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近代日本語教育とは(1)

近代日本語教育とは

「近代日本語教育」とはザックリ言うと「近代教育」のシステムで行われる日本語教育のこと。
「近代教育」は「一斉教育(1)」を前提とした一斉教育を行う施設、一斉教育を行う教育内容一斉教育を行う教師の養成が連動して行われていることである。「近代日本語教育」は、この近代教育のシステムで行われる日本語教育である。
この観点からすると、いつが始まりなのかということになる。日本の近代教育の始まりは明治5年8月に公布され、明治6年に施行された「学制」に始まる(2)。6月の施行時には海外留学生規則も規定し直した「学制二編」によって形を整えてきた。

(1)佐藤学(1996)『教育方法学』岩波書店 pp.33-35
佐藤は『教育法法学』の中で、授業の成立と制度化の項で近代学校の特徴として五つ挙げている。
  第一、教育内容が国家によって定められた。第二に、学級編成の様    
  式が導入された。第三に、一斉授業の様式が導入された。第四に、   
  学力の評価と競争が組織された。第五に、教師の養成と研修が制度           
  化された。
(2)文部科学省『学制百年史』 二 近代教育制度の創始    
 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317567.htm   
(2023年12月25日閲覧)      

台湾での日本語教育の始まり

 明治に入ってからの日本語教育は実質的には明治14年頃に始まっていたといえるだろう(3)。しかし、「近代日本語教育」としてのものではなく個人の受け入れとしてのものであったようだ。
 2023年の現時点での日本語教育は、1895年、伊沢修二による台湾での日本語教育(後に「国語」教育)を最初としたシステムの延長線上にあるといえよう。

(3)明治十四年 朝鮮国から留学生三名来日、二名は慶應義塾、    
    一名は同人社に入る。木村宗男編(1991)『講座日本語と
    日本語教育第15巻日本語教育の歴史』年表 明治書院

伊澤修二は台湾でなにをしようとしていたのか

1895年7月16日
1895年、下関条約で台湾を領有した日本は民政部門の学務関係の部長に伊沢修二を任命した。伊沢修二は台湾に上陸後、直ちに学務部を開設したとのこと(李春生の家とのこと)。学務事務を始め、日本語を教える教室を開く学生募集にかかったが、占領直後の日本軍、清国兵がまだうろうろしている台北では思うように集まらなかったとのこと。
伊沢修二は台北郊外の士林に目をつけ、そこで学生を募るため、進士の  を訪ねて氏の息子および親戚を学生とすることに同意し、伊沢の元で日本語を習わせることにしたとのことである。
伊沢は士林の芝山巌にある、廟を借り受け、そこを「芝山巌学堂」と名付けて、そこに集まった師弟7名に日本語を教え始めた。それが1895年(明治28年)7月16日であった。

伊沢修二の構想
伊沢修二は台湾で日本語教育を行うに当たって、ただ日本語を教えたいという野心から芝山巌学堂を設置したわけではない。すでに、その学堂は教員養成としての位置づけであったことは伊澤が総督府に提出した文書を見ていけばわかるであろう(4)。
伊沢修二は教員養成の他にすでに『日本語教授書』を用意して教えるべき日本語の内容を準備していたのである。翌年から始動させる「国語伝習所」の台湾語通訳などに巌学堂の修了者を当て、事務も手伝わせていた。
伊沢修二が「国語伝習所」の開設にあって、日本に教員募集に出向いて行ったときに「芝山巌事件」が発生し、学務部員6名が命を落とした。しかし、伊沢修二は台湾での学制を見据えていたことから、尊い命を礎として、さらに伝習所構想をに進んだ。第1回の伝習生は「芝山巌学堂」で教員養成を行った。
ここまでの過程を見ていくと、教員養成としての施設は「芝山巌学堂」、「国語伝習所」は14カ所で一斉教育を行う施設、「日本語教授書」は教えるべき日本語の内容といえ、伊沢修二はまさに日本語教育を近代教育として構築することを考えていた証である。

新領地臺灣敎育ノ方針ハ、大體分テ二途トス
第一目ハ、目下急要ノ敎育關係事項
第二永遠ノ敎育事業是レナリ。
 目下急要ノ敎育關係事項
一、彼我思想交通ノ途ヲ開クベキ事
(甲)新領地人民ヲシテ速ニ日本語ヲ習ハシムル方法ヲ設クベシ
(乙)本土ヨリ移住セル者ヲシテ、日常須要ナル彼方言ヲ習ハシムル方法ヲ設クベシ
   右ニ項ノ目的を達スルタメ
(一)近易適切ナル會話書ヲ編輯スルヲ要ス。之ニ要スル人員ハ、彼方言ニ通ズル者、支那南邊語ニ通ズル者、英佛又ハ獨語ニ通ズル者、和漢文學ニ通ズル者トス。
(二)日本語及彼方言傳習ノ途ヲ開クヲ要ス。之ニ關スル設備ハ、官衙等不用ニ屬スルモノヲ以テ傳習所ニ充ツベシ、通譯官ヲ以テ其敎員ニ充ツベシ、日本語傳習生ハ主トシテ新領地人民中ノ官吏志願者又ハ中等以上ノ地位アル者ノ子弟、彼方言傳習生ハ、主トシテ總督府ノ所屬員又ハ總督府ノ許可ヲ受ケタル者、傳習所外ニ於テモ日本語傳習ノ途ヲ開クベシ。

二、文敎ヲ尊ブノ主意ヲ一般人民ニシラシムベキ事
(甲)新領地ノ秩序稍ヤ立ツヲ待テ文敎ヲ尊ブ主意ヲ告諭ヲ發スベシ
(乙)文廟等ヲ神聖ニ保チ且之ヲ尊崇スルコトニ注意スベシ
(丙)支那朝ニテ取用セル科擧考試ノ法ヲ破壊セズ、郤テ之ヲ利用スベシ。例ヘバ新領地人民下等官吏ニ採用スルニモ、試驗科目中ニ日本語ノ端緒ヲ加ウルノ類ナリ。

三、宗教ト敎育トノ關係ニ重キヲ置クベキ事
(甲)耶蘇敎ノ宣敎師等ヲ待遇スルノ方法ヲ誤ラザルヲ要ス
(乙)本土ヨリ派出セル各宗ノ布敎師ヲシテ、適當ノ範圍ニ於テ布敎セシムルヲ要ス
   右二項ノ目的ヲ達スルタメ、宣敎師トノ交際ニ注意シ、且時々敎會敎院等ヲ巡問スベシ。之ニ要スル人員ハ、英語ニ通ズル者、佛語ニ通ズル者神佛二敎ニ關スル知識アルモノトス
四、人情及風俗ヲ視察スベキコト
  敎育ハ人心ヲ根底ヨリ醇化スベキモノナレバ各種ノ會ニ渉リ深ク人情風俗ヲ察シ、之ニ適應スベキ敎育法ヲ設クルヲ要ス。故ニ當初ニ在テハ、當局者特二此般ノ視察ニ注意セザルベカラズ。

   永遠の敎育事業

一、臺灣總督府所在地ニ師範學校ヲ設ケ、之ニ模範小學校ヲ附属セシムベキコト。
 之二關スル設備ハ
(甲)師範學校ノ分、校舎校地ハ官衙等ノ不用ニ屬セルモノヲ以テ之ニ充ツ。學校長ハ本土ニ於テ敎育上ノ經驗アル敎育家ヲ以テ之二任ス。敎員ハ日本語學ニ通ズル者、高等師範學校又ハ東京師範學校ヲ卒業セシモノ、其他適當ノ資格アルモノ、生徒ハ内地人ニシテ尋常師範學校ヲ卒業セシ以上ノ者、新領地人民ニシテ從前縣試ヲ經タル以上ノ者。
(乙)模範小學校ノ分、校舎校地ハ前ニ同ジ、敎員ハ師範學校ノ上級生又ハ其卒業生ヲ以テ之ニ充ツ。但最初ハ極テ速成ノ者ヲ用フ。生徒ハ最初ハ中等以上ノ人民ノ子弟ヲ入レ、漸次下級ノ人民ニ及ボス。

二、師範學校用及小學校用ノ敎科書ヲ編輯スベキ事。編輯ヲ要スル圖書ハ日本語學書、讀本、修身、地理及史、之ニ要スル人員ハ、師範學校敎員、編輯事務ノ者
三、各縣所在地二漸次師範學校支校ヲ置キ附属セシム。之二關スル設備ハ、
(甲)師範學校ノ分ハ校舎校地ハ前ニ同ジ。
   敎員ハ本部師範學校卒業生、其他適當ノ資格アル者
(乙)模範小學校ノ分ハ校舎校地敎員生徒皆前ニ同ジ

四、總督府所在地又ハ各縣設置ノ模範小學校整備スル二至レバ漸次各地ニ小學校ヲ設置スベシ。本文小學校設備ノ方法ハ大體前ニ記スルガ如シ。尤其校舎校地ニ就テハ、現用ト否トヲ問ハズ、以テ官衙及官地ノ不用ニ歸スルモノアル毎ニ努メテ之ヲ保存シ置キ、將來之ニ充用スルノ注意ヲ怠ラザルベシ。

五、師範學校ノ學科整備スルトキハ、之ニ併シテ農業、工業、等ノ實業科ヲ設クルヲ要ス。是レ臺灣ハ將來殖産興業ノ要地トナルベキ所ナレバ、其敎育方針モ實業ヲ主トスベキヲ以テナリ。

右ハ當初數年間ニ施設スベキ敎育事業ノ概要ヲ示スニ過ギズ。進デ學制ヲ布キ、學區ヲ設ケ學齡就學ノ法ヲ行フガ如キ、中等以上ノ學校及各種專門ノ學校ヲ興スガ如キハ、尚幾年ノ後ヲ期セザルベカラズニヨリ、今此ニ之ヲ述ベズ要スルニ敎育ノ事業タル素ト精神上ニ屬スルモノナレバ、其法規明文ノ燦然光輝ヲ放タンヨリ、寧ロ不言不文ノ間ニ其實功ヲ收メンコ



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