アニメを見てる

3月20日だ。ひさびさ……と言いたいところだけど、すこし前に書いた記事を取り下げたので、あんまり久々って感じはしない。勢いで触れた内容だったけど、後から読み直したらちょっと明後日の方向の話をしてるな、と思ったので消した次第だ。上げ直しはたぶん、しないと思う。

んで、最近はあれこれアニメを見ている。当初は先日放送した配信を考えることから逃げ出す現実逃避のための手段だったけど、放送で特になにも発狂する情報が出ず(いや、最初と最後は叫んだけど)ある意味すべてが杞憂に終わったいまも、「まだ見るか」って気持ちでいる。

なぜかと言えば、「じゃあ見るか」って重い腰を上げて最初に見た作品がケムリクサで、それがべらっぼうに面白かったので、そのあまりにもスゴイ成功体験ゆえ今もあれこれ続けて見てる……という感じだ。

1クールのオリジナルアニメ、というものに対して並々ならぬリスペクトを抱いている私(そして友人)にとって、ケムリクサはかなりの衝撃だった。いやマジすごかった。面白すぎてのけぞった。だって最初から最後まで「早く続きが見たい!」ってドキドキで見てた。

一瞬もだれることなく感情が上向きに登り続けて、それが最終話でいっちばん上にたどり着いて、放心するぐらいの興奮と安堵と感動で終わった。すごすぎた。マジで、あんまりにも完璧だった。泣いた。

ほんとうになにもかも「物語」としてお手本の作品だったと思う。「面白さ」を創るために必要なことをひとつひとつ丁寧に積み重ねれば、ああいう作品ができるんだな、と唸らされた。けもフレがすごくセンセーショナルに祀り上げられていた意味が、ケムリクサを見てやっとわかった。あれはそういう感情を産み出すにふさわしい物語で、たつきという人は、その評価にふさわしい作り手だ。

私はバディ・コンプレックスというアニメが大好きで、なにかあれば友人と一緒に引き合いに出すくらい私たちの中では「最高に面白い」って評価をしてる伝説の作品だけど、本当にそれに並ぶくらいのアニメだった。

バディコンは最後まで「これお話終わる?畳まる?」ってハラハラさせられて、でも最終話で一気に伏線を回収しにきて、その見せ方があまりにも鮮やかでそこに射抜かれた作品だったのでケムリクサとはまた在り方が違うアニメだけど、見てすぐに「1クールオリジナルアニメ」のトップ5に並ぶアニメになった。

で、この鮮烈体験があまりにも凄かったので、そこからいろいろ勧められたアニメを見ている。ケムリクサのあとは入間くんを見てキリヲ先輩にキンブリーちゃん(鋼錬)の香りを感じて嬉しくなったり、以前から友達が勧めてくれていたまりんとメランを見て、しんどさと辛さとそこに対比して照らされる希望と愛にだいたいずっと泣いていた。

2クールアニメを立て続けに2本を見るのは私にとってはなかなかすごいことで、ついでに入間くんなんかは自分だけじゃ死んでも見ないだろう作品だったので勧めて貰えて嬉しかったし、古き良きアニメの作りが心地良かった。

基本的に体験するものに対してあまりつまらなさを感じない人間なので、どれも楽しく視聴している。でも、そういうのを抜きにしても、こうやってインプットのために能動的に動けている現状は心地いい。いつもならなんにしても腰の重い私が、あれこれ次はなに見よう、って手を出せているからだ。

私は「好き」に対してのコンプレックスがデカイせいか、ポジティブな感情を信仰しがちなところがある。よく考えれば上の、「あまりつまらなさを感じない」というのも、ここのコンプレックスが関係してるような気もする。

だから……と言ったら変かもしれないけど、要するに、「楽しい」「面白い」という気持ちを感じられている今が、私を赦してくれているような気がするわけだ。だから、つまりは、「うれしい」のだ。

相変わらず赦しかよ、という話になる。いやでもこれがマジだからしょうがない。私は赦しを求めるモンスターで、そっからは逃れようもないのだ。

んで、いまはよりもい、宇宙よりも遠い場所を見ている。これは自分で見ようと選んだ作品で、以前からずっと見なくちゃなあと思っていた宿題アニメだ。やっと手をつけらけた。のんびり見ているけど、清々しさと垣間見えるほろ苦さが実に青春って感じ。これもだいたい泣いてる。

てなわけで、現在の私はアニメをインプットしまくっているオタク女、といういかにも一般的な存在だ。インプットをし続ける楽さにたゆたって、アウトプットは時の彼方。ホワイトデーに話は書いたけどね。

あれこれやってるけど、今の私になってから好きになったものは今もちゃんと好きだし、その好きはあくまで自発的なものだ。それが私にとってはいちばん大切で、大事で、失くしてはいけないものなんだと、最近もう一度深く実感している。

それでいいんだよなぁ、と思う。以前の私は、今よりももっと狭い世界で私だけの好きを盲目的に追っていた。それが現在の縁に繋がっていたりもするから、決してそうして自己に埋没することも無意味ではないんだと思う。

好きという想いは大事だ。大切だ。私にとってすべてを燃やす命だ。それが他者にとってはあまりに軽薄だとあざ笑われるものでも、私だけはそれを離しちゃいけない。ひとりぼっちでも、周りに誰もいなくても、いや、だからこそ私は私だけから産まれる「好き」を見つめられる。赦せるのだ。

そういえば今日はマヤ暦で人類滅亡の日だっけ。私は私を赦せてる。愛せてる。そんな気持ちの中でもしもほんとに死んじゃえるのなら、悪くない人生だったと素直に思えるかな。死ぬのはこわいけど、充足を抱いて死ねるのは、きっと掛け値なしに幸せだ。

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