばず。

十二
 元享利貞の四徳は、天道の物を生じ給う生理の、春夏秋冬の四時に行われる次第にて、其の始終なり。
天道の行われる序で、其の時を以ていえば春夏秋冬とし、其の理を以ていえば、元享利貞とし、其の氣は生長収藏とす。
元は、はじめと読む。
生理の始なり。
時においては、春とす。
春は元氣初めて行われて、萬物生ず。
是れ、天道の、萬物を生ずる徳の初めなり。
人にうけては、仁とす。
享は、とおると読む。
生理の通るなり。
時においては、夏とす。
夏は、萬物さかんに長ず。
人にうけては、禮とす。
利は、遂げるなり。
生理のとげるなり。
時においては、秋とす。
秋は、萬物の生理収まりて、草木みのる。
是れ、利なり。
人にうけては、義となる。
貞は正しいと読む。
生理の正しく成れるなり。
時においては、冬とす。
冬は、萬物の生理成就し、堅固に正しくなる。
其の生氣、根にかえり隠れ収まりて、一年の功成る。
人にうけては、智とす。
此の四時の行われる序では、萬世に年は經とも、変わらざる天道の常理なり。
人は、天の元享利貞の四徳をうけて、仁義禮智の性として、心に備われり。
天の四徳、其の源をたずねれば、本は、天の四徳より出でて、其の理同じく、其の本一にして、天人合一なり。

十三
 天の生理四時に行わる。
其の中につきて、取りわき元を始として、享利貞を統ぶ。
此の故に、春生の元氣を以て、四時をつらぬく。
其の次第は、四つにわかるれども、理は一なり。
人の心の生理も、仁を始として、義禮智をつらぬくこと、天の元氣の、春を始として、四時をつらぬくが如し。
これによりて、仁の一字は、四徳をかねたり。
孔子の、もはら仁の一字を説き給るは、此の故なるべし。

十四
 天の道、萬古よりこのかた、常に行われて止まず。
春夏秋冬の序で、日月のめぐり、寒暑温涼のおしうつる。
皆其の時違わず。
萬物の生ずる、年々に、各々、其の形色をあらためず。
桃は紅に、季は白くして、萬世までも変わらず。
是れ即ち、天道の誠なり。
人の性に仁義禮智の四徳ありて、其の中に自ずから信あるは、天道の元享利貞の内に誠あるが如し。
天地の運行、人物の性、萬世に至て変わらず。
是れ即ち、天道の誠なり。

十五
 凡そ、人たるもの、必ず此の四徳あるは、たとえば身に頭身手足の四體あるが如し。
此の四徳ありながら、道を行う事ならずというは、たとえば手足ありながら、物をとり地をふむ事ならずと云うが如し。
是れを自暴自棄と云う。
自暴とは、自ら損なうと訓む。
我が身に此の天性あることを知らで、禮義をそしりて行わず。
是れ、天性を自ら損なうなり。
剛悪の人なり。
自棄とは、自らすてると訓む。
仁義の道を善きとは思いながら、行う事ならずとて行わぬ、是れ、我にある天性を、自らすてるなり。
柔悪の人なり。
此のニ種の人は、わが天性を自ら破り棄てる故に、道に入りがたし。
もし自暴自棄の悪なくんば、学んで此の道を得ずと云う事なし。

十六
 五常の性は、唯、人のみ、これあるにあらず。
禽獣にも、亦、其の一性はこれあり。
虎狼にも父子の道あり。
慈烏の巣立ちして、母に餌をふくめかえす、猫の他の子に乳を飲ませて育てる、是れ皆、仁の一端を得たり。
犬の主人をしたい、蜂蟻に君臣の法あるは義なり。
豺獺の祭をして本にむくい、鴻雁の兄弟の行列をみだらざるは、禮なり。
鴛鴦の雌雄相愛すると、雎鳩の雌雄別あるは、智なり。
鴻雁の去来するに、春秋の期をたがえす、鶏の鳴く時節を違えざるは、信なり。
是れ皆、生まれつきたる一偏の性のよき所なり。
もし、人として此の性を失わば、禽獣にしかずと云いつべし。

十七
 孝弟、忠順、愛敬などは、皆、仁義禮智の性より行い出せる道理にして、其の理は五常の性の内にあり。
性の條目にはあらず。
人の性は唯、仁なり。
わかてば五常となる。

十八
 人たるもの、必ず五常の性を生まれつきたれば、事物にふれて、必ず、四端おこる。
たとえば、物の中にありて、其の端の少し外に見えるが如し。
性は見え難しといえども、外にあらわれる四端を以て、内に實に此の性ある事の證とすべし。
孟子の、性は善なりと説き給るも、五常の性あればなり。
人の性、善なる故、人もし学問し、道を知りて行わば、堯舜の聖にも至るべしとなり。
此の故に、程子曰く、孟子、萬世に功有る者は、性善の一言なり。

十九
 孔子の教えは、常に異なる道にあらず。
即ち、天地の道なり。
天地の道を則として、人に示し教え給う故に、古人の言に、孔子は、天の通事なりといえり。
天地の道は、易簡とて、難しいからずして知り易く、事多からずして行い易し。
天地の御心は、唯、萬物を恵み養い給うより外に、心なければなり。
人にありては、仁なり。
是れ、人の道なり。
仁の道も亦、人をあわれみ養うより外になければ、人の道も亦、知りやすく行いやすし。
仁をわかちて五常となる。
五常の性は、人の心に生まれつきたる理なれば、外に求めずして我に求む。
凡そ外にある物は、求むれども得難し。
我にある物は、求めれば必ず得やすし。
聖人、其の人の心に、各々生まれつきて具足せる道を以て、教え給ば、いかに愚かなる賤の男賤の女も、知りやすく行いやすし。
知り難きは、よく学びざればなり。
行ない難きは、人欲にほだされるればなり。
是れ、道の知り難く行ない難き故なり。
人欲にしたがい、邪曲を行うは、たとえば、闇の夜に、道もなき荊棘の中をわけ行き、溝渠を越えて行くが如し。
危うくして行ない難し。
聖人の道を行うは、たとえば白昼に大道を行くが如し。
明らかにして行ない易し。

二十
 孔子の時は、猶も天下に道理明らかに、邪説なかりしかば、仁の一字を説き給て、義禮智の條目を備え説き給うに及ばず。
孟子の時は、世に異説おこり、道理まぎれやすく、人心迷いて明らかになり難し。
若し、仁の一字のみを説き給ば、無星の秤、無寸の尺の如くにて、天下の人さとり得がたからん事をおそれて、仁義を説き、四徳を説き、性善を説き給う。
凡そ、聖賢の教えは、時によりて宜しきにしたがえり。
たとえば、良醫の、時の運氣により、他の風土にしたがいて、治療をほどこすが如し。

二十一
 我が儒の道は、經濟の道とて、世を治め、人を救う大道なり。
其の学は、有用の学とて、まづ、わが身をおさめて、人をおさめ、人倫の道を行ない、天下國家のため、天地萬物のため、用をなす学問なり。
無用の空言にはあらず。
ここを以て、道理は人の心に生まれつきて、知りやすく行ないやすしといえども、其の道の功用の、いたりて大なること、言うに及ばす。
かく大なる道なれば、などか其の師なく、教えなく、学ばずして、其の道明らかなるべきや。
世間のいやしき小芸藝小技すら、師なく学び無くしては、其のわざをなしがたし。
況や、大道をや。
故に人たるもの、貴きき賤しき、賢し愚なる、ともに聖人の道を尊びて、明師を求め、良友に近づき、其の教えにしたがい、其の道を学ばざらんや。

二十二
 人の心は、唯、仁義禮智の性なり。
人の道は、唯、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の人倫の行ないなり。
五常の外に心なく、五倫の外に道なしと知るべし。
これを知るは、知なり。
これを行うは、行なり。
此の外にさらに心と道とを求むべからず。
如何となれば、天の心、天の道にそむけばなり。
人となるものは、天地の内に生まれ、天地の恵みをうけて、身を終わるものなれば、とにかくに、天地の道を尊び、したがい行うべし。

二十三
 もろこしは、天地の中央にありて、風氣の正しき國なれば、古よりさばかりの聖人賢人世に多く出でて、天下を治め、道を行い、人倫の法を立て、天地の道をつぎ行ない給う。
中について、孔子は、六經を作り、堯舜以来、古の聖人の道を述べ、人倫の教えを立て、天下萬世に残し給う。
是れ、天下萬世の、師とし尊びて行うべき則なり。
故にもろこしも、外國も、其の教えを受けてしたがえり。
しかれば、其の教えの、いたりて尊き事、いえばおろかなりや。
思いやるべし。
ここを以て、古の帝王も、孔子を師とし尊び、其の教えをおもんじ、時々の祭を行ない、其の廟に詣でて、拝禮をなし給う。
わが日の本にも、昔は、都の大学寮に、聖人及十哲の像を安置し、釋奠とて聖人をまつり給う禮ありき。
又、太宰府及諸州にも、孔廟学校ありて、祭禮をなせり。
しかれば、天下の人、貴き賤しき、あまねく其の教えにしたがいて、師とすべき事言うに及ばず。
されど世界の内、聖人の教えを知らで、随はざる國もあり。
それは、孟子のいわゆる、教えなければ、禽獣に近きなり。
是れ、夷狄の、中華に及ばざる所なり。

二十四
 わが日の本は、天地の中央にあること、中華と同じければ、日月のめぐれる道正しく、四時そなわり、寒暑陰陽の時にたがわざること、四夷の諸國に比べるに、すぐれたる善國なり。
五穀豊かに、衣食器財乏しからず。
まことに豊秋津洲といえるも、品物の多くして豊かなる事、外國にまさればなり。
其の風氣正しき故に、風俗和順にして、慈愛ふかく、節義を守りて勇武なり。
禮法正しく、威厳行われ、仁義に近し。
一たび変ぜば、道に至り易かるべし。
此の故に、中土の書にも、此の國を名づけて君子國と云うこと、又、むべなるかな。
わが國の人は、日の本の、外國にまさりて善きことを知らず。
うらむべし。
わが國に足らざる所は、唯、学問の一事のみ、中土に及ばず。
今、太平の化久しく、萬民其の徳に浴せり。
唯、つとめて、古の聖の道を学び、五常の徳をおさめ、五倫の道を行ないて、國家の恩徳をあふぎ、其の化にしたがわざらめやわ。

二十五
 許愼が説文に、四夷を説きて曰く、
南方は蠻と云う、蟲に从う。
北方を狄と云う、犬にしたがう。
西方を羌と云う、羊にしたがう。
ただ東方は、大にしたがう。
大は人なり。
東夷の風俗は、仁なり。
仁者は壽し。
君子不死の國あり。
孔子曰く、道不行欲之九夷乘桴浮於海有以也といえり。
是れ、南蠻、西戎、北狄は、皆、文字も蟲と獣に从う。
唯、東夷のみ人にしたがえり。
日本は、東夷なり。
九夷の内なり。
孔子も中國にて道行われざる故、九夷に居らんとのたまう。
是れ、我が國の、他國にまさりて、人の道ある國なれば也。
又、日本を不死の國と云うも故あり。
日本の人は、もろこし、又、其の餘の國より長命なればなり。

二十六
 五常の和訓、仁は、いつくしみ、義は、よろし、禮は、敬う、智は、さとる、信は、まこと、とよむ。

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