8月が終わる。つまらないけど、奇跡はある

そんな8月31日だ。明日には「9月だ」のなにかを書けているだろうか。書けていたらいい。

過去の投稿あれこれを読み返していたら悲喜こもごもと言った様子で面白かったのでやっぱり書くことは大切だと思った。書くことは私の自己表現で、救済で、最高の暇つぶしだ。すべてが詰まってるからこそ、私は20年くらい、誰にも読まれないものを延々に書いてる気がする。

最近、はポケモンカフェに行ったり、すこし前にsuicaのペンギンのアフタヌーンティーに行ったり、各種コラボカフェに行ったりした。Switchを手に入れたあとだ。友達の家であつ森と宅飲みもやった。コロナだしやる気もないしでほとんど出かけなかったけど、どれも楽しかった。来週はまたアフタヌーンティーに行く。ひさびさに仲間内全員が揃うので楽しみだ。みんなげんきかな。

とは言え、気持ちはうまく定まってない。好きなものに目を向けるのと同じ目線で嫌なものに目を向けてて、今までここまで根深かったことはなかったからすこし、参っている。

たぶん、好きなものをうまく、まっすぐ、好きだと思いきれていないからだと思う。それは外部のあれこれというよりはそれに伴った気持ちの問題で、時間が解決するものなのかなと思っている。それにしては長引いていて、そこに困ってるんだけど。

胸をかきむしるような、内臓が焼けるようなくらいの苦しさはないけど、ぼんやりと「いやだな」と思ってしまう。好きなものを見るのと同時に、そっちに目を向けてしまう。それがいやで、なんとなくずっと、好きなものをまっすぐ見るのを尻込みしている。ずっと、嫌なものがちらついてしまう。

なんていうか、私はどこまでいっても、恨むことや憎むことから離れられない人間なんだなぁと痛感している。自分の環境に、「敵」を作らずにはいられないんだなぁと。そういう自分の中の闇が深いから、視界の先にどこまでも光を求めるのかもしれない。

このまま嫌いになってしまうのかなぁ。ぼんやりと考える。外部要因もあるから、そうなっちゃうのかな。でも、いつか薄れて消えてくれるかもしれない。それは無関心なのかもしれないけど、嫌いになるよりは、ずっといいなあと思う。

今は話を毎日書いてる。相変わらず反応がなくてへこんでるけど、書くのはたのしいので正反対の気持ちに相変わらず困っている。本当は8月から始めたかった企画だけど元気がなくて、放置していたのを唐突に始めて先週くらいからやってる形だ。

いつもは書かない子たちで好きにやってるけど、いつも通りのようで、そうでもないようで。でも、道中である「いま」でも、「よかったな~」とは思っている。いつもは書かないような子たちの、いつもは描かないような景色を描けて、よかったな、と。そう、思っている。

昨日は、上の理由であまり触れていなかった好きなふたりを久々に書いた。前に記事で書いた動画を、再確認する機会があったからだ。昨日は出かける用事もあったから予め投稿する話を用意していたけど、そレを見ていたらどうしても書きたくなってしまって、書いた。

書いた後はきっと誰も見ない話だろうなとは思ってたし、実際に今も反応はない。でも、ひとりごと用のついったの中で、「あの番組を見ていなかったらあの話は存在しなかった」と書いていた私の言葉に、なんとなく胸が締め付けられた。

あのとき私があの番組を見て、書きたいと思って、そうやってキーボードを叩いたからあのふたりの景色は生まれたし、それを私はどれだけ経っても、そうだったこの時の私を確認できる。

それは素直にすごいことで、素直にとんでもないことだ。私の反芻は私の努力と気力以外に生まれない。それを実感して、すこしだけ泣きたくなった。つまらないけど、奇跡はある。

つまらない人生だけど、そういうこともある。そういう奇跡もある。たぶん、日々そんな歓びは満ちあふれている。ほんとうに。暑くてねむい。報われたいから、報われてほしい。そう願うこと、祈ることを、赦してほしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?